「勝ちは負けで,負けは勝ち」女王陛下のお気に入り f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
勝ちは負けで,負けは勝ち
サラにとっては,アビゲイルに「自分は勝った」と思わせておくことが勝利だったのではないか?
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女王からの愛を失い,王宮から追い出されたサラ。
女王に手紙をしたためる。
だがアビゲイルは,女王が読む前に手紙を抜き取る。
そこには女王への愛と「忠実なサラより」という言葉が綴られていた。
手紙を女王に見せず、焼き捨てたアビゲイル。
「サラが国庫から横領していた」と女王に告げる。(横領の真偽は定かではない。)
女王はサラ夫婦の国外追放を決定。サラの邸宅に使いを送る。
(【2/23追記】女王はアビゲイルに対しサラの横領を認めなかったにもかかわらず、政治家たちの前でアビゲイルの讒言を根拠にサラの国外追放を決定する。これは女王の保身のためか?サラを自由にしてやるためか?はたまた、横領を知っていたか、自分がサラに金を渡していたか?)
窓から追放使節の一団が到着したのを眺め「手紙の返事が来た」とつぶやくサラ。
明らかに,やってきたのは手紙ではない。だがサラに驚きの表情はない。
まるで自分が追放されることを予期していたかのように。
まるで,女王の愛を取り戻すための手紙を送れば,アビゲイルがそれを盗み見て,自分を徹底的に排除しようとするであろうことを予測していたかのように。
サラの手紙を見たアビゲイルが、讒言によって自分を追放しようとするであろうことが予想されたのであれば、サラの手紙の真の宛先はアビゲイルであり、追放こそがアビゲイルからの返信なのだ。
ではサラは、国外追放されることによって何を得るのだろう。
それは「アビゲイルに勝たせること」(勝ったと思わせておくこと)である。
アビゲイルはサラに勝って女王の寵愛を得た。サラが再び、アビゲイルの競争相手になろうとすれば、アビゲイルは自分が得た地位をより堅固に守ろうとするだろう。自分が守ろうとしているものが、自分にとってどんな利益をもたらすかもよく考えずに。
自分にとって利益にならないものであっても、それを他者が奪おうとすると、なぜかそれを奪われたくないと感じ、競い、相手を蹴落とそうとする。しばしば人間に見られるこの習性をサラは利用したのだ。
こうしてアビゲイルは女王との親密な関係を守り抜く。サラに勝ち、自分は女王を手中に収めたのだ、と勝利した気になる。だが長い目で見れば、それは敗北である。なぜならば、女王に対して偽りの献身を続けなければなないからだ。愛してもいない女王に対し、愛情表現をし続けなければならないからだ。そのことに気づきつつあるアビゲイルは涙を流し、女王もまた、自分に言いよる者たちの愛情が嘘か真かを見極めることに疲れた表情を呈する。
ただ勝利だけを手にした(と思いたい)のはサラも同じである。彼女も政治的な地位を失い、国を追われて、実利のない勝利だけを手にする。
アン女王、アビゲイル、サラ、三者三様に、それを獲得した瞬間は興奮こそすれど、時間が経ってみれば中身がなく虚しいと気づく勝利だけを得て物語は終わる。
愛を偽ること。本当の愛情。これはヨルゴス・ランティモス監督が前々作『ロブスター』で設定した構図でもある。
主人公は愛することを強制される環境では真実の愛を見つけられず、動物に変えられないため止むを得ず愛しているフリをする。
だが恋愛禁止のレジスタンスのもとに逃げ込んだ途端、真実の愛を見つける。
女王を愛する者は女王の要求とは逆のことをする。女王を愛していない者が女王の要求通りのことをする。その内外のギャップに,女王は苦しむのである。
このような「逆張り」を,ランティモス監督は今作でも見せたかったのだろう。
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アビゲイルが手紙を盗み見るだろうことを,サラは予期していた。なぜそう言えるのだろうか。
それは,はじめ女王に対し憎しみの込もったメッセージを送ろうとしていたサラが,逆にご機嫌をとるような手紙を送ったからだ。
女王にとってのサラの価値は,ご機嫌とりではなく,厳しい言葉をかけることができることにある。女王を叱咤し,発破をかけ,高いレベルに引き上げようとする点にある。それがサラの"正直者"としての魅力である。(女王に対しては皆ご機嫌を取ろうとするので,女王を不快にさせる言葉を発することのできる者は正直だと思いがちだが,実際にはそうではない。「正直者」というサラのキャラクターも,半分は本当,半分はサラが自分自身に課した設定なのかもしれない。)
