「これは、手紙が「時間」そして「人」をも超えて想いを届ける物語。」劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン そらのばさんの映画レビュー(感想・評価)
これは、手紙が「時間」そして「人」をも超えて想いを届ける物語。
座席が50%ということもあり、レイトショーでありながら満席。
映画館を出たときには目を泣き腫らしていた。
これ程全編を通して泣いたのは同じく京都アニメーションのTVアニメKanon10話(真琴√)以来だ。
映画.comの評価は0.5刻みなので5.0としたが、実のところ迷わずに点数を付けられる作品という訳ではなかった。
4.8点。
正しく続編である本作は、ヴァイオレットの物語としての軸はある意味「起と承」がTVアニメ版の中に存在する。いくら飾り立てようとTVアニメ版を見ていないと物語として成立していない。
間は短くしすぎると視聴者の感情がのらないが、長すぎると集中が切れがちになるが、随所で間が長すぎる箇所があったと感じた。
それが0.2点の減点内容であり、それを遥かに上回るだけの巧みさが本作にはあった。
非常に丁寧に描かいた演出や、音響など触れるべきところは多くあることは承知しているが、他を差し置いても脚本について触れたい。
これほど本作がシリーズのラストを締めくくるにこれ程相応しいもの足り得たのは、情報伝達手段としての「手紙」というテーマを正しく昇華したからに他ならないと思う。
ユリスの物語を軸に「手紙」は「電話」の出現によって需要が減っている様が描かれる。ユリスが危篤の中、アイリスの機転によって「手紙」では時間という壁の前に想いを届けることができなかったのを、「電話」という手段によって叶えることができた。また、終盤ではヴァイオレットとギルベルトを祝すと同時に、電波塔の完成を祝う形で花火が上がる。
これらは「電話」が「手紙」に取って代わるだけの価値を秘めていることと、現実の歴史でもそうだったように、この世界でも即時性のある「電話」が「手紙」に取って代わる宿命にあることを示している。
実際に、デイジーの時間軸では配達は衰退し、国営事業となっている。
しかし、そんな中でもデイジーは両親に想いを伝える手段として「手紙」を選択する。
ヴァイオレットが書き、アンに届いた母親からの手紙を見て決めた訳ではなく、ヴァイオレットの足跡を辿った末の結論として。
それは、感情が理解できなかったヴァイオレットが生涯に渡って「手紙」が持つ想いを伝える力を伝えてきた結果であり、何人もの手を渡るからこそ時代をも超える「手紙」が誇る、他の伝達手段に勝る強みである。
だからこその「デイジー」の存在であり、「人口の少ない島でありながら一番手紙を書く」というラストなのだろうと思う。
これほど、続編であり完結編という形に相応しい物はあるだろうか。
デイジーの物語はTV10話(アンの回)がなければ描くことができなかったし、これを劇場の物語の中に収めることはできないだろう。
続編だからこそできた飛び道具であり、アンの話の時点では予定していなかったであろうデイジーの話でシリーズとしての締めに相応しい形で締めくくる。まさに天才の所業ではないか。
万雷の喝采を贈りたい。