「原作無視の二次創作映画」劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン 戦闘人形さんの映画レビュー(感想・評価)
原作無視の二次創作映画
はじめにお断りしておきますが、このレビューはかなり批判的な内容となっています。予めご了承下さい。なお、私自身はヴァイオレット・エヴァーガーデンの大ファンです。
今回の劇場版は『少佐の生存』と『ふたりの再会』というふたつのトピックを、いかに説得力あるストーリーに落とし込めるか、それが作品の評価を決める最重要ポイントであったと言えるでしょう。ところが実際には・・・
先に結論から言うと、脚本が酷すぎて話にならないと思いました。コロナ禍の中、感染リスクを冒してまで二時間超えの映画に足を運んだのは、主役ふたりの感情の機微を描いた感動の再開劇を見たかったからなのに、蓋を開けてみればデイジーだのユリスだのと余計な要素が多すぎて、まるで纏まりのない下手な作文を読まされている感覚で、苦痛でした。こんな内容なら一時間程度の中編で十分纏まったでしょう。以下、細かく。
序盤でまず、ギルベルト少佐の手紙をホッジンスが見つけて物語が動き始めますが、この時点で既に設定に無理があったように思いました。果たしてあのふたりは、相手の筆跡を覚えているほどの親密な仲だったのでしょうか?最前線勤務のギルベルトと後方勤務のホッジンスとの間にそこまでの接点は無く、ましてや男同士、筆跡を記憶してしまうほどに手紙のやり取りをしていたとも思えません。それに、何年間も見ていない友人の文字を一瞬で見分けることなんて、出来るのでしょうか?
所詮はアニメですから、時にはご都合主義も必要かとは思いますが、大切な取っ掛かりの理由付けがあまりにも安易、適当過ぎるように感じて、初っ端から醒めてしまいました。
次に、本作最大の鍵となるギルベルト少佐の生存に関してですが、作中では補足説明等がほとんど無く、リアリティー不足の感は否めませんでした。コマーシャルが明けたらいつの間にか時は流れ、最終決戦で負傷した少佐はエカルテ島に・・・みたいな感じの雑すぎる展開です。
時間枠の制約がある劇場版ゆえ、余計な描写は省いたのかも知れませんが、どうやって生き延びて島に辿り着いたのかは、現在の少佐の人物像を語る上で絶対に省略してはならないパートだったはずです。テレビ版の焼き直しみたいな病気の少年のエピソードを長々と入れてる暇があったなら、もっと主役ふたりの心理描写にこそ時間を割いて欲しかったです。あれもこれもと盛りだくさんにしようとして、結局全部中途半端で掘り下げが足りない結果に終わってしまったように思われました。
また、そもそもの大前提として、最終決戦で重傷を負った少佐が生き延びるには、第三者の介入による救命活動が不可欠だったと思われますが、テレビ版の描写を見るに一体誰が彼を助けたのでしょうか。すぐ近くでヴァイオレットは友軍の捜索隊に発見されたのに、どうして彼だけ見落とされたのでしょう?作中では『気づいたら病院にいた。認識票が無かったので修道会の病院に送られた』とのみ説明されていましたが、軍装と階級章でライデン軍将校であることは分かりますし、インテンス要塞の敵司令部付近に倒れていたのでしょうから、先陣を切った特別攻撃隊員であることも明白です。更に少佐自身、記憶を失ったわけでもないのに自ら名乗りさえしなかったのでしょうか。
また、もし味方のライデンシャフトリヒ軍に救助されていたのならば、ホッジンスやディートフリートがその事実を知らないというのは解せませんし、敵方のガルダリク軍は全面敗走中で、たかが少佐ひとりを捕虜にして連れ去る余裕などなかったはずです。ましてや、瀕死のギルベルト少佐が味方の捜索隊がやって来る前に自力で戦場を離れた可能性など、皆無に等しいでしょう。それにもし自分で動けたのならば、傷ついたヴァイオレットを放置しておくはずがないですし・・・
このあたり、基本設定がガバガバ過ぎると言わざるを得ません。
