女王陛下のお気に入りのレビュー・感想・評価
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私は嘘をつかない、それが愛よ
強欲というよりは、業欲と言うべきか。
そんな深い泥沼の様な醜悪な愛憎劇。
一見きらびやかな王宮の裏側を垣間観せられた。
そのきらびやかさを演出してた当時の様相が、醜態を表している。あの裏に一般の国民の苦痛を見出すのは、考えすぎか?
国を司る立場で在りながら、自己愛の執着から逃れられない悲劇。人類史の儚さを見せつけられた。
深いな内容なのに、興味深く惹きつけられる。
故人的ではあるが、エンドロールも個性的でスクリーンで眺めたかった。
重たい重たい、重たい愛憎を描く一本
邦題から受ける、どことなく穏やかそう、楽しそうなイメージとは裏腹に、とてもとても、とてもとても、とても重たい愛憎劇の一本でした。
本作は、別作品『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』が素晴らしかったヨルゴス・ランティモス監督の手になる作品ということで観ることにした作品でしたけれども。
どうやら、家族や疑似家族(?)という、比較的近しい人々の愛憎を描くことを得意とする監督さんのようです。
どなただったか、ハンドルネームを失念してしまって、この作品に気づかせてもらったことにお礼が言えないのですけれども。
さすかに、海千山千の猛者揃い(?)の映画.comレビュアーをして「優れた愛憎劇」と言わしめるだけのことはあったとも思います。
本作についても、将来の国の命運を賭けた国家の維持(植民地の版図確保)のためには避けることができず、しかし、その戦費調達のための増税策に反対も声高に囁(ささや)かれる戦争のさなかにあって、その上に病にも押されがちな女王の双肩にのしかかる重圧は並大抵ではなかったことでしょう。
その一方で、没落貴族であるアビゲイルにしても、これからの「食い扶持」を確保するために宮廷に食い込むことをしくじる訳にはいかない。
そして、女王付の女官には、侍官としての面子・立場がある。
三者の重圧が三方向からまったく互角に衝突して、メリメリと軋(きし)む音が、画面の向こうから聞こえてきそうな気すらします。
そして、その圧力に押し負けて、いわば遠くまで弾き飛ばされてしまった(国外追放)現職の女王付女官のサラ。
本作は、別作品『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』での演技が、とてととても素晴らしかったエマ・ストーンの出演作品でということでも注目していましたが、期待を裏切らない重厚な彼女の演技にも、十二分に得心のいく、一本でした。
佳作であったと思います。評論子は。
<映画のことば>
私の心には「信頼」という発想がないし、黙って潰されはしない。
それは、あなたに習ったこと。
私を許せば、幸せに暮らせる。
(追記)
当たり前といえば、当たり前なのですけれども。エマ・ストーンにしても、別作品『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』で演じていた信念に燃えてはいても、どこか清々しかった、主人公を演じた彼女とも思えないほどでした。
こうも人格までもが変わってしまったかのように「役に入り込める」なんて、さすがはプロの女優さんというものです。御三方とも。
その「底力」を見せつけられた一本であり、映画というとものを見続けて行くことの「楽しさ」「奥深さ」ということにも思いが至った一本になりました。
キューブリックがお気に入り
ヨルゴス・ランティモス自身の脚本ではないため、やる気半分のやっつけ映画だったのではと、勝手に想像して今まで鑑賞するのを控えていた1本なのです。アン女王の寵愛を受けるため側近の座を巡って2人の女官が醜い闘いを繰り広げるブラック・コメディは、ちょっと見フェミニズム・ムービーのような印象を受けるのですが、ランティモスが意図したことは全くの逆だったような気がするのです。
