「「ミニチュア製作」=「映画製作」と考えると…」ヘレディタリー 継承 ヒロさんの映画レビュー(感想・評価)
「ミニチュア製作」=「映画製作」と考えると…
一般受けは絶対しないでしょうが一部に熱狂的なファンを生みカルト映画化しそうな一作だと思います。
自分には内容を理解するのが難しい映画だったので自分の思考整理の為にもここで内容を文書にまとめてみたいと思います。(長文且つがっつりネタバレします)
今回、この映画の感想を章ごとに分けて記述します。
◾️この話の中での目的と主人公
まず、この映画の話の目的と主人公を挙げます。この話の目的は悪魔の召喚です。
次に主人公ですが母親のアニーと考えるのが普通だと思いますが、ストーリーを理解しやすくする為に祖母エレンを中心に考えてみたいと思います。
◾️ストーリー
エレンは家族に秘密で悪魔を崇拝しているカルト教団の教祖をしています。彼女は呪術を用いて地獄の王パイモンを召喚しようとしています。その為に生贄として自らの夫を差し出し、パイモンの魂を自分の息子の肉体に憑依させました。しかし上手くいかず息子も亡くしてしまいます。
エレンは唯一の肉親となった娘・アニーと険悪な仲になりますが娘が生んだ二人の子供、自分の孫にあたる長男ピーターと長女チャーリーを次の生贄に定めました。
孫娘のチャーリーの肉体にパイモンの魂を憑依させることに成功したエレン。劇中で生きていた時のチャーリーの魂は地獄の王・パイモンです。
しかしパイモンが完全になるには男の肉体が必要でした。その為にはピーターを生贄にする必要があります。
しかしパイモンの魂をピーターの肉体に載せ替える計画が完了する前にエレンの寿命が尽きました。ここから映画がスタートします。先の計画を引き継いだのはエレンの右腕となって長年共に悪魔崇拝をしていたジョーンでした。
手始めにチャーリーに呪いを掛け殺し、チャーリーの肉体からパイモンの魂を解放します。次に娘を喪失し不安定になったアニーの心の隙を突き、肉親しかできない魂召喚の儀式をやらせせます。劇中でアニーが召喚した魂は地獄の王パイモンでした。
アニー達の周りで怪奇現象が巻き起こるなか、生贄として夫のスティーブが捧げられ、アニー自身もその過程で自己を喪失します。ラスト、ピーターは殺されその肉体にペイモンの魂が宿った所で映画は終わります。
ストーリーを自分なりにまとめてみました。間違いや訂正箇所があれば是非教えて欲しいです。
◾️疑問
鑑賞後に感じた疑問を列挙します。
1.ヘレディタリー(継承)されているのは何か?
2.なぜアニーはミニチュア(箱家)を作っているのか?
3.そもそもこの映画は何を伝えたいのか、テーマは何なのか。何をやろうとしているのか?
◾️疑問への考察
1.ヘレディタリー(継承)されているのは何か?
まず真っ先に思い浮かぶのは悪魔王パイモンの魂です。これが妹のチャーリーから兄ピーターに継承されています。それ以外にもこの映画の中では、パイモン召喚計画がエレンから友人のジェーンに継承されています。そして親子の衝突もエレン・アニー親子からアニー・ピーター親子に継承されています。
2.なぜアニーはミニチュア(箱家)を作っているのか?
箱庭療法というものがあり、以下のように記述されています。
「箱庭療法は、セラピストが見守る中、クライエントが自発的に、砂の入った箱の中にミニチュア玩具を置き、また砂自体を使って、自由に何かを表現したり、遊ぶことを通して行う心理療法です。
(中略)
この療法では、砂やミニチュア玩具のイメージを活用してアイデアを広げ、上手下手ではなく、具体的な現実生活に近い表現から抽象的な非現実的な表現まで可能です。よって、言葉にならない葛藤、イメージを表現しやすいのです。
また、意識していることだけでなく、気がついていなかった自分の心身の状態や動きが直接的に感じられ、自分の心の中との対話・対決へと通じ、自己理解と人格的変容が促されます。
子どもから高齢者まで、自己啓発の目的から神経症、心身症、パーソナリティ障害などにみられる心理的課題まで、幅広く用いられていますが、実施については、クライエントとセラピストと相談しながら進めます。」(一般社団法人 日本臨床心理士会ホームページより抜粋)
以上のようにアニーのミニチュア製作は自分が気がついていなかった心の葛藤を客観的に理解するために製作している向きがあると思われます。その理由は彼女が作っているミニチュアは彼女の心の喜怒哀楽が大きく揺れ動いた一瞬の出来事を止め画にして残している作業に思われるからです。
また写真に残せない一瞬の出来事を冷凍保存や真空パックしているのかなと思われます。
つまりアニーが作っているミニチュアは彼女の心の中なのです。
そして私はミニチュア製作はこの映画の製作そのもののメタファーになっていると思うのです。