だとするならば,まさに憎しみこそサラが女王に伝えるべき言葉ではないのか。率直に憎しみを伝え,彼女の魅力をアピールすべきではないのか。ご機嫌とりの言葉をかける人物なら,アビゲイルで十分ではないか。
ご機嫌とりの言葉をかけたとしても,女王に対し,サラは自分を魅力的に見せることはできないのである。
それゆえ,サラがご機嫌とりの言葉を手紙に記すとすれば,それはアンに読ませるためではなかった,ということになる。
だがアビゲイルは,ご機嫌とりの言葉こそアン女王にかけるべきだと思っている。アビゲイルには女王がサラを愛する所以がよくわからないのだとすれば,サラが手紙に記した愛の言葉は,サラが女王への愛情を取り戻そうとしているように思えただろう。それゆえ,アビゲイルの目にはサラが脅威に見えるのである。
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はじめサラは,女王に手紙を書くにあたって「あなたの眼を串刺しにすることを長い間夢見ていた」と書き記す。これはサラの本心だったのかもしれない。
だが仮にアビゲイルが手紙を盗み見るとしよう。サラの本心=女王への憎しみー実際には愛情も入り混じった「愛憎」とも呼ぶべきものなのだがーをアビゲイルが知ったとしたら,サラが女王の元を離れ,自由になれたのは,サラの勝利である。(もちろん,女王に取り入ることによる政治的・経済的なメリットは大きいのだが,その見返りとして,女王によって拘束されなければならない)
もしも「女王から離れること」が勝利だとしたら,アビゲイルは自分が今女王のそばにいることが敗北なのだと気づいてしまう。確かにアビゲイルは女王のそばにいることによって,最初のうちはたくさんの見返りを得るだろう。失ったレディの地位を回復し,豪奢な生活を送る。
だがやがて倦怠期が訪れるだろう。愛してもいない女王への愛を偽り続けることに疲れるだろう。ラストシーン,アビゲイルの感情を失ったかのような表情は,すでにその始まりを感じさせる。愛情を偽ったまま奉仕し続けることへの絶望感。
「感情を偽って奉仕し続けたくない」「早めに女王の元を離れよう」とアビゲイルに早々に気づかれては,サラは困るのだ。女王の寵愛を得てサラに勝利したという余韻に浸らせておき,気づいたら拘束され感情の自由を失っていた。そのような状況にアビゲイルを陥れることが,サラにとっての1つの勝利である。
もちろん,サラは政治的な地位を失った。そのため,全面的な勝利はあり得ない。サラはアビゲイルを鎖に繋いだことで,アビゲイルに勝利したと言えるし,アビゲイルは女王のお気に入りの地位からサラを蹴落としたことでサラに勝利したとも言える。
女王は,命じたことをなんでもやってもらえるがゆえに,サラのように反抗的な態度も取れる人物を好むかもしれない。誰もが女王に取り入ろうとしてなんでも進んでやってくれるがゆえに,本心から自分に献身してくれる人物を見つけようとする。その表れとして,あえてしばしば自分の意図に反して厳しく接する人物をそばに置く。だが,結局は自分の言うことを聞いてほしい。自分の望みを叶えて欲しい時に本心から奉仕してくれる人物が欲しいのであって,望みを叶えて欲しい時に厳しいことを言われるのも嫌だし,望みを叶えて欲しくない時に何かをされても嫌だ。
女王は,サラがしてくれないことをしてくれるアビゲイルを重用するけれども,アビゲイルはアビゲイルでただのイエス(ウー)マンである。して欲しいことをしてくれるけど,本心からではない。
いずれサラを呼び戻したり,サラのような性格の人物を登用するようになるのだろうか。それともすでにサラのような人物を経験したうえでアビゲイルを選んだことをわかっているから,しばらくはアビゲイルでいようと思えるのだろうか。
アビゲイルの才能は,上昇することにあった。サラとの勝負のさなかに発揮されるものであった。何かを獲得する時に発揮されるものであって,それを獲得したあと,勝利したあと,登りきったあとは虚しくなるだけであった。
その点については,サラの方がうまい。サラは勝負開始以前の,女王の寵愛を確保した頂点において,その地位を維持し,政治的手腕を発揮する治世者であった。
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どことなく『ファントム・スレッド』で感じたような逃げ道のなさがフラッシュバックする。
同じ出世と転落の物語である『バリー・リンドン』もまた,豪華で優雅だが,下品さと汚濁をふんだんに盛り込んでいた。
映画を見た後は、評判の割に今一つだったなあと感じていたのですが、このレビューを読んで、なんかおもしろかったような気がしてきました。
