僕はイエス様が嫌いのレビュー・感想・評価
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神も仏もあるものか
随分罰当たりなタイトルだが、親友を交通事故で亡くしたユラにしてみれば「神も仏もあるものか」という心境だったのでしょう・・。
祖父が他界し残された祖母と一緒に暮らすために、東京から雪深い地方の祖父の家に両親ともども引っ越してきた小学生のユラ、キリスト教系の小学校に転校、校内の教会で毎朝礼拝、流れた讃美歌のオルガンが美しい音色、数々の受賞歴のある芸大出身の内海彩花さんの演奏でした。
どういう訳かユラの前に小さなイエス様の霊が現れます、友達が欲しいとか、お小遣いが欲しいというユラの願いを次々と叶えてくれます。ほんとに表れたのはイエス様?、祖父の霊だったんじゃないの・・。
親友の和馬はサッカー好き、ボールを蹴りながら道を歩いていて自動車に跳ねられます、道路で遊びは厳禁!、良い子はぜったい真似をしないようにね。
ユラはもとよりクラス全員が和馬の回復を祈りますが、願いは届きませんでした、残念至極・・。
そりゃ嫌
ぼくのイエス様‼️
祖母がいる地方のミッション系の学校へ転校した少年の前に、小さなイエス様が姿を現わす。この不思議な神様に友達が欲しいとか、お金が欲しいとかお祈りを捧げると、次々と願いが叶っていくが・・・‼️一言で言うと、大切な友達との永遠の別れを描いた作品‼️そこにファンタジー映画や宗教映画の要素を絡めて描いてます‼️神様にすがる、信心、神様は存在するかとか、宗教上のテーマもありそうなんですが、結局は欲しいモノは自分の力で掴み取る、努力しなきゃダメだよというメッセージでしょう、多分‼️「ぼくのお日さま」もそうですが、相変わらず子役たちの演技がホントに自然で、演技ではない素の姿をカメラが捉えてるみたいで素晴らしかったです‼️奥山大史監督作の特色なのかも‼️ちょっと是枝監督に通じるところがあるかもしれませんね‼️あと劇中の小さなイエス様が「ウィロー」のブラウニーズに見えて仕方なかった‼️
ささやかな日常!ささやかな幸せ!
タイトルなし(ネタバレ)
キリスト教に於いてイエス様が死者を蘇生させたのは、三件のみである。残念ながら、キリスト教はそう言った宗教では無い。
先ずはそれがこの映画の主題だと思う。
また、この小学校は私立のミッション系の学校である。一般の公立の学校は信教の自由なので、礼拝があるわけでは無い。
小学校の教師が威圧的に生徒に祈りを求めるが、笹川くんが祈りをしない。
少年はその祈りか離れて呆然とする。やがて、教師の祈りはフェードアウトする。
僕は人生ゲームをやった事がない。嫌いであった。理由は言うまでもない。
良い作品だと思うが、第二成長期入る少年ゆえに、少年(物理的)の頭の中は少女の事で頭がいっぱいだと思うが。僕のこの頃はシャーロック・ホームズの「アイリン,アドラー」に恋い焦がれていた。まぁ、変なガキだったと思う。そう言う友達がいて、彼の受け売りだったんだよね。その後、彼はキリスト教の布教でニューヨークへ行ったと聞くが、更にその後の消息はわからない。彼の家族も消えた。
少年の別れ
少年・ユラの心の揺らぎ、
広がる神様へ不信、
ある事故をきっかけに少年の心に起きる波紋を
瑞々しい感性で描いた映画。
撮影した当時、奥山大志監督は22歳だったと言う。
子供の頃に受けた残酷な情景を、
ありのままに、見る者にも分かるように、
分かりやすく映像にする。
簡単ではない。
たった75分の映像に、死んだ友達への思い、
お祈りしても願いを叶えてくれない神様への不信。
お別れの言葉のお終いで、
いつも現れる小さなイエス様を
ユラはボカーンと叩き潰してしまう。
(それは幻想の神様への訣別?)
