「(長文)映画と「ボヘミアン・ラプソディー」という曲と」ボヘミアン・ラプソディ しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
(長文)映画と「ボヘミアン・ラプソディー」という曲と
▪️ボヘミアン・ラプソディー(映画)
始まりは、いつもの20世紀フォックスのファンファーレ。
…と思いきや、その音はまるでクイーン!鳴り響くギターはブライアン・メイ!
もう、この瞬間から、すべてを持っていかれる。
続いてカメラはフレディ・マーキュリーを追う。
しかし、顔は映らない。
後ろ姿だけだ。
カメラが引いて後ろ姿の全身を映した瞬間、ぞわあーと寒気が走る。
そこにフレディ・マーキュリーが“いた”。
それほど似ているのだ。
ちょっとした動き、身体の筋肉の動かし方、しぐさ、などが。
それはもう、後ろ姿だけで充分なほどだった。
フレディを演じるのはラミ・マレック。
冷静に見れば、顔姿はフレディには似ていない。
しかし本作では、生前のフレディの映像から、彼の身体の動きをコンピュータで解析、マレックは、徹底的にフレディの動きをトレースできるようトレーニングを積んだ、とのこと。しぐさまでが本人と思わせる演技につながった。
そして彼の演技は“モノマネ”ではない。人種(フレディはインドからの移民)、セクシャリティ(彼はゲイだった)と、二重のマイノリティであったフレディの孤独や苦悩といった内面性をも表現していて見事。
いや、フレディ演じるマレックだけではない。クイーンのメンバー演じる4人がどこからどう見てもクイーンにしか見えない。
劇中でも出てくるが、クイーンにリーダーはいない。クイーンは、メンバー全員が個性的で(着る服の趣味も全員違う)、全員が曲を書けて(しかも全員がクイーンの代表曲を作っている)、と、4人がそれぞれ際立っていて、それでいて4人が1つというバンドだった。
そういうクイーンを、彼らは見事に演じている。上質な芝居を見せてくれた俳優陣の演技に拍手を送りたい。
というのも、本作はあくまで「クイーンを元にしたフィクション」というべきもので、いくつも「史実」と異なる箇所がある。
決定的なのはライヴ・エイドに至る経緯だ。
ライヴ・エイドでは「Radio Ga Ga」「ハマー・トゥ・フォール」を演奏するのだが、これらはアルバム「ワークス」からのナンバー。ライヴ・エイドは85年。一方「ワークス」は84年のリリースで、その後ワールドツアーに出ている(日本公演は85年)。
映画ではバラバラになっていたクイーンが、ライヴ・エイドへの出演を機に、久しぶりに集まって演奏した、ということになっているが、これはどう考えても無理があるだろう。
しかし、だ。
こうした“真実”を知る者に対しても、この映画の表現としての強さは揺るぎない。強さゆえ、これはこれで説得されてしまうのだ。それだけの強度が、本作にはある。
映画はもちろん、“作りもの”だ。役者が動き、ドラマを生んで、説得力の高い“作りもの”を魅せる。そういうもの。
この点で、本作は実に高品質な“作りもの”なのである。この映画の中のフレディ・マーキュリー、この映画の中のブライアン・メイ、この映画の中のロジャー・テイラー、そして、この映画の中のジョン・ディーコンがそれぞれ動く。かくして僕たちは「この映画の中の真実」を信じ込まされ、そして映画の作る世界に酔う。
本作は、それほど強い。
そして、この強さは音楽の力によるものも大きい。
もちろん、劇中で奏でられるクイーンの曲そのものがいいわけだが。さらに、メンバーのブライアン・メイ、ロジャ・テイラーも協力した本作の音作りは非常に素晴らしい。
ラスト、21分間のライヴ・エイドのシーンは圧巻。巨大アリーナの群衆が音楽で一つになるカタルシスにゾクゾクする。そして、映画館の中までもライヴ会場にしてしまうほどの迫力だ。正直、黙って座って観ていることが苦痛になるほどである。
この映画、135分あり、やや長いのだが、ラスト、すべてがこのライヴのシーンに帰結する。このライヴの前のシーンすべてがラスト21分のための序章として存在したと言ってもいいほど。それくらい濃密で、画面からの圧力すら感じられ、まばたきするのも惜しいと思えるシーンなのだ。