勝ったのは誰かという視点はシンプルでいいですね。私はエマ・ストーンが好きなので、ずっとアビゲイルの立場で見ていたのですが、屑みたいな役で、それでも勝ったのはアビゲイルと思っていました。しかし、このレビューを読むと、そうとは限らないことに気づき、最後の場面の表情の意味もわかり、とてもおもしろかったです。
レビュー拝見させていただきました。
素晴らしく説得力があって論理的だと思います。劇中の3人の主役達の行動や言動についてモヤモヤしてたことが晴れました。
感謝いたします。
カミツレさん
お返事まで時間がかかってしまいましたが、コメントいただきありがとうございます。
カミツレさんのレビュー、『メッセージ』について、原作を非常に尊重し、映画との丁寧な比較をなさっているのを拝見いたしました。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品の1つとして私も『メッセージ』には興味がありますが、原作を読んでおらず、映画についてのみレビューするとなるとあまり書くことがありません。
が、いずれ同じ作品についてご意見を交わす機会があればその時は相互に得るものがあればと思ってとります。
(『女王陛下のお気に入り』とは関係のない作品にかんするコメントとなってしまい、他のユーザーの皆さまには申し訳ありません)
琥珀さん
そのようなご自身の背景も映画の見かたに反映されているのですね。
鑑賞後の感想をシェアするためにコメント欄も用意されているのでしょうし、ぜひ使っていきましょう!
(尻切れトンボになったコメントがありすみません。)
個人的なこうであって欲しい、という思い込みを無碍になさらず、丁寧にお付き合いいただき、ありがとうございます。
たぶん自分が周囲の状況や人間関係に影響される弱い人間で、毅然とした態度とか決意とかいうものに対して思っている以上に敏感なので(憧れもあるのだと思います)、こんな解釈をしているのだと思います。長々とコメント欄を濫用⁈してしまい失礼致しました。
改めてお礼とお詫びを申し上げます。
琥珀さん、ありがとうございます。琥珀さんの女王解釈がよくわかりました。
弱々しかった女王が一時的にでも毅然とした態度を取ったことが勝利宣言にも思える、ということでしょうか。
これから自分は何度か『女王陛下のお気に入り』を見直すことになるだろうと思っているのですが、そのさいに琥珀さんのお考えもぜひ踏まえながら観てみようかと思います。
あの後、程なくアビゲイルに詫びを入れて、また私に尽くしておくれ、などと弱気になっているシーンがあっても違和感はありませんが、あの瞬間の女王然とした振る舞いが何よりも欲していた自分だったと束の間の恍惚感に浸っていたように想像してます。
虚しいといえばこれほど虚しいこともないのですが。
では女王の勝利、というか、サラとアビゲイルとの違いは何か。
それは、信頼関係とかもたれ合いなどの様な相手に依存する情緒的な関係を断つという判断をしたことだと思ってます。
サラとの信頼関係、アビゲイルへの見返りを求めるような施し、そういった相手方への斟酌のない、女王として決然とした言動を取る、そして、それは途轍もなく孤独なことである、そしてその孤独を自分は受け入れる(例え長続きしなくても)。
そんな決断が出来たことが、瞬間的なことではあっても、私には高らかな勝利宣言に見えたのです。
女王の人生を考えるとそれが一瞬のことであっても、誇りを取り戻した輝かしさを感じました。
f(unction)さん
まだ途中かもしれませんが、少しお邪魔します。
女王の勝利かどうかについては、ご指摘の通り、視点によって見え方が違うことは間違いないと思います。また、瞬間的な事象であって、女王の気質からすれば、永続性は甚だ妖しいとも思っています。だからこそ三者ともに明るい展望が開けない不穏さの漂うラストなのだと思います。
(承前)終盤にかけて女王の「上昇」が見られ,アビゲイルとの位置関係にとって視覚的にもそのことが示されます。それゆえ,最後の印象としては(瞬間最大風速としては)女王が勝利したかのようにも思えます。しかし全体を通して見たとき,女王もまた,アビゲイルとサラ同様に,得たものと失ったものの両方があるように思えます。女王がもしも未だにサラを愛していたのだとすれば,女王にとってサラの追放は痛みを伴うものであったはずです。また女王がサラへの愛を失っていたのだとしても,私たち観客の視点からわかるのは,アビゲイルは表面上は女王に服従していながら,内心は微塵も愛情を抱いていないということです。女王はアビゲイルを自由に使役できますが,そこには親愛の情はありません。観客の視点から見ると女王は騙されているように思えます。それゆえ観客の視点からすれば,「真実の愛」を得る点に関しては女王に不足があるように思えます。(これを「敗北」と表現するかどうかは微妙ですが)。