エカルテ島に流れ着くまで、彼は誰と出会い何を考え、何処で治療を受け、どのように生計を立てていたのか。その説明すら無いまま、いきなり偽名を使う怪しいジルベール先生として登場したところで、感情移入などできるはずもなく・・・
更にギルベルト少佐に関しては、鑑賞中にこう感じた方も少なくないかと思います。一途で気高く純粋なヴァイオレットの相手役にしては、やけに見劣りする男だな、と。
そうです。まさにこの点こそが、本作品最大の失敗と言えるでしょう。原作をご存知の方ならば先刻お分かりかとは思いますが、劇場版のギルベルト少佐は原作設定とはまるっきり正反対の、卑屈で矮小な人物に作り変えられているのです。近年、主役級のキャラをこれほどまでに改悪したアニメは、知る限りでは他に見た記憶がありません。
本作品における彼は、遥々島を訪れたヴァイオレットに対して、会えない、帰ってくれ、自分はもう死んだ等々、ごちゃごちゃと徒に上映時間を引き延ばして彼女を大泣きさせた挙げ句、最後の最後になって彼女の手紙を読んで逃した魚の大きさに気付いたのか、急にみっともなく喚き散らして島内を激走し、ヴァイオレットに抱きついて「ずっとこうしたいと思っていた」とか口走って自らの性癖を暴露する、変態お兄さんとして描かれています。
これは、美しい夜の海をバックにふたりが抱き合う感動的な場面におけるセリフなのですが、せっかくの名シーンも、彼の不用意なひとことで台無しです。あの美しい島で、少佐はずっとヴァイオレットのことを思い出しては猥褻な妄想に浸っていたとでも言うんでしょうか。
『私は君が思っているような人間じゃない』『私なんか君には相応しくない』と自らを卑下しておいてから『それでも愛してるから傍にいてほしい』だなんて、典型的なジゴロや結婚詐欺師の話法では?いくらファンタジーなアニメとは言え、笑えない冗談です。
そして散々焦らされ会いたい気持ちが極限まで募り、正常な判断力を奪われていたヴァイオレットは、こんな見え透いた甘言にイチコロです。少佐の死を乗り越え、愛してるの意味を探しながら懸命に生きてゆこうとする彼女を、巧みな演出で描いていたテレビシリーズの感動は何処へやら・・・
私はツッコミどころ満載の展開に、心の中で「この映画は本当にあのテレビシリーズや外伝と同じスタッフが作ったものなのか」と訝しんでおりました。更に言いますと「シリーズ集大成の完結編で、とんでもない代物をリリースしてくれたな!」とも思っていました。
今回の劇場版の描写に従うならば、最終決戦の場面で彼が口にしたあの「心から愛してる」は、つまるところ「君を性的欲望の対象として見てる」という意味合いだったのでしょう。作中設定に照らせば、小学校高学年の少女に対して20代後半の青年が欲情しているお話となります。最悪です。
ヴァイオレットがあれほとまでに知りたいと願っていた『アイシテル』の正体は、ロリコン将校の魂の叫びだった、ということなのでしょうか。
原作でも最終的には恋仲になるふたりではありますが、映像化に当たってもう少しなんとかならなかったのかと残念に思います。彼がヴァイオレットに抱いていた感情は、歳の離れた妹へ向けるような親愛の情であったと思っていましたが、本作品では一気に低俗なラブストーリー化してしまったようです。
また、これもお話の重要なキーポイントである、なぜ少佐は敢えてヴァイオレットを迎えに行かなかったのか?についてですが、これにも雑な酷い理由付けがなされていました。
少佐自身は『私があの子を不幸にしてしまったから、兵士として扱ってしまったから、もはや合わせる顔がない』等々、一見それらしい理由を述べてはいましたが、全部彼自身の都合ばかりです。ヴァイオレットの気持ちを汲んだ思考が全く見受けられないのは、致命的な演出ミスだと思いました。
彼の立場なら、何をおいてもまずはヴァイオレットの元に赴き、心身両面からケアしてあげるのが最善策だったのは明らかです。それが出来るのは、世界中で彼ただひとりなのですから。完全に責任放棄して現実から目を逸らした、卑怯者の誹りを受けても仕方ない所業です。