3.そもそもこの映画は何を伝えたいのか、テーマは何なのか。
この映画を見た後、凄く困惑しました。理由は何を伝えたいのか分からなかったからです。
この映画は以下の2つのラインがあります。
・悪魔召喚の計画
・妹の死に由来する母と息子の葛藤と衝突
この二つ、まるで別個の話だと思うのです。
悪魔を召喚するだけなら親子の衝突はいらないし、親子の衝突には悪魔召喚は関係ない。
私がこの映画から感じたことは家族の喪失に理由付けをしようとしているのではないか、ということです。
町山智浩さんがラジオでこの映画を紹介されていた際、監督がこの映画を作ったキッカケは自身の体験が元でそれについては語りたくないと言ったと仰っていました。
おそらくなのですが監督自身が自分由来の出来事で兄弟を失い、それをキッカケとして自分の親との関係が悪化した過去があったのではないかと思うのです。
そして何とか兄弟の死に意味付けをするためにある種強引に悪魔召喚を付け加えたように映るのです。
つまりこの映画の目的は監督にとっての箱庭療法=ミニチュア製作=この映画製作なのではないかなと。
だからテーマや伝えたいことが分からない、というか無く、自分の心を治療するための映画だと思うのです。
映画の冒頭でミニチュアの中から家族が登場し、ラスト、ピーターの肉体を得たパイモンが直立する小屋がミニチュアのように撮られている。つまり監督の心の中を描写してるんだよって暗喩なのかなと思います。
◾️総評
映画は心のアトラクションだと思っています。遊園地のジェットコースターは人為的に体を揺さぶりますが、映画は人為的に人の喜怒哀楽を動かします。
MARVEL見たときには爽快感、ラブストーリーを見たときには感動、等映画を見た後は何かしらの感情の動きがあります。
この映画を見た後の感情は最悪でした。何というか人のリストカット跡を見させられているという感じ。
まだ息子側の視点だから描けたのかもしれませんが親が子供を無くす痛みがどれほど辛いものか。なぜお金を払ってこれを見させられなければならないのか。
そもそもチャーリーやピーターの魂はどこへ行ってしまったのか。子供の体を器としか描写しない俗悪さ。(そうしないと監督が心を保てなかったのかもしれませんが)
下北沢の小劇場なら有りだと思いますが、ちょっと一般公開する映画でやる内容では無いのかなと感じています。
ホラー映画の皮を被った診療療法映像を一般公開するかね、という印象です。
映像表現は凄い良かったです、ミニチュアからのセット移行や一瞬で昼夜が切り替わるカット、そしてデビッドリンチに通ずる不条理な画の綺麗さがあり素晴らしかったです。(重低音もリンチっぽかった)
あと何となく感じたのはホラー映画の呪怨では幽霊の伽倻子と俊雄が実体としてバンバン出てきますが、幽霊を実体として出していないだけであの家の中には魂が蠢いているんだろうなと。
そして最後に!
この映画もさることながら、この作品を絶賛した方々へも自分は怒りを感じています。
映画を見まくっていて、もう普通の刺激に慣れてしまって新しい刺激を欲している人にはこういう一見ホラー映画のように見える監督の内面描写映画という凄く歪な作品に食い付いてしまうのかなと思うのです。
月に何十本も映画を見るフリークならそういう刺激が嬉しいのかもしれませんが一般の方は違います。
普通の人の2時間って大きいと思うのです。毎日仕事して、子供を育て、炊事洗濯掃除などの雑務を行ない、他の人と付き合ったりした上でさらに余った時間をようやく映画に回せる。そうした貴重な時間をこのような映画で潰してしまうのは非常に勿体ないし、公の場で映画を評論したり勧めたりする方は一般人の二時間の重さを痛感した方が良い。
偏差値70の子が使う難しすぎて参考にならない参考書やMARVELような唐揚げとフライドポテトで胃もたれしてしまった映画フリークがホヤやあん肝で呑むような玄人向けの映画だと思う。かなり歪な作品です。
お返事ありがとうございます、長文にお付き合い頂きありがとうございました。
著名な脚本家が「物語を見せるということは観客からお金だけではなく時間も奪っている。鑑賞時間分殺している。その死なせた時間をかけがえのないものにするのか、無駄にさせるのか、作り手はそこを問われている」という話を聞いたことがあります。
評論家や公で意見を言える人もそうですよね。どうしたって映画を選ぶ指標になるわけで。
初めまして、中々面白く拝見させて頂きました。総評の部分は感じるものがありました。この作品に関しては、特集やプロレビュアー方々のかなり速いレビューにて絶賛されていたので?と思った事は多々ありました。情報操作までとは言いませんが、ステマに近い煽り方は非常に不愉快で私は、特集は特に信頼しなくなりましたw