「ノワールのパンダ」沈黙、愛 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
ノワールのパンダ
丸顔。大きい瞳。豊頬。笑っているような口元。
そこはかとない割れ顎と、さらにそこはかとない割れ鼻突。
神が造形したのか、人が造形したのか知らないが、絶妙の顔立ち。
パクシネが嫌いな人なんてひとりもいない。
だが、映画はおそらく消極的だと思う。あっても助演か、はっきりした主役はない、もしくはソースを見つけることができなかった。
すでに長いスターダム。
ポジションを確立している人だが、そろそろシリアスな演技の需要を模索するかもしれない。映画に、積極参入しはじめるかもしれない。──を感じさせる映画だった。
世の中にデマンドが浸透して、かつてのドラマも見た。
──後追い体験ながら、当時の流行を理解した。
野暮を承知で言ってしまうと、いくら軽いドラマとはいえ、あからさまに女の子としか思えない子を、男子ですと設定してしまうところは、日本の発想にはなかった。
気づくだろ、ふつう──ということではなく、男子に化けて、それが通る世界をつくりだすことは、発想になかった。
その強引な設定が韓流ドラマの凄みだった。
韓流ドラマはベタを拡大する。これは韓国映画のスタンスとは180度異なり、コンテンツ別でしっかりターゲットを分けている。
かつて、職場の若いひとが飲み会でやった「韓流ドラマの酔っ払い」が、解らなかったのだが、今は解る。
回らない呂律で「わたしはあ」を繰り返し、テーブルに置いた肘をズルッと落とし、ましじゃましじゃと言いながら一気飲みし、笑いか泣きの上戸を演じる。
つまりベタに輪をかけてベタな、うそくさ~い酔っ払いが「韓流ドラマの酔っ払い」芸、だったわけである。
当時韓流ドラマに触れていなかったわたしには、たんにかわいい酔っ払い──にしか見えなかった。
つまり、それが受けている真の理由を知らずに、へえかわいい酔っ払いですねえと思って笑っていたわけである。
違う。それではぜんぜん違う。
彼女は「韓流ドラマの酔っ払い」芸をやったのである。
野暮なおっさんなのはいい。おっさんなんだから。
しかしせめて「韓流ドラマの酔っ払い」くらい識別できるようになっておきたいと思った。
おそらく、この「韓流ドラマの酔っ払い」芸が念頭に置いている人物がパクシネである。
だれでもできるし、だれがやっても愛嬌のなかにおさまる。
が、その愛嬌が最大限に発揮され、相手役イケメンの凍った心を溶かすのが、パクシネの酔っ払いだった。
すなわち、演技があろうとなかろうと、その癒やしオーラを素でまとっているのがパクシネだった。
この癒やしオーラが、とてつもない需要を担っているのは、韓国のドラマが、かならず閉ざした心、もしくは傲慢な男が、清らかな心根の女性との交流によって氷解してゆく──という構造を持っているからだった。
そのオーラを最大限にまとっているのがパクシネだった。──わけである。
この韓流ファンにとっては解りきった基礎知識を知り得たのは、デマンドが浸透して海外ドラマに接しやすくなったからだが、とうぜん初見でもパクシネは人を溶かす寛恕を、その外見に持っている。
だが、この映画を見て、なるほどと思ったのは、非情を得意とする韓国映画のなかにパクシネがいると、やはりよその畑にまぎれてしまった感がある──ことだ。借りてきた猫ならぬ借りてきたパンダという感じ。
寡黙で理知なのも悪くないが、やっぱ笑ったほうがいいひとなのである。
ミンシクの映画を見るのに、パクシネで釣られたことは反省しているが、それはわたしだけではあるまい──とは思っている。