アン女王(オリヴィア・コールマン)が居を構えるお城の中の豪華な部屋や廊下、周辺の森の風景を超広角レンズで映し出したショットに軽い目眩を覚えながら、ちょっと待てよこれと似たシーンを遠い昔にどこかで観たような.....そう、スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』と同じ撮影法であることに気がついたのです。暴力をまるで人間の本能であるかのように描いた超問題作を、どこぞの名画座で『シャイニング』(アンが弱っていくくだりはこっちかな?)と二本立てで鑑賞した時のことを思い出したのです。(ちなみにロウソクシーンは『バリー・リンドン』か)
それはランティモスの確信犯的な演出だと思われるのですが、なかなかあっさりと真意にたどり着かせてくれないところが、この監督の深い魅力でもあるのです。私が思うにこの映画、人間とくに女性の複雑な“本能”についての作品なのではないでしょうか。コンプレックスや嫉妬にとち狂ってライバルを暴力的に排除しようとする(『時計じかけ.....』のアレックスのような暴力ための暴力を使った)女性同士ならではの冷酷な生存本能だけではないような気がするのです。
アン女王をSEXと言葉責め?で意のままに操っていたサラ(レイチェル・ワイズ)が侍女のアビゲイル(エマ・ストーン)の策略によってその座を奪われてしまいます。和解のためサラが女王宛に認めた手紙を読んだアビゲイルが、その手紙を暖炉で燃やしながらふと涙を流すシーン。『ブレードランナー2049』のラブが女性警察署長殺害の時に流した涙と同じ“不可解さ”を私は感じたのです。男性だったら間違いなく、相手に対して圧倒的優位に立ったことを確信し不敵な笑みを浮かべるところを、なぜアビゲイルは涙したのでしょうか。
死産や流産、病死で失った子供と同数の17匹の🐇を飼っていたアンは、「私は“愛”が欲しいのよ」と言って結局サラを城から追いやり、表面上自分に何も求めてこないアビゲイルを選ぶのです。そのアンを利用していたサラやアビゲイルもまた、けっして打算だけではない愛情をアン女王に抱いていたのではないでしょうか。誰かに愛されなければ生きていけない女性の悲しい“本能”。(『ブレードランナー2049』のラブや)アビゲイルは、女性ならではのその本能に気づいて涙を流したのではないでしょうか。
フランスとの和平を望むハーレー卿(ニコラス・ホルト)が陰ではアビゲイルに平気で暴力を振るう下衆野郎として描かれているため、本作をマチズモ批判のフェミニズム映画と勘違いされた方も多かったことでしょう。しかしラストでは、女王アンに杖替わりに頭を上から押さえつけられ、屈辱感を顕にするアビゲイルが、(アビゲイルが踏みつけにした)🐇ちゃんたちの姿にオーバーラップしていくのです。所詮死んだ子供たちの代替えにすぎないことを身を持って知るのです。たとえお金があって身分を保証されていたとしても、“愛”なしには生きられらない存在であることを思い知らされるのです。
特別映像も、何度でも観たくなる!
女性3人のパワーバランスに関わるあれこれは、実際すごく身近にもあるわけで。でもやっぱり、国を動かす権力だとか、再び良い身分にのし上がりたい!というような野望が絡んで来ると、サラとアビゲイルの戦闘モードともいえるエネルギーが半端ないです。
なので、アスリートの陸上競技を応援し終わった後のような、徒労感がこちらにも押し寄せて来ます。役者さん頑張り過ぎ…かな。監督の過去の作品見ちゃうと、そうなってしまうのか?才能には才能で応えたくなるような。
映像の元が美しく、そこへ到達するまでのこだわりが半端ないです。ボーッと字幕も読まずに観る、そんな鑑賞にも耐えられると思います。ただ、音楽が一筋縄で行かないから、無理かもしれませんが。
それにしても、この作品の構想から、実現までの道のりを、むしろ観たいかも。誰がお金を出しますよと言い、キャストはもちろんクルーも、どうやって揃え、まとめて行ったのか。主演の3人は3週間のリハーサルがあったそうだから、その間に裏方は詰めて行ったのかな?
最近の映画は、どんなに凄くても、どうせCGでしょ?と思ってしまうのが、この映画には無くて。それが本当に凄い!と、思いました。
ところで、女王様のオリビア・コールマンさんと、日本の女優、平岩紙さんが似てるな…と思えたのは、私だけ?
18世紀を覗き見
画が綺麗。
お話はドロドロ。
映画から押し寄せる圧がすごい。
そんな映画だった。
この感じ、嫌いじゃない。
いきなりアンの部屋に圧倒されてしまう。
魚眼レンズを使ったカメラワークで見せてくれる。
まるで18世紀を覗き見している感覚。
原因不明のゴワーンって不気味な音。
なんの音なんだ〜!
