「原作を読み、楽しみにしていました(超長文)」海獣の子供 Aさんの映画レビュー(感想・評価)
原作を読み、楽しみにしていました(超長文)
率直に言って、かなり残念な出来栄えでした。
映像の表現力=最高
物語の表現力=最低の一歩手前
という印象です……。
※以下、勝手な原作考察が交ざった異常な長さの私見です
お目汚し失礼いたします※
あらかじめ断っておくと、なにも原作礼賛をしたいわけではありません。
この映画がなぜこうも「よくわからない」作品になってしまったのか、原作自体が「よくわからない」テイストだから致し方なかったのか、その点についてのだらだらとした感想です。
映像と作中音楽は本当に本当に素晴らしいです。
映像化可能な限界を追求していると感じ、素直に感動して見入ることができました。
特にタイトルまでのイントロ部分などは、そこだけで涙を誘われたほどです。
それだけに、ストーリーの陳腐・矮小化や、作品の芯を捉えられていない点の口惜しさが際立ちます。
確かに、原作は一部難解ですし、抽象的・感覚的な表現や、多元的な数々の要素が入り組んでいます。
五巻分の内容を二時間に落とし込もうとすれば、ある程度割愛・改変を行いつつ再構成しなければならないのは当然です。また、琉花という一人の少女の物語に絞って描いたのも英断だと感じます(「物語を絞って描く」ことは、必ずしもストーリーの陳腐・矮小化を招くわけではありません)が、要素の取捨選択と演出に失敗した結果、むしろ原作以上に難解な、方向性も情報もとっ散らかった映像作品になってしまっている印象です。
上記の印象を最も端的に物語るのが主題歌です。歌詞に原作のキーワードがふんだんに盛り込まれており、良く言えば「原作世界を再現」していますが、悪く言えば「原作の言葉をつぎはぎした表面的なあらすじ」以上の何でもないように見えてしまいます。もっとも、音楽まで含めて一つの曲なので、歌詞だけで一概に批判は行えませんし、あくまで「タイアップ曲」という立場の範囲内で作品に奉仕していると思えば、十分美しい曲には違いないのですが。
こういった物足りなさやちぐはぐさが、映画本編でも随所に感じられます。
ボリュームダウンの工夫として、例えば、作品を解釈する上で重要な役割を占めていた(と個人的には思う)多くの要素がかなり大胆に削られているのですが、その中でもぱっと目に付いたのが下記です。
①「食べられる」こと
②一連の「海にまつわる証言」
原作未読の方のために一応補足しておくと、原作では、光の粒となって霧散した「海の幽霊」が、その光の粒を他の生物に食べられる様子が繰り返し描かれています。また、空が海中へ消える時、他の生物に食い荒らされる様にも、かなり丁寧にページを費しています。
こういった「食べられる」反復描写の先に待っているのが、映画にもある、琉花が元・海だった光の粒を食べる場面です。そう考えると、一番最後の場面だけを映画内で示しても、物語の繋がりも感動も、さっぱり分からないのではないでしょうか。
さらに、「食べられる」ことを「他の生物の栄養となる」と読み替えれば、作品を司る詩の「人は乳房」にも通ずる部分があり、ますます幅広く自由な解釈の余地が生まれます。
したがって、「食べられる」ことは作品にとって相当大切な要素のように思われるのですが、なぜ削られたのか合点がいきません。食事のシーンを丁寧に描写することで補おうと試みたのかもしれませんが、あくまで「食べる」者としての人間の姿しか描かれていないので、片手落ちです。
一方で、「海にまつわる証言」が削られたことにはまだ納得がいきます。
「海にまつわる証言」とは、原作で物語の合間に挿入される、世界各国様々な地域の人から収集したという設定の「海にまつわる不思議な体験談」です。全部で十ほど紹介され、中には登場人物のバックボーンに触れるものもあります。しかし、本編に対して傍流の位置付けなので、そこまで重要視しかねるのも、二時間の映画にこれらまでねじ込むのは難しいと判断するのも妥当でしょう。