さて、尺の都合上、最後にバタバタとくっ付いて指切りげんまんして、ハッピーエンドを迎えたかに見えるふたりですが、これからの新生活を思うと暗澹たる気分にさせられます。一度染み付いたネガティブ思考は、そう簡単には抜けないものですから、少佐の本質は卑屈なまま変わってはいないでしょう。
一方でヴァイオレットは今後、内面、容姿ともに益々輝きを増してゆくと思われます。結果、身近でそれを目の当たりにして劣等感に苛まれたギルベルト少佐が、パートナーのヴァイオレットに暴力をふるう未来が容易に想像できてしまいました。今作の彼が辿るに相応しい末路と言えるのでしょうが、同時に別人のようなキャラクターに作り変えられてしまった少佐が哀れでなりません。作中でホッジンスがギルベルトを「大馬鹿野郎!」と怒鳴りつける場面がありましたが、観客の多くも「こんな腰抜けのクズ男にヴァイオレットちゃんを任せられるわけないだろ!」と思ったことでしょう。
またディートフリート大佐も、かつて自分が捨てた道具が思いの外魅力的な美少女に育ったのでやっぱり欲しくなった、という身勝手な男です。作中でホッジンスも指摘していましたが、もし少佐が発見されていなかったら、確実に少佐をダシにヴァイオレットの心の隙間に入り込み、彼女を愛妾か幼妻に仕立て上げていたことでしょう。この兄弟には、二度とヴァイオレットに関わってほしくないです。
少佐のキャラを改悪したせいで、結局ヴァイオレットもとんだとばっちりを受けてしまった形です。彼女が一途に想い続けていた相手は、こんなダメ野郎でしたよ、というまとめです。二時間以上の長編映画のラストが、純真無垢なヒロインがクズ男に騙されて大団円とか、これほどまでに主人公を虐め抜いて、本当に何を描きたかったのでしょうか、この映画は。
以上、気付いたままに批判ばかりを書き連ねてしまいましたが、ではヴァイオレット・エヴァーガーデンという作品は、元からこんなにもどうしようもない駄作だったのでしょうか?いいえ、断じてそんなことはありません。仮にも京都アニメーション大賞受賞作ですし、テレビ版から外伝へかけての感動は多くの方が覚えていらっしゃることでしょう。
ならばなぜ、こんな代物が出来上がってしまったのか。
その最たる理由は、今回の劇場版が全編ほぼ全て、原作無視のオリジナルストーリーだったからに他なりません。本来、原作小説にはデイジーもユリスもエカルテ島も出て来ません。全部、劇場版限定の妄想二次設定です。お叱りは覚悟の上で書きますが、原作要素ほぼゼロのこんな二次創作ムービーが、どうしてこんなにも大絶賛されているのか、いまだに全く理解出来ません。特にギルベルトファンの皆様は、本当にあんな内容で満足されたのでしょうか?あくまでも個人的意見ですが、精緻な作画や素晴らしい声優、美しい音楽など超プロ級の技を総動員しておきながら、肝心のストーリーがこの体たらくかよ・・・と、ファンのひとりとして非常に悲しい気持ちになりました。
もちろん、受け止め方は人それぞれですし、絶賛するご意見が多いのも承知しています。寧ろ私のような穿った見方が少数派であり、これが正しいなどとは到底言えませんが、少なくともこの映画をご覧になった方々ならば、私が上で挙げた各点が、強ちピント外れの指摘ばかりでもないことはご理解頂けたかと。もし原作未読の方がいらっしゃいましたら、どうぞ手に取ってみてください。本来のヴァイオレットと少佐に逢えることでしょう。もしかすると、劇場版に対する感想も変わってくるかも知れません。
以上、長々と書いてしまいましたが、要するに、原作から乖離した『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、主役のふたりを無理矢理再会させて終わらせるための辻褄合わせムービーに過ぎなかったのでは、というのが私の感想です。もし叶うなら、もう一度ゼロから作り直してほしいくらいです。
こんな内容なら、見るんじゃなかった。m(_ _)m