また、曲の使い方にも工夫がある。例えば「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」。フレディは恋人メアリーを想いながらこの曲を作るのだが、このとき、そばにいたマネージャーのポールが突然、フレディにキスをする。映画では、この出来事からフレディがゲイを自覚していくことになっているのだが、メアリーを想って作った曲でありながら、彼女を失っていくきっかけになるという両義性を持たせているのだ。
ツアーから戻ったフレディがメアリーに、巨大スタジアムでの「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」のファン大合唱の映像を見せる。しかしこのとき、話の流れからフレディがゲイであることが彼女にも明らかになる。
会話の背後では「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」が流れ続けている。「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」=“運命の人”とはメアリーのことなのだが、結局、作中では、フレディが彼女に対してこの曲を歌うことはないのだ。実に苦い。
ほかの楽曲の使い方も見たい。まず本作は「Anybody find me somebody to love(だれか僕に愛する人を探してくれ)」と歌う「Somebody to love」から始まるのだが、これはまさしくフレディの孤独な叫びと呼応し、本作のオープニングにふさわしい。
売れ始めたクイーンがライヴで歌うのは「炎のロックンロール」、原題は「Keep yourself alive」、「君が生きてるっていう時を続けるんだ」。バンドとしてのアイデンティティが立ち上がってきた時期と曲のメッセージがぴったりだ。
病院でフレディがエイズだと告げられるシーンは「リヴ・フォーエヴァー(原題Who wants to live forever)」 で、これまた巧い。
ラストのライヴ・エイドで歌う「伝説のチャンピオン」。原題の「We are the champions」とは、クイーンのメンバーもそうだし、観客も含めて、「俺たちみんな、一人ひとりがチャンピオンなんだ」というメッセージ。それがフレディの伸びやかな歌声に乗せられて観る者の心を揺さぶる。
エンディングでは2曲。まずDon’t stop me now、「まだ俺を止めないでくれ」、という曲が流れる中、テロップはフレディの死を告げる。
最後はThe show must go on。フレディが参加したクイーンの最後のアルバム「イニュエンドウ」所収。フレディはこのアルバムの完成を待たずにこの世を去る。そしてフレディの死後、遺されたメンバーによって、この曲は完成された(フレディのヴォーカルトラックは録ってあった)。命ある限りショーは続ける、というフレディの声とともに、フレディ亡き後もクイーンは続ける、というメンバーのメッセージも込められた曲で、この映画は幕を閉じる。
家庭のテレビの解像度は上がったが、音響環境では、まだまだ映画館が圧倒的に優れている。本作は音楽が素晴らしいし、ライヴの場面は大画面のほうが楽しい。ぜひ、映画館で観ることをお勧めします。
▪️ボヘミアン・ラプソディー(曲)
「ボヘミアン・ラプソディー」という曲には謎が多い。
そもそもタイトルが謎だ。
クイーンのシングル曲は、ほとんどがサビがタイトルになっている。
We will rock you
We are the champions
Killer queen
Don’t stop me now
Under pressure などなど
このようにクイーンの曲のタイトルはすごく単純な物が多いのだが、「ボヘミアン・ラプソディー」だけは異なる。
そもそも曲中、Bohemian rhapsodyという言葉は一切出てこない。
これを直訳すると、「放浪者の狂詩曲」。
いや、わからん。
そもそも、この「放浪者」って誰だ?
