「フランスの大人たち」冬時間のパリ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
フランスの大人たち
原題の「Doubles Vies」は直訳すると「ふたつの人生」となる。もう少し踏み込むと、人生に裏と表がある、つまり二重生活の意味となる。
アルファベットのWは英語だとUがふたつで「double U」ダブリューだが、フランス語の場合はVがふたつで「doubles V」ドゥブレヴィである。この発音は本作品の原題と同じなのでタイトルは「W」でもよかった。少し洒落た話である。本作品は「夏時間の庭」(原題「L'heure D'ete」)と同じ監督だから「冬時間のパリ」にしたのだろう。この邦題は悪くない。
高校の必須科目に哲学があるほど哲学好き、議論好きのフランス人ならではの映画である。どんなに議論が沸騰しても誰も感情的にならない。これがアメリカ映画だったら必ず殴り合いに発展するだろう。アメリカ人にとってはそのほうがリアルだからだ。
他人の意見に寛容であると同時に、フランス人は浮気にも寛容だ。日本の男性タレントが「不倫は文化だ」と言ったとかいう話があったが、フランスでは文化とまでは言わないにしろ、人間性のひとつというか、ある意味でやむを得ないものとして認められているように思う。
さて本作品は二組の夫婦を中心とした人間模様のドラマである。配偶者が浮気をしていることを薄々感じながらも、夫婦としての愛情も維持している。浮気を隠してはいるが、バレることを恐れてはいない。このあたりは儒教的な教育を受けて倫理に厳しい日本人にはなかなか理解できないところだ。
延々と続く会話は、電子書籍の話であったり、小説の話や政治の話、時には浮気の話であったりする。その会話のいずれもが、男と女の間で微妙に論点がずれて噛み合わないのが面白い。たとえば政治に関する議論で論点がずれていると感じたのは、男の作家が現実の政治を批判したのに対して、別の作家の妻が理想としての政治を擁護したところだ。作家の妻は政治家の秘書でもあり、自分の立場を正当化するためにも政治を前向きに捉える必要があるのだ。それは作家の妻が必ずしも頭の回転が速い訳ではないことを示している。しかし一方で、夫である作家の浮気の兆候には敏感だ。女の本能は頭のよさとは無関係なのだ。
微妙に噛み合わない議論は製作者の狙いだろう。噛み合いすぎて論争に発展したら物語にならない。人の意見をちゃんと聞く。自分の意見もちゃんと言う。結論を出す必要のない議論では結論を出さずにおく。みんな大人である。大人と言っても、日本人の大人と違って、互いの意見の相違を受け入れる寛容さや、性行為をレジャーのように楽しむおおらかさは流石に自由の国フランスである。
本作品はフランスの大人たちの精神性をあけすけに描いてみせた。当然ながら子供は登場しないし、子供みたいな精神性の大人も登場しない。誰もが少しずつ自尊心を傷つけられるが、だからといって激昂したり恨んだりしない。こういう鷹揚な精神性に触れてホッとするというか、自分のせせこましさを反省するというか、人間そのものを肯定してもいいのかもしれないと思わせてくれる作品である。
ジュリエット・ビノシュはこの作品でも輝いていて、妖艶だったり、ただのおばさんに見えたり、大人の女のたくましさを見せたりと、多面的な演技をしていた。それは人間の存在が多面的であることに通じていると思う。最後のオーディオブックの話ではジュリエット・ビノシュに朗読を頼もうという楽屋落ちみたいなギャグも入れ込んでいて、製作者がこの作品を楽しんで作ったのが伝わってくる。