“怒り“
“理不尽“
“お願いしても、報われないこと“
ユラはそれを知った。
奥山監督は時として人間一般に起こる不条理を、
けっこう残酷な表現で、意図して明確に向き合って描く。
人はなぜ神に祈らずにはいらないのたう。
私は、毎朝、神棚に水を変えて、新しい熱いお茶を供えて、
神棚に手を合わせてしまう。
神様はいないと思うのに、
お願い事をしてしまう。
「ぼくのお日さま」を観て、とても良かったので、
この映画を観ました。
奥山監督、只者でなぃです。
長く感じる余韻の中で
この作品を作った人は時間の流れが優しくゆっくりなのかなと感じた。
しかし、なき友に捧げる為、終わらせたくないがための引きなのかも、と最後のエンドロールにて改めて思った。
あの余韻のある時間の中に何を込めたかったのか、1回見た今は分からない。
例えば、1000円相撲のシーンや、病院帰りの走り出すシーン。
尺が長いなと感じたのは何故だろう。私だけなのだろうか。
その余韻の長さに逆に引き込まれた自分もいて、いつの間にか奥山監督ワールドへ取り込まれてしまったような気もする。
きちんと整えられた視点の中に、小さなキリストがちょこまかと暴れていて、ボーッとみてたら見逃してしまうかのようなアンバランスさに、画面から目が離せなかった。
キリストなんて信じないと言葉に出すのではなく、物理的に壊した表現に、少年の心遣いを感じた。
いつだって信じられるのは己の中の神様なのかもしれない。
半ズボンの聖域、その破壊と再生
妖精イエス
少し斜めで愛おしい作品。
ふたつのインパクト
ありきたりの日常にさほど有名でもない俳優たちが織り成す前半はどこにでもある日常で淡々と過ぎ去る中で唯一の違和感は小さな町でのカソリック信仰とそれを体現した小さなキリストの出現である。しかしその異質な現実も子供たちの日常の中においてはさほど大きなことではなく、おとぎ話なのか夢なのか分らぬ狭間の少年の心象にすぎに日常を見せられているようで見ている方ははっきり言って退屈な物語信仰のように感じる。その緩やかな時間の流れがあるときのこれまた日常で起こりうる一瞬のインパクトで見る側は一気にこの映画に引き込まれる。主人公の大の親友、唯一の親友が一瞬の交通事故で命を失う。その受け入れがたい現実の中でも宗教的信仰でその事実を消化しようとする大人たちとその大人たちに押し付けられたことによる信仰の体現なのであろうか、その気まぐれに現れたり気まぐれに少年の願いをかなえたりする小さなイエスの出現を怒りに満ちて聖書の中に叩き戻す少年の現実への直視と言う第二のインパクトがこの映画を極めて濃厚で意味の深い作品へと昇華する。名作である。
願いと受難
何とも罰当たりなタイトル。
でも、主人公のユラくんにしてみれば。
見終わってみれば、ユーモアと皮肉の効いたタイトル。
東京から父母と共に地方の雪深い祖母の家に越してきたユラ。
ミッション系のスクールの習慣やなかなか友達も出来ず、馴染めないでいたある日、ユラの前に現れたのは、
自分にしか見えない小さなイエス様…!
少年とイエスの秘密の交流は『汚れなき悪戯』を彷彿。
少年と小さなイエスの構図は大林宣彦監督の『水の旅人 侍KIDS』を彷彿。
オマージュとオリジナリティー、奥山大史監督の体験談が込められているとか。
このイエス様、身体は小さくても願いを叶えてくれる。
願いの定番、お金が欲しい。ま、さすがにこれは微々たるものだったが…。
友達が欲しい。
初めての友達が出来た。カズマ。
サッカーしたり雪の日も遊んだり、クリスマスをカズマの家にお呼ばれしたりと、学校や日々の生活が楽しくなる。
しかし、古今東西。願いに付き物なのは…。
ある日、悲劇が…。
事故だったのかもしれない。
イエス的に言えば“受難”かもしれない。
願いと受難。
イエス様からの教訓。人生、苦楽あり。
でも、こんな事になるなんて…!
じゃあ僕は、イエス様なんて嫌いだ!
先述通り、ユラの胸中をユーモアと皮肉で表したラストシーン。
邦画では珍しい“宗教映画”の類い。
なかなか取っ付き難いジャンルを子供目線で、ファンタスティックな児童映画として描き、宗教映画の中では見易い方だった。
タイトルから予想できてしまい、ハラハラして観る
予想どおりの展開。個人的には、宗教は願いを叶えるためじゃなく、心のささえが必要な人が頼るものかな。ミニキリストが出てきた意味は、主人公の願いは叶わず怒りをぶつける先だったのね。お祖父さんの障子の穴あけは想い出を観るためにあけていたのかな。と、最後に感じました。
信仰とは
神様ってほんとうにいるの?
無垢な少年に映る綺麗事な世界と事実との奇蹟、エンドロール前の言葉に涙する
ここまでストンと落ちる、リアルなドラマは初めてだった。エンドロール前に入るあのフレーズで、抱いていた悶々たる感情が清算され、涙が止まらなかった。
東京から転校してきた由来は、北海道の小学校がキリスト教を信仰していることに躊躇いを覚える。違和感を覚えつつも、無垢で無知な彼は、次第に新たな世界を開いていく。その過程で出会う、友の存在と小さなイエス様。友は瞬間を、イエス様は願いを叶えてゆく。イエス様の可愛らしくて気になってしまう動き、その掛け合いもなんだか面白い。しかし、事態は暗転する…。このタイトルの意味が次第にわかってゆくとき、目を背けたくなるような事実とすれ違いが起きる。神様へのアンチではなく、ひとりの少年がモノを知るときに生まれる感情の奇蹟、それがいかに美しくて儚いものか。ドラマ全体では汲み取りにくかった部分が、エンドロール前に入るあのフレーズで全てが合点するとき、その意味が初めて為すのだった。
あまりにも自然に溶け込む日常のリアルと、異文化との出会い。やっぱり僕は…となる意味が、監督の根底にある感情から気迫として現れ、強い意思で出来た作品なことを体感した。
願いが叶えばもっと欲しいとなり、叶わなければ神様なんか嫌いやとそっ...
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