見ていてほっこり落ち着かない。
なんだか居心地が悪く、不安定な感じで進んでいく。
もっと宮廷の装飾品を楽しみたいのに。
二回目は音を消して、ところどころで一時停止しながら画を楽しもう。
ジャンルの中にコメディと記載されてましたが。
ある意味女王陛下のお気に入りになる為やり合いがコメディと受け止めれるかも知れないが笑えるタイプでは無かった、もっと軽い感じかと思ってました。
お気に入りってそっちの意味もあるのね、多分。
既視感はベルばらだった
ストーリーが進むにつれこういう話なんだと、どんどんエスカレートしていき最後の最後までぶっちぎった感のある、ある意味潔くも勇ましい女の世界。女王陛下を題材にこれってぶっ飛びますよね!ここまでさらけ出してくれるとなんだか快感でもありました。それと館の内部、貴族の生活の様子、何より女性のドレス、この懐かしさはなに?と考えていたらベルばらの漫画で見たあの煌びやかさだと気付きました。
女王陛下のお気に入りの座をめぐっての女と女のバチバチバトル。 始め...
女王陛下のお気に入りの座をめぐっての女と女のバチバチバトル。
始めは純なアビゲイルも地位と欲に染まっていく。
人間の心の移り変わりや、変わった愛の形。よく描かれていたと思う。
それぞれの演技も光っていたし、映像も良かった。
楽しめました。
映像で人間心理を描く見本
カメラワークと陰影の使い分けで人間心理を表現する手法には感服します。
特に宮殿の中を人が動く場面で、超広角レンズで撮った「覗き見」感覚映像が多用されていて特徴的です。
主役三人の演技も秀逸です。いろんな映画サイトで「コメディ」のジャンル分けされてますが間違いです。むしろシリアス劇なのでご注意。
飾りを捨てた女達の宮廷愛憎劇
単なるドロドロした愛憎劇ではなかった。本作は、史実と愛憎劇を巧みにブレンドしていることと、宮廷を舞台にしたことが奏功している。ブラックユーモア、卑猥な台詞は飛び交ってはいるが、気品ある三人の女達の宮廷愛憎劇として出色の出来映えの作品である。
本作の舞台は、18世紀初頭のイングランド宮廷。アン女王は、健康に恵まれず、優柔不断であり、大切な決断は、側近のサラ(レイチェル・ワイズ)が牛耳っていた。ある日、サラの従妹と名乗るアビゲイル(エマ・ストーン)が召し使いとして雇われる。そして、サラとアビゲイルは、女王の側近の座と、寵愛を得るために、激しく競い合っていく・・・。
ハラハラ、ドキドキするストーリー展開に加え、左右/横の動きを極力排除し、奥行きへの動きを多用したカメラワークが効いている。横の動きは平面的であり安心感があるが、奥行きへの動きは立体的であり不安感がある。観客の不安感を煽っている。全編、落ち着いて観ることができない。
男勝りで強気なサラ、柔らかで狡猾なアビゲイル。彼女達の虚々実々のバトルが本作の真骨頂である。一切の虚飾を排除した、剥き出しの本性のぶつかり合いは、凄みがある。理性という鎧で本性を隠して生きている私の心を強く揺さぶる。権力奪取という欲望を満たそうとする彼女達は超利己的であるが、その眼は輝き生気に溢れている。反面教師かもしれないが、彼女達の生き方は人間らしいからである。
一方、サラとアビゲイルに翻弄されるアン女王は、彼女達の渇望する権力の頂点にいるが、迷い続けている。悶々としている。物質的な豊かさを享受しながら、権力を持て余し、精神的な豊かさを求めている。女王の姿は現代人の鏡のようであり切ない。
本作は、本性のままに生きる女達を描くことによって、組織に縛られて身動きが取れず、没個性化している現代人への鋭い問題提起をしている。人間らしさとは何かを深く考えさせられる作品である。
筋金入りの変
ドラマシリーズの「SPEC」のwikiに、こんな記述がある。
『一方、今井舞は同じく『週刊文春』のドラマ記事で「今期ワースト」「全てが『これ、面白いでしょ』の押しつけ」などと批判している。』
(ウィキペディア「SPEC〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜」より)
むろん、これはマイナス意見の切り抜きで、同ドラマは、日本の代表的な異色ドラマとして語り草になっている。──が、「押しつけ」には同意できる。
SPECでなくても、多数の日本の映画・ドラマの演出で『これ、面白いでしょ』の押しつけ」を感じることが、よくある。
個人的に、よく感じるのは『これ、面白いでしょ』の押しつけ」というより『こんな世界を描けちゃってる俺/私って凄くない?』という感じ。
