劇場公開日 2018年12月7日

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「青春を飼いならせ」青の帰り道 アルバータ商人さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5青春を飼いならせ

2019年5月26日
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非常に良かった。

映画の前半は”青春”の暴走とその危険性が描かれる。

まずはレビューの見通しを良くするため、青春モノにありがちな"理想の青春像"を実現するステップを挙げることから始める。

1. 夢が見つかる。
2. 夢を共にする仲間もしくは理解・応援してくれる誰かを見つける。
3. 夢に向かって一歩踏み出す。
4. 努力を続ける。
5. 思った通りの夢が叶う。

そして残念ながら、これらをやり遂げられた人はこの物語の主人公たちにはいない。

リョウはステップ1 の手前で置いてけぼりをくらっている。高校卒業時点で将来の目標がない彼の「自由だ〜!!」という叫びは何もない高い空に溶けていき、その後もその自由を有効に活用することはできずに人生を消費している。それに彼自身も気付いていながら、結局何もできず、ついには犯罪に手を染めて空虚を満たそうとするも、その営為もまた虚しい。しかしそんな空っぽの人生でも「死んだら終わりなんだ」と強く心に留めている。そんな彼にとって夢や目標のある他の仲間が、いちいち深刻めいていることは理解し難かったことだろう。

カナは一番ステップ5に近づいた人だ。夢あり仲間ありで上京して、たゆまぬ努力もしっかりする。歌手としてのデビューまで果たしリーチがかかっていたにもかかわらず、大人の事情で結局ステップ5だけクリアできなかった。しかし歌手として生計を立てるほどまでにはなっており、普通に就活するユウキなどの一般人から見ればうらやましい人生だ。けれど幸せの物差しは人それぞれであり、当の本人は不満を溜め、思っていた自分の成功姿とのギャップに自信を失っていく。

キリとタツオはカナと一緒に夢を追いかける仲間という意味では同じだ。しかし、二人には大きな違いがある。それは「現実に生きた」か、「虚構に逃げた」かにある。

キリはカナのそばでカナの苦悩を共に味わい、夢見た芸能界の舞台裏の現実を知ってしまった。いつしか彼女は社会の一員として馴染んでいき思い通りにならないことに慣れてしまう。一瞬だけセイジに恋愛と言う形で”青春”を取り戻そうとするも、それも最悪の結末となる。その後実家に戻りバイトでお金を稼ごうとする彼女はやはり現実に対して忠誠的だったと言える。

タツオは大学受験失敗によってステップ4の途中で挫けてしまう。挫けた後モラトリアムに興じ、一番輝いていた高校時代や(おそらく恋をしていた)カナとの物理的心理的距離が一番近かった頃の過ぎ去った虚構に逃げ込みそこに居座り続ける。そして、カナの抱える悩みや不満を余所に自分の世界に閉じ込もるようになる。そうしているうちにまだ見ぬ東京の雑踏とカナを理想化し幻想を抱いたのか、ある日無計画な上京を決意する。が、その幸先、カナとのビデオ電話で、彼は現実に突き落とされる。彼が独りよがりに夢想していた理想の地に、片道たった2400円の切符で辿り着けるわけなどなかった。それを悟り絶望した彼は自殺してしまう。

ユウキはあまり描かれないため難しい。普通に大学受験を突破して上京し、大学生活をエンジョイし、卒業後都内の会社に就職...と一番ありがちな青春をある意味一番謳歌している。しかし、犯罪者リョウの協力を得ようとしたりする彼の弱い面も描かれていることや、タツオのおかしい様子や生気を失ったキリを前にしても深入りしようとせず結局傍観者で終わる彼は、その他大勢の代表としての側面が強い。

”青春”に振り回されると、人は自分勝手になるのだろうか、現実に無事帰ってこれたキリ以外は、何かしらの(犯罪を含む)加害行為を働いている。リョウやセイジ(彼もカメラに賭けた時代があったことをほのめかしている)は犯罪に手を染め、ユウキもそれに片足を突っ込んでいる。タツオはユウキを怒鳴りつけて突き放し、最後は矛先を自分に向け自殺してしまう。カナだってタツオやキリを身勝手な言葉で傷つけ、最後はタツオと同じように自身に刃を向ける。

ここで、できちゃった婚をしたコウタとマリコに言及する。彼らは、”青春"に囚われる他の仲間たちとのコントラストとしての役割を持って描かれる。彼らは基本的に青春の罠にハマる前に家族ができ、ずっと幸せそうである。三浦雅士著の"青春の終焉"で彼は「日本において”青春"は近代に発明された概念だ」と唱える。昔は皆、コウタとマリコのようにある程度成人すればすぐ子供を作って家庭を築き、自己実現や恋愛成就などおよそ青春が駆り立ててくる観念に悩ませられたり身を滅ぼされる暇がなかった。面白かったのはコウタとマリコがキリに子供を預け「ちょっと青春してくる」間に彼らの子供が病院に運ばれる事態が起こり、彼らもまた”青春”の牙に脅かされる客体として暗に描かれていることだ。

もう一度言うが、残念ながら理想の青春像実現ステップ1〜5の全てをやり遂げられた人はこの物語にはいない。

しかし、「人生に正解はない」とキリの母が言ったように、彼らを不幸と決めつけることはできない。タツオの死後の物語はそのメッセージをテーマづけるべく動いていき、まさに青春という遠足の帰り道を歩いていくのが映画の後半である。

帰るまでが遠足だとすれば、不完全燃焼で終わった青春とそこからの回帰の姿もまた青春の一部である。つまり、青春の定義を少しだけ広くする新しい定義をこの映画は提唱しているのかもしれない。

しかしその新定義の枠組みを持ってしても、帰らぬ人になったタツオは浮かばれない。映画の冒頭で若者の自殺率に言及していることから察するに、「それでも生きなさい」というシンプルなテーマが作品の根底にあることが分かる。

“青春”のイデアを見ようとする若者たちが、無我夢中に道をかき分けて進んだ先に見るものを、我々はこの映画で見ることができる。

そんな“青春”を飼いならし乗りこなすことが、天才だったらできるのだろう。

アルバータ商人