ご機嫌とりをし何でも言うことを聞けば比較的簡単に女王に取り入ることができるがゆえに,女王はサラを求めたところがあったと思います。女王が求めたのは言動ではなく真心です。そしてサラの言動は愛ゆえの厳しさであった(この点に関しては確認が必要に思えます)かもしれません。アビゲイルはサラでは満たせない女王のニーズを満たしましたが,やがて「これでは一般的なおべっか使いと一緒だ」といずれ気づくか,あるいはすでに気づきつつあるのではないでしょうか。ラストシーン,女王はアビゲイルに主従関係を教え込みますが,この時点ですでに女王には,冷めた怒りや失望(所詮あなたもその程度ね,といった)のようなものがあったのではないでしょうか。女王の視点からしても,彼女が得たのは全面的な勝利ではなく,アビゲイル以前にも見られたであろう上下関係の確認です。
女王の"勝利"に関しては,彼女の視点と観客からの視点を区別するということが考えられると気づきました(続)
琥珀さん,たいへん内容の豊富なコメントをくださりありがとうございます。
車椅子によって象徴されるように,側近に操られるばかりであった女王が,横領を理由としたサラの追放宣言を起点として,君臨者としての権力(威厳?)を発揮し始めた,というような理解でよろしいでしょうか......?
この映画は,アビゲイルの階段や落下に象徴されるように「上昇と下降」の映画である,と,どなたかが書いたレビューで読みました(残念ながら映画.comレビューであったか,Twitter上のものであったか忘れてしまったのですが)。その観点から言えば,女王に関しては,はじめはどん底にあったもののやがて上昇を始め,ラストシーンで臣下を見下ろす存在となる.その起点こそがサラの追放であった,これに関してはなるほどと思います。そのことは琥珀さんのご指摘によって明確に意識させられました。
私にはラストシーンが不穏で重苦しいものに感じられたので,女王による威厳の行使の動機は,ポジティブなものであるというよりは,どこかネガティブな感情を伴うものであるようにも思います。(続)
f(unction)さん、フォローいただきありがとうございます!
どちらかといえば寡筆で、非常に長文のレビューを書かれるところに、勝手にシンパシーを覚えております(笑)
またf(unction)さんの深い考察が読めるのを楽しみにしていますよ(^―^)
……一度ぐらい、レビューを書く作品が被ればいいなあとは思いますが(^-^;)
f(unction)さんと互いの意見を戦わせるのはとても楽しそうです♪
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
で、アビゲイルですが、女王が思ってたより手なづけるのか難しいと感じていたところ、あのウサギのシーンに遭遇したわけです。当初は自分の子どもたちへの負い目みたいな感情が弱気に作用し、生理的な恐怖心として狼狽したものの、その恐怖心がタガを外す効果となって、一瞬で女王としての威厳を取り戻し、エマ・ストーンに対し、立ち位置の違いを明確に、そして決定的に示す行為ができたのだと思います。
などと偉そうに申しましたが、f(unction)さんのレビューを見てから思いついたことです。
新たな思考的刺激をいただけたこと、御礼申し上げます。
深い考察、私も大変勉強になりました。
f(unction)さんの文脈で言うと、勝ちを収めたのは女王一人だと私は考えています。サラの横領の真偽はどうでも良かったのだと思います。サラとそれに張り合うアビゲイル、2人の振る舞いから最後に女王は全ては女王たる自分が決められる、という今更ながらの真実を自覚し、その力を自ら行使しようと決意したのではないでしょうか。だから、サラの更迭人事において、横領は後付けの理由であり、役員復帰の目はもうないよ、という宣言が追放という手段だったと思うのです。(続きあり)
カミツレさん、コメントありがとうございます。そのような評価をいただくのは大変畏れ多いことに思えます。
自分のレビューを、お褒めの言葉にふさわしいもの足らしめんとするばかりです。
f(unction)さん、素晴らしいレビューをありがとうございます!
『ヘレディタリー』の時にも思いましたが、考察が非常にロジカルで、
複雑な事柄を実に明快で分かりやすく解説されていますね。感動しました!
コメントありがとうございます。この映画では色々なレビューを見ることも楽しみの1つになるように思えます。私自身、色々とレビューを漁るたびに、自分では気付くことのできなかった解釈の存在に気付かされます。