なんていうか、描写を過剰にしているだけなのに、どや顔でそれを誇っている感じ。園子温に代表されるようなスタイル、とでも言えば解りやすい。(と思われる。)
この「どや顔」を(個人的にはほとんどの)日本の映画・ドラマで感じる。
それゆえ、ランティモスの映画は、その(日本映画の)対極にある。と思う。
籠の中の乙女、ロブスター、鹿殺しときて、本作でもランティモスは、奇矯な世界を、涼しげな顔で描いている。「涼しげな顔」とは「どや顔」の対比であって、じっさいは涼しい世界ではないが、言うなれば『僕の描く世界は凄くないし、ぜんぜん、ふつうですよ』みたいなポーカーフェイスで、ゆがんだ世界を描いている。
もし日本映画が「どや顔」をしなければ、それだけで、クオリティが倍増するだろう。
つまり、日本映画のもっともクリティカルな弊害は、監督が映画というものを『天才的な人しかできない、とってもエラい(崇高な)仕事』だと、捉えていることにある。と、わたしはけっこう本気で思っている。(この感慨を裏付けるような日本映画がとても多い。)要するに謙虚じゃない。謙虚じゃないから「どや」りが、画からにじみ出てくる。
勝手な持論に過ぎないが「どや」りは日本映画だけに存在する特長で、黒澤と小津が日本映画にもたらした負のレガシーである。
(もちろん黒澤・小津はわるくないが、天才すぎる双頭が「映画監督はスゲえ存在なんだぞ」──と、後世に及ぶポジショニングをしてしまったゆえ、それに浴する凡人があらわれる、という仕組みがつくられてしまった。←ばかっぽいロジックだけど、自信のある持論です。)
むろん、このレビューで日本映画/映画人を持ち出しているのは、とばっちりだが、ランティモスと並べると大人と子供な対比になるので、牽強付会を承知で比べてみた。
わたしは、籠の中の乙女(2009)にたいへんな衝撃を受けた。いったいこのひとたちはなにをやっているんだろう?なぜ?なんで?どうして?・・・。
だが、もしランティモスが籠の中の乙女をどや顔で描いていたら──「どうだい、不安だろ、怖いだろ、不可解だろ、いったいなにをやっているかって、衝撃受けるだろ?」みたいな承認欲求がにじみ出てしまっていたら──籠の中の乙女は「ふつうの変な世界」だったと思う。
すなわち、監督のどや顔=承認欲求の有無だけで、映画のクオリティは雲泥になる。
なにくわぬ顔で描かれている、奇妙な世界が、どんなに凄いか──を、わたしはランティモスの映画で知った。
ただしランティモスの凄みは、たんにポーカーフェイスで描いているから──だけではない。本作は、アカデミー賞(助演女優)をもたらしているが、メジャーになっても根底にある、歪(いびつ)な世界観はブレておらず、とうぜんクオリティの重心は、作風によるもの。世界中どこを探してもランティモスみたいな映画はないし。ランティモスを見たあとでは近年のデイヴィッドリンチさえも「どや」りを感じてしまう。
籠の中の乙女を見たとき、これは「ヤバい」世界だと感じた。禁忌な感じがした。公的にするのはいけない気がする映画だった。だから、ハリウッドに招聘され映画をつくったことに驚いた。ヨルゴスランティモスの映画に、なんでアリシアシルバーストーン(鹿殺し)が・・・。解るだろうかこの感じ。ランティモス映画に米英のメジャー俳優が出てくるロブスターにも鹿殺しにも本作にも、──なんというか呉越同舟な魅力がある。禁断の世界の描き手がエマストーンを使ってしまう面白さ──がある。
野心的な下女が、成り上がっていく話。
なんとなく、のんきな、滑稽感もある気配ではじまるものの、じょじょにHarshな肌感へと変容していく。個人的に、見えたのは愛憎と「依怙地」である。アン女王(オリヴィアコールマン)はいわゆる癪症だが、脚の疾患をかかえて、それが促進されている。ほんとはサラ(レイチェルワイズ)が好きなのだが、好きを表現するのが、なんとなく悔しい。好きなんだろ──と図星を突かれて、反撥したくなったことはないだろうか?おそらく内懐は、そんな他愛ない葛藤であろうと思う。ただ女王ゆえに、気まぐれが、徹底した残酷な排斥へとつながっていく。その女王の気まぐれに加えアビゲイル(エマストーン)の戦略性にサラは嵌まってしまう。みすみす「お気に入り」を追いやってしまう、にんげんの矛盾した心象が描かれていた。豪奢な宮廷を超広角でとらえる撮影にも瞠目した。
セリフ回しにドキっと。
もー!