そして歌詞も謎だ。
この曲ではフレディは以下の歌詞から歌い出す。
Mama, just killed a man
ママ、たったいま、男を殺したんだ
さて。
クイーンのファンのあいだで語り草になっているテレビ番組がある。
「ボヘミアン・ラプソディー殺人事件」
「世紀を刻んだ歌」というシリーズの1つで初回放送が2002年。おそらく、それから軽く5〜6回は再放送している。
この謎多き名曲を、この曲を作ったフレディ・マーキュリーの周辺の人たちにも取材しながら、真相に迫ろう、という番組だった。
もちろん、フレディはすでに鬼籍に入り、正解は知りようもない。
それでも、この番組の「解釈」は、非常に説得力があると僕は思っている。
フレディはゲイだった。
学生時代に付き合っていた女性はいた。映画「ボヘミアン・ラプソディー」にも登場するメアリーである。フレディは彼女と婚約までするが、やがて男女の関係としては終わりを迎える。
彼女と別れたのは76年。「ボヘミアン・ラプソディー」のリリースは75年。
この番組は、「ボヘミアン・ラプソディー」で、「フレディは彼自身を殺した」と解釈している。
異性愛者として生き、メアリーと同棲し、やがては結婚することまで考えていたフレディ。だが、自身のセクシャリティに次第に気付き、やがて確信する。それは、彼女を愛し、ともに暮らすという人生を歩むであろう「自分自身を殺す」ということなのである。
だからBohemian(放浪者)とはフレディ自身のことである。愛する女性と家庭を持つ人生ではなく、“放浪者”として生きることを彼は悟ったのだ。
当時はいま以上にLGBTに対する理解がなかった。しかも、彼はミュージシャンとして世間の注目を浴びる存在である。自分自身について知ったフレディには、まさしく、それまでの自分自身を殺すほどの覚悟が必要だったのではないか。
そう解釈すると、この曲の歌詞はしっくりくる。
曲の始まり。
Is this the real life
これは現実の人生?
Is this just fantasy
それともただの幻か?
Caught in a landslide
地滑りに巻き込まれたみたいに、
No escape from reality
現実から逃れることは出来ない
先に引用した部分とその続き。
Mama, just killed a man
ママ、たったいま、男を殺したんだ
Put a gun against his head
彼の頭に銃を突きつけて
Pulled my trigger, now he's dead
引き金を引いたら、彼は死んだ
Mama, life had just begun
ママ、僕の人生は始まったばかりなのに
But now I've gone and thrown it all away
僕はもう駄目にしてしまった
こんな歌詞もある。
Goodbye everybody - I've got to go
みんな、さようなら。僕はもう行くよ
Gotta leave you all behind and face the truth
みんなのところから離れて、真実と向き合わなければいけない
そう、この曲でフレディは自分自身を「殺した」。つまりフレディは、これをラプソディーではなく、自分自身へのレクイエム(鎮魂歌)として歌い上げているのだ。
ゆえに彼は、この曲を壮大なロックオペラとしたのだろう。
カミツレさん
ありがとうございます。
この映画では、フレディのマイノリティ性を描くにあたって、人種のほうに重きを置いた、ということなんだと思います。冒頭から家族を描き、名前を変えるエピソードを挟み、ラスト、ライヴ・エイドに向かう途中で実家を訪れて、ライヴ中継を家族が見る、と。
レビューにも書きましたが、この映画はあくまでもフィクションです。商業ベースの、音楽映画というフォーマットに入れるために、事実と異なるストーリーにしてあります。そして、やはりレビューに書いた通り、そのこと自体は良しとしています。
セクシャリティのことも含めて、最後には家族も認めた。そうして“浄化”されたように描いていること自体が、家族という価値観を上位に置いている描き方ですよね。
その上で思うのは、LGBTのことは描きにくかったんだろうなあ、ということ。彼の音楽性、デザインのセンス、さらに言えば男性4人のバンドにクイーンと名付けたことなどにも、彼のセクシャリティの影響はあったと思うのですが。
しろくまさん、はじめまして。
クイーンの曲の歌詞とフレディ・マーキュリーの人生の物語とを結びつけて論じるレビューがようやく出てきた!と興奮し、レビューの内容にも深く共感させていただきました。
私も、『ボヘミアン・ラプソディ』の歌詞の中で「フレディが殺したのは彼自身である」という解釈に、非常に説得力を感じます。
セクシャリティの問題もそうですが、付け加えて言うと、彼自身の出自や容姿についてのコンプレックスも関係があるのではないかと思います。
映画の中でも、フレディが「ファルーク・バルサラ」という本名を捨て(戸籍まで変えて!)「フレディ・マーキューリー」と新たに名乗るようになった場面が象徴的に描かれています。
この時に彼は、これまでの自分を“殺してしまった”という罪の意識を背負いながら、新たな自分に生まれ変わったのではないでしょうか。