「この物語には出口も終わりも無い」女王陛下のお気に入り bloodtrailさんの映画レビュー(感想・評価)
この物語には出口も終わりも無い
久しぶりに見た普遍性のあるテーマの映画。感動無し、涙無し、驚き無しだが、見るべき映画だってことは確実に言える、まぁ、人それぞれですけど。
アビゲイルの成り上がり物語から垣間見えるのは、権威権力者の「お気に入り」が国策にまで影響し、時に権力者に変わって決定さえ行っていること。
「梅毒の兵士に抱かれる時に、道徳的であった事を後悔したくない」アビゲイルは、道徳を捨てて媚び始めます。女王のお気に入りとなり政策にも影響する事が出来る立場に立っても、彼女にはその気が無い。ただ、再び落ちぶれたく無い一心。ここが皮肉。
一方のサラは媚びない。愛してるからこそ正直なのだと言うが、女王には思いが届かず、最後はアビゲイルの策略の果てに、国外追放の身まで落ちる不幸。
権力者の孤独。故に求める「お気に入り」。お気に入りになるために媚びる者の醜さ。志無く媚びる事の愚かさ、引き起こされる悲劇。
映画のラストは、媚びる事を忘れたお気に入りに、媚びる事を命じながら、出口の無い苦痛の迷路でひと時の快楽に恍惚する女王と、これまた出口の無い屈従の迷路に囚われた事を知ったアビゲイルの姿を映し出して終わる。オチも決着も無いラストシーンの意味するのは、「この構図は18世紀の英国だけの物語りに非ず」と言っている。世界中の至るところ、あらゆる時代、あらゆる階層で、この物語りは繰り広げられている。
そう言いたいのだと思う次第。
俺も今日から、帰ったら女房に媚びます。
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オリビア・コールマンのオスカー受賞記念追記(2/28)
「The favorite」には、designated winning horse=勝ち馬になると見なされる、のニュアンスがある。映画を観る限り、このタイトルは「女王の第一側近そのもの」を指している様です。アビゲイルとサラの椅子取りゲームは、「プライドをかなぐり捨てた卑屈さと策略」と「純粋な社会的欲求」を対比させながら、滑稽さを強調することで、見るものをゲンナリさせてくれます。王室の描写は不敬です、笑っちゃうほどに。
女王の元から追い出されたサラは後悔と、尚も持ち続ける社会的欲求から、女王に本心を理解してもらうための手紙をしたためます。最初は「辛辣な本音」の文章。何度も書き直すうちに内容は徐々に変化し、最終的にはアビゲイル流に遜ります。自分を殺して卑屈になることも厭わない姿勢ですが、手紙は女王に届きません。警戒したアビゲイルが検閲していることなど、「卑しい人間」には縁が無かったであろうサラには想像できなかったでしょう。増税を主張して来た場面でも、「べき論」にのみ思考を支配され、「現実」に1分の理解も示そうとしないサラの頑固さと、宰相としての浅さが故の悲劇。
そもそも、その手紙を女王に届ける気などサラサラ持ち合わせないアビゲイルは、雑に封蠟を剥し、目を通し、燃やしてしまいます。自分こそが「designated winning horse」になったことを確信した瞬間ですが、それは同時に、「遜ったウソで手に入れた地位を守るために、屈従の迷路に囚われてしまった瞬間」でもあり。それを思い知らされるのは、少し後の事ですが、まさに後の祭り。
女王には届かなかった手紙。待ち続けた女王から下された処分は国外追放。社会的欲求は粉々にされましたが、おそらく、思い残すことなど無く、国を去るサラ夫妻。晴れ晴れとした表情は「卑屈に生きなければならないレース」に身を投じずに済んだこと。レースから「解放」された実感からなのだと思う。
時に5歳、ある時は60歳。あらゆる年代の「女」としての人格が、一人の人物に同居している女王アン。情緒は一定せず、時に依存心丸出しの幼女になり、時に権威を前面に押し出した女帝として振る舞い。とどのつまり、女王アンの心の安寧には、アビゲイルとサラの両者が必要なはずなのだが、サラを切ってしまうと言う失敗は、いつか苦痛となってアンに戻ってくる、だろうに。
この面倒くさくてしょうがない、幼いメンタルの女帝を演じきったオリビア・コールマンに拍手。オスカーに値する演技だった…いや、獲ったんだから値してたんですね!