レイチェルワイズ演じる公爵夫人のセリフにビシビシきました!
女王陛下をアナグマと罵り、正直に罵る事こそが愛だと言う彼女が好きだわ〜!
一方、美しく強かな野心家のエマ・ストーン演ずる侍女。あの大きな美しい瞳と少し歪んだ口元がこの役にピッタリ。
ところどころ挟まれる裸の貴族の男にフルーツをぶつけるシーンや、娼館なども出しすぎない程よさがよかった。
重要作
キューブリックな広大な閉所で内側から蝿の如く腐敗するクローネンバーグな肉体。
汚物に大量の香水を振った如き腐臭漂う空間でそれ以上にそういう話が容赦無く進む。
露悪的でいてエレガントなザ・女優三人其々の代表作。
この手では20年に一本の重要作。
内容より女王の演技が光った作品。
なんかもっとドラマチックな展開なのかと思っていたのですが、
本当にタイトル通りの「お気に入り争い」を描いた内容でびっくり👀
どの世界も自分のYESマンを揃えて気持ち良く生きる。
それがTOPの王道かも?
私というお気に入り
女王陛下のお気に入り。
それは自分を取り合って競う二人の女性のどちらでもなく、まぎれもなく女王陛下本人を指す。
「私を取り合うなんて最高ですもの。」
清々しく開き直り、生き物の本質的な正体を暴く強烈な一言。女王陛下は、女王陛下ゆえに、素直で気まぐれで、複雑で辛い生き物だ。
とりもなおさず二人の女性もまた、女王陛下の寵愛を激しく求めながら、真に囚われているのは自我であった。愛しているのは女王陛下に寵愛される自分だけ。私というお気に入りから逃れられず、だから女王への執着が止められない。なんとも苦しい。
みんな、分かっている。
この自己愛こそ生きる力であり、同時に果てしなく空虚なものであると。
天国と地獄を内在させ、常にこの矛盾に疲弊し、それでも愛することをこんなにもやめられない。愛されることを諦め切れない。
なぜならこれが、生きるということだから。
しかし作品は、この根源的な矛盾を炙りだして終わらせず、もう一歩先まで拭う。
(ここから先ネタバレを含む。)
万物の中心で無限に噴き出す自我が、有限の時間のなかで変容をみせる。くり返される醜い争いと苦悩の後、サラはたしかにアンその人を愛しはじめた。自己愛が、自己を越えたのだ。
自分宛てでしかなかった愛情が、その純度のまま他者に向けてそそがれるとき。自分よりも相手の幸せを願えたとき。私という小さな領域から解放されたとき。
人はようやく静けさと美しさを手に入れる。運命を受け入れ、抗わず、赦すことを知る。
そんな姿をより浮かび上がらせるように対称的な、アンとアビゲイルの集大成的な最後。取り残されて目的を見失ったうつろな目と、物ごとの代償を思い知りやり場のない苛立ちが燻る目。いまだ相手を利用することでしか自分の存在意義を感じられない、哀れなふたりの歪んだ共依存。なにより、互いにもうこの相手しかいないことへの絶望の深さに気が遠くなる。もう、何かを肯定して生きるには手遅れだ。
本作には、よくある愛憎劇の勝ち負けとは次元が異なる説得力があり、なんというか、勉強になった。
魚眼という、歪んだ超広角の視点を持つ私が何者かも曖昧だし、そこにある歪みもまた、決して見つめられる世界だけのものではないと言われているようで二重に苦々しかった。
色々書いたが、ほどほどの自我で生きたいと思った。
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