劇場公開日 2018年12月28日

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「☆☆☆☆ 予告編を先に見て、次に原作を読んでいるからこそ合点がいく...」こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 松井の天井直撃ホームランさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0☆☆☆☆ 予告編を先に見て、次に原作を読んでいるからこそ合点がいく...

2019年1月5日
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☆☆☆☆

予告編を先に見て、次に原作を読んでいるからこそ合点がいくのだが。原作だけ読んだのならば、「一体これが映画になるのか?」…と、思ってしまう事だろう。
ノベライズ版にて、数多く登場するボランティア達を。美咲と田中というカップルの目線から、鹿野という人物像を描く方法に切り替えた事で。読んでいても「あゝ!そう来たか!」…との思いを強く持った。

その要因として大きく感じたのが、主人公の鹿野を大泉洋が演じるという事。
この稀代の、弄られ・僻み・毒舌俳優が演じる事で。原作を読んだイメージ通りの鹿野像が、そっくりそのままスクリーンに映り込んでいるのだから。
そして、原作では数多くのボランティア達が登場するのだが。その中でも、鹿野との交流で印象深いボランティア男女の何人かをピックアップし。それを映画の中の、美咲と田中の性格に振り分けていた。
これで、原作だけだと単なる障害者を扱ったお涙映画になりそうなところが。若い2人の恋愛映画でもあり。鹿野を中心とした家族映画としても成立して来る。必ずしも傑作とは行かずとも、悪い作品にはならないだろう…との予想はついた。

それにしても、この主人公で障害者である鹿野は。その言動から、多くのボランティアを始めとする人達に数多くの毒舌を平気で吐くなど、実に強烈なキャラクターだ!

以前に私は、別の映画のレビューにてこう記した事がありました。
(※もしも人間1人1人に生きて行く人生の中で、我が儘を言える回数が決められていたとしたら…。

果たして使い切った方が得なのかどうか?
その結果として、最後に道端で野垂れ死んで行ったとしたら、その人の人生は悲しい最期だったのか?は解らない。

ひょっとしたら、多くの人に囲まれた幸せな最後であっても、死ぬまで我が儘を言わなかった事は、人生に於いて得だったのかどうか?…それも解らない。
全ては、神のみぞ知るところでしょう。※)
(『◯◯◯旅』のレビューより)

原作を読んだ時に思い出したレビューの様に。何故に鹿野はそこまで自我を剥き出しにし、毒舌や我が儘を言い続ける事が出来たのか?…を、原作を読んだ直後に考えさせられた。

鹿野のワガママに対しての最古参の鹿野ボランティアの言葉。

★「とらやにとって、寅さんというのはやっぱり〝ワガママなヤツ〟なんですよ。でも、みんなそのワガママに、ふと人生を感じちゃうというね…。逆にあのキャラクターが変わってしまったら、シカノさんの面白味の半分はなくなっちやうような気がするんだけど」

「もう1つ言うと、障害を抜きにすると、シカノさんのキャラクターもなくなっちゃうから難しいんですよね。障害がなきゃ、今のシカノさんじゃないだろうし、こういう言い方は語弊があるかもしれないけど、『障害あってのシカノさん』というところがありますからね」(★原作より転載)

↑この言葉を始めとして、原作の第6章「介助する女性たち」には。鹿野という人の人物像及び、何故に多くの人達が、彼の為に多くの時間を割いてまで尽力したのか?が説明されている。

彼は、ただ単に毒舌や我が儘を言い続けた訳ではなく。身動きが取れない自身の身体を受け止め、周りのボランティアの人達の、人となりを細かく観察し。自身での唯一の武器となる口からの言葉による手練手管を駆使しては【生き続ける】道を選択したのだった。

更に、同じく第6章には。社会で【健常者】と【障害者】が《共存》していく為の、意識の問題点と共に。双方が、今後に向けての【対話】と、立場の【対等】とゆう意識の変化が大事だと提示している。↓

★さらに社会的な場で「障害者」や「福祉」について語られる際に、つねに問題となってくることに、これまでも何度か挙げてきた「障害者の聖化」という問題がある。
健常者は、もっともっと障害者の痛みを知らなければならない。彼らはこれだけ大きなハンディを背負っているにもかかわらず、こんなに頑張って生きているのだから。悪いのは社会や健常者の側の不理解であり、彼ら自身はつねに正しい存在であるー
〜略〜
摩擦や対立は、なければないに越したことはないし、障害者と健常者がいつも穏やかに和気あいあいと過ごせるものなら、それに越したことはないのだが、「違うもの」どうしがつき合ってゆく場において、摩擦や対立は避けられないし、避けるべきものでもないという現実をもっとよく知るべきなのだろう。
〜略〜
「共に生きる」とは、つまりは、摩擦や対立を当然のごとく含み込んだ上での、「対話」を重視した双方向的な関係に他ならない。
それが「対等」ということの意味でもあるのだろう。
〜略〜
日本で障害者の自立生活や在宅福祉が立ち遅れているのは、なにも差別や偏見が根強いからではなく、むしろ相手に遠慮ばかりして、なかなか本音を語り合わない国民性、摩擦や対立を「対話」で乗り越えることに慣れていない、日本の風土とこそ関係があるのではないかと私は思うようになっている。(★原作より転載)

時には相手に不快な言葉を吐きつつも、直ぐにその相手に対して本音でぶつかって来る男。その思いを強く受け止めるボランティアの人達。
脚本に於いて、それを象徴する存在としての人物像が。おそらく美咲と田中の性格と行動で、表しているのだろうと思う。
初対面の時に美咲は、何の悪気も無しに「何様?」と本音で鹿野にぶつかって行く。
一方田中の方は、鹿野に対してなかなか本音でぶつかる事が出来ない。
全ての人がそうなる様に…とは必ずしも主張はしていないのだろうが。その様な〝対等〟な立場で【健常者】と【障害者】が向き合う社会で有って欲しいと願っての原作で有り、映画化でも有るのだろう。

ノベライズ版に於いて、最後に原作者は。鹿野本人が生きて来た人生で。彼が身を粉にして周りのボランティア達を始めとして、伝えて来た意味を語っている。↓

★それまで自立というのは、他人の助けを借りずに、自分で何でもできること(身辺自分という)、あるいは、自分で収入を得て自分で生きていくこと(経済的自立という)を意味していた。
しかし、そうではなく、自立というのは、自分でものごとを選択し、自分の人生をどうしたいかを自分で決めること(自己選択・自己決定という)、そのために他人や社会に堂々と助けを求めることである。そして、どんなに障害があっても、他人の助けを借りながら「自立」して暮らせる社会は、どんな人にとっても安心して生きられる社会のはずであるー。(★ノベライズ版の原作者あとがきを転載)

新年早々から良い映画が観られて本当に良かった。
サブタイトルに〝愛しき実話〟と付きつつも、肝心要なカップルの2人は。何人かのボランティアの人達を併せた、映画オリジナルによる人物像だったりするのだが。そんな事は映画製作に於いての批判にはあたらないだろうと思える。
何よりも高畑充希が最高に素晴らしかった!
出来る事ならおじさんにも触らせて欲しい(-.-;)ヽ(`ω´ )o

2019年1月5日 TOHOシネマズ市川コルトンプラザ/スクリーン7

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松井の天井直撃ホームラン