しかし、盛り込めないにしても、どうにか他の工夫で補う余地が無かったか……と思われて仕方がありません。
なぜなら、そもそもなぜこの作品に「海にまつわる証言」が必要だったのかという考察にも通じますが、作品自体の構造と主眼についての重要なヒントを孕んでいると思うからです。
「海にまつわる証言」は、時間も場所も人も性質もばらばらで、一見すると互いに(ものによっては本編とさえ)全く無関係な挿話の集合体のようですが、実ははっきりした共通点があります。
第一に、全ての話が徹底して「体験談」に終始します。不気味さや謎めいた雰囲気を持ちますが、怪談ではありません。したがってオチもありません。道徳も教訓もありませんし、答えもありません。淡々と「こういうことがあった」と語るだけの、剥き出しの「体験」そのものなのです。
第二に、「海にまつわる証言」の話者、つまり不思議な「体験」の当事者は、恐れたり、不思議がったりと、受け止め方こそ個々人で異なっていますが、いずれも「体験」が以後の人生に大きな影響を及ぼしています。海に二度と潜れなくなった水中カメラマン、世界中の海を転々とすることになった青年、海洋学者になった女性、失踪した姉を数十年待ち続ける妹……「体験」を経たことにより、生き方が決定的に変わっているのです。
上記の二つの共通点に、映画にもあった台詞ですが、「本番」後のデデの言葉が響いてきます。
「案外… わたしたちが思ってるよりしょっちゅう起きてる現象なのかもしれないよ」
これは、「海にまつわる証言」という下準備があってこそ、すとんと胸に落ちてくる言葉ではないでしょうか。すなわち、「琉花のもとには「少年・海と空」の形で訪れ、人生を変えた海と生命の不思議が、流花のもとだけでなく、世界の様々な場所に、様々な形で現れているのかもしれない」と想起させるのです。
(同様の示唆は、スケールを変えつつ、作中で何度も何度も繰り返されています。感情を届ける鯨の歌、水の記憶、痕跡としての「幽霊」、……この辺りについては、作品終盤の台詞「世界の秘密はそのヒントを、……」が全てを物語っていると思います)
かなり遠回りになってしまいましたが、要は、『海獣の子供』という作品は、それ自体が一つの「海にまつわる証言」として、あまり理由や意味、目的意識、解答提示に囚われず、読者それぞれが「体験」して自由に受け止め、解釈するよう意図して描かれているのではないか、という意見です。
映画内に「海にまつわる証言」を取り入れるも取り入れないももちろん自由ですが、このような構造上の工夫を、しっかり押さえた作劇にぜひともしてほしかったと思います。多くの方の感想に噴出する「分からない」も、もしかするとその何割かは、この点を扱い損ねたことによるかもしれません。
(ちなみに、「分からない」ことは悪でもなんでもありません。この作品は各個人の自由な受け取り方を喚起するものであり、「分からない」もまた、この作品という「体験」に導かれた立派な反応の一つと考えられるからです。「分からない」という感想を侮辱するような意見は、むしろ作品の本質を捉えられていません)
「わざわざ「海にまつわる証言」が無くとも、各自自由に「体験」すればよい作品であることくらい分かるよ」という方も、もちろん大勢いらっしゃるでしょう。「海にまつわる証言」はあくまで作品に対する補助線であり、無くとも作品へのアプローチは可能です。
しかし、この映画では、せっかくの補助線を自ら外したばかりか、あろうことかストーリーラインに解答らしきものをこじつけて純粋な「体験」としての性質を大きく損なっています。
これは受け取る側ではなく、制作した側の悪手に責任があると思います。
映像・音楽の素晴らしさは、まさにそのような「体験」的性質を見事に捉えています。脚本さえ誤らなければ、「体験」としての核心にもっともっと迫ることが出来たのでは……と考えると、無念でなりません。
