「映画ハナレイ・ベイ」ハナレイ・ベイ ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
映画ハナレイ・ベイ
想いは、静かに、少しずつ、徐々に重さを増し、そして溢れ出る。
映画ハナレイ・ベイは、何か生きることに力を与える作品だ。
お父さんのこと、嫌いだったんでしょ?小説にはない(はずの)、このセリフが、そっと重くのしかかる。僕のことも好きじゃないよね?と続けて言っているように思えるからだ。
親子だからといって価値観が一緒というわけではない。
僕は、ガンで亡くなった父とは感情のすれ違いが大きかった。それも、かなり。
亡くなる前に、父と少し話た時、自分は最後まで諦めないで治療をするが、自分の意識が戻ることがないと分かった時は、延命措置をしないこと、母親のこと、お墓のことなど言付けられて、覚悟のしっかりした人だと、初めて感心した。それでも、僕は、父が亡くなった時も、お通夜やお葬式でも淡々と過ごしていた。
小説ハナレイ・ベイは、淡々と物語が展開する。サチが、片脚のサーファーを探し回る場面も、簡潔に表現されていて、その思いは、読み手の気持ちや、過去、或いは想像力に委ねているかのようだ。
映画ハナレイ・ベイは、吉田羊さん演じるサチが、片脚のサーファーを探し回る場面を、そして、膨らむ思いを丁寧に撮っている。サチの感情の振れ幅が、小説より大きく感じる。でも、これは良いと思えた。
僕の親しかった従姉が、亡くなった父のために、お線香を上げに訪ねて来た。それまで、普通に淡々としてたのに、帰る従姉を見送るため玄関先まで出て、二人きりになった時、なぜか涙が溢れ出た。今でも、何故、涙が溢れたのか、悲しかったのか、あの従姉を前にしたからだったのか、説明はつかない。僕が涙を流したことを知ってるのは、あの従姉だけだ。理由は、きっと一生、見つからないような気がしていた。ただ、この作品に触れて、少しだが、いつか、それを理解できるかもしれないと思った。僕の中にある、わだかまりのようなものが昇華するように思えたのだ。
だから、映画ハナレイ・ベイを好きだと思った。
その手からこぼれ落ちて初めて、重さを感じることもある。
タカシを嫌いだった。でも、愛していた。相反する気持ちは、誰もが抱く感情ではないのか。どうして、自分にはタカシは見えないのか。どうして自分の前に現れてくれないのか。会いたい。カウアイの自然は自分を受け入れてはくれないのか。タカシは自分をどう思っていたのだろうか。父親の残したカセット・プレーヤーで音楽を聴きながら、サチの心を見通していたのではないか。想いはサチの胸を貫く。会いたい。
物語の締めくくりは、どこか軽やかさを感じさせる。喪失感は絶望ではない。遠くに見えた片脚のサーファーはインバランスの象徴だ。片脚のサーファーは、波には乗らない。立ったまま、じっと何かを見つめている。でも、微笑んで立ってるような印象だ。
どこかで喪失感を抱えながらも、バランスをキープして、時には軽やかに生きて行かなくてはならない、サチや僕たちのようだ。黙っていても、時間は未来に向ってい行く。正解などなくても、僕たちは生きて行くのだ。