「寛容であり続けたすずさん」この世界の(さらにいくつもの)片隅に 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
寛容であり続けたすずさん
2016年の「この世界の片隅に」を観てから、もう3年になるのかという感慨がある。2018年にTBSのテレビドラマが松本穂香主演で放送され、そちらも全部見た。そのドラマのインタビューで北條周作の母を演じる伊藤蘭が「すずさんという大役を」という言い方をしていたのが印象に残っている。この作品に対する伊藤蘭の尊敬の念が感じられて、大変に好感を持った。彼女の言う通り、北條すずは大役なのだ。
3年の月日が経っても、最初の子供時代のシーンからラストシーンまで、3年前と同じように食い入るように観続けることが出来た。名作は何度観ても名作だ。飽きることがない。ひとつひとつの場面が繊細で意味深く作られていて、3年前とは違う感慨がある。次に観たらまた違う感慨があるのだろう。そしてまた観たいと思う。
本作品は反戦の映画である。従って戦争をしたい現政権に対しては、反体制の映画ということになる。前作品も同様だ。あれから3年。この3年に日本は戦争をしない国になっただろうか。残念ながらそうなっていない。むしろ戦争ができる国にしようという勢力が勢いを増したように思う。安倍政権はこの3年間に何をしたのか。
森友学園の問題が起きたが、安倍晋三は何も説明しないままいつの間にか誰も話題にしなくなった。そして自民党総裁の3選が可能になり、辺野古の工事が開始された。加計学園問題が発覚したが、森友学園と同じく安倍晋三は何も説明しないまま、いつの間にか誰も話題にしなくなった。共謀罪法が成立した。伊藤詩織さんが、強カン事件で逮捕状が出された山口敬之が逮捕されなかったことを明らかにした。国連で核兵器禁止条約が採択されたが、安倍政権は参加しなかった。そしてイージス・アショア2機の購入を決定した。また「重要なベースロード電源」という意味不明な言葉で原発の再稼働を決定した。杉田水脈衆院議員が「LGBTは生産性がない」と発言した。翁長県知事が亡くなり、同じく辺野古反対の玉城デニーが知事に当選した。その後辺野古埋め立てに関する県民投票が行われ、埋め立て反対が72%を占めたが、安倍政権による埋め立てはいま(2019年12月)も続いている。慰安婦像を展示したあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」が中止され、補助金が不交付となった。その後再開されると、名古屋の河村市長が再会反対の座り込みの講義を行なった。桜を見る会の疑惑が浮上したが、安倍政権はすべての証拠を既に廃棄したとして提出を拒否、予算委員会の開会も拒否した。予算委員会は一問一答で野党からの追求が厳しい。本会議なら一方的に述べるだけだから、安倍晋三は本会議で桜を見る会の私物化を否定した。首里城が火災で消失した。
社会はますます不寛容になり、あおり運転が多発していて、京アニには火が着けらた。国民全体が不満を持ち、怒りの矛先を探しているようだ。一方でラグビーの日本チームの活躍にナショナリズムが高揚し、日本中が沸き立った。この状況はもはや戦争の一歩手前であることに気づいている人は少ない。ガンバレニッポンは他国の不幸を祈るのと同義なのだ。
寛容は不寛容に弱い。寛容は平和主義だが、不寛容は暴力主義、そして戦争主義だ。不寛容の暴力に対抗するために寛容が取りうる手段は非暴力、不服従しかない。それはガンジーの専売特許ではない。聖書にも「悪人に手向かうな。もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、他の頰をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」(マタイによる福音書)と書かれている。
しかし人類には寛容を継続する覚悟がない。つまりは、戦争をしない覚悟がないということだ。これからも無垢の子供が殺されるだろうし、あおり運転が殺人に発展する事件も多発するだろう。他人の不幸を祈るのが人間だとすれば、それはあまりにも悲しい事実だ。悲しくて悲しくてとてもやりきれないと歌いたいのはコトリンゴだけではない。我々はそういう時代に生きているのだ。いや、歴史的にずっとそういう時代だった。
国家が自国だけの存続と繁栄を望めば必ず戦争になる。戦争になると人間は共同体のための消耗品に過ぎなくなってしまう。人格も人権も蹂躙されてしまうのだ。その中で人を憎まず正気を保って生きたのが北條すずである。寛容であり続ける覚悟を持っていた女性だ。確かに大役である。
この作品を観て、戦時下の庶民はこんな風に生きていたのだということを知ってほしい。そして苦労して生きていたのは日本人だけではなく、戦争をしたすべての国家の庶民も同じように苦しんでいたことを想像してほしい。戦争で苦しむのは必ず弱者なのだ。
最近は世相を反映して、反戦の映画が多く上映されている。マスコミが権力に忖度して特定秘密保護法や安保法制、集団的自衛権の行使容認がどれほど危険なことであるかを全く報じないため、映画人が映画によって表現するしかなくなったのだ。危機感を感じているに違いない。それらの作品を観た人々が、戦争をしないためには寛容でなければならないことに気づくようになれば、表現の自由がはじめて力を持ったことになる。しかし果たしてそんな日が来るだろうか。
※いいねをくださった方々、ありがとうございます。私に対する人格攻撃みたいなコメントが付いてしまったので、一旦削除して再アップさせていただきました。本レビューに対するコメントは受け付けないことにしましたので悪しからずご了承ください。