「ストーリーラインにこじつけられた解答らしきもの」とは、主に終盤の場面、「父母が揃って琉花を助けに来る描写」と「部活メンバーとの和解を示唆する描写」を指しています。
もちろん、映画独自の解釈で原作に無い場面を挿入すること自体は悪くないどころか、必須の工夫です。しかしこの映画において、これらの場面は紛れもなく大失敗だと思われます。場面に至るまでのストーリーの運びも何もなく、唐突に、ご都合的に挟まれた描写でしかない上、作品の方向性と場面の意味するメッセージが全く食い違っているためです。
ちなみに原作の情報を補完すると、まず琉花を助けに来るのは母だけです。母が自らデデに頼み、デデと二人で琉花を救いに向かいます。また、「部活メンバーと和解する描写」は原作には全く無い、完全オリジナルの場面です。代わりに、と言ってはなんですが、映画では省かれた物語後の時間軸として、年老いた琉花の描写があります。この作品は年老いた琉花の場面から始まり、年老いた琉花の場面に戻って終わります。(そもそも『海獣の子供』の物語は、日に焼けた肌にサングラス・サンバイザーという出で立ちの琉花が、モーターボートで海を行きながら、同乗している少年(恐らく孫)に自分のかつての「体験」を語って聞かせたもの、という構造なのです)
ここまでですでに、原作未読の方でも、原作と映画では随分雰囲気が違うんだな、とお感じになるのではないでしょうか。
「父母が揃って琉花を助けに来る描写」、「部活メンバーとの和解を示唆する描写」に、なぜここまで憤っているのかと言うと、作品内でも最も忌避されている、人間社会の一元的な価値観の押し付け、つまり「一般論やステレオタイプの押し付け」に過ぎないからです。
推察するに、ファミリー向け映画として舵を取るための改変なのでしょう。(もしくは、「少女・琉花」のミニマムな物語としてオチをつける意図か……しかし、オチを求める性質の作品でないことはすでに述べたとおりです)とはいえ、人間社会の範疇を飛び出し、人間の理解を超えた現象に遭遇し、世界の秘密に触れる「体験」……「約束」を胸に抱いて人生を送る、という物語の結末が、「ハイお父さんお母さん仲直りして一緒に来てくれました、家族円満、ヨカッタネ」「ハイ部活の仲間とも仲直りできました、ヨカッタネ」では、あんまりと言う他ありません。「本作が『海獣の子供』である」という大前提を取っ払ってさえも、今の時代におけるクリエーションの在り方としてあまりに甘すぎると思います。
ましてこの作品では、人間の認知世界や社会・常識・思想・言語がいかに狭いか、その外側に、いかに豊かで開けた世界があるかを謳い続けています。人間社会に居場所が見つからず、そこを飛び出して海と空に出会った琉花が、さして脈絡も無くまた狭い社会に戻っていくというのは、なんとも作品の主眼を蔑ろにした作劇ではないでしょうか。
(話が逸れますが、芦田愛菜さんという役者について、「ステレオタイプの演技をさらにコテコテに塗り固めて演じる人」という印象だったので、琉花役と知った時、不器用と豊かな感性を兼ね備えたナイーブな琉花の像に、果たして彼女の演技がマッチするのか懸念がありました。予告の「夏は、体が軽いっ」は悪い意味で期待に違わず、ああやっぱり……と落胆しました。ところが、いざ鑑賞を終えて抱いたのは、これほど陳腐化したストーリーであれば、芦田さんの演技は却ってマッチしていたかもな、という皮肉な感想です。息遣いや呻きなどのちょっとした演技は素敵だったのですが、およそ台詞めいたことを喋らせると、良くも悪くも『芦田愛菜』が前面に出てしまっている気がします)
ストーリーが台無しでも、映像と音楽はとにかく素晴らしかったことを、重ねて最後に申し上げます。
こんなとんでもない長さのレビューを読んでくださり、どうもありがとうございました!