「稀有な人生」幸福なラザロ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
稀有な人生
新約聖書の中のルカによる福音書(ルカ伝)とヨハネによる福音書(ヨハネ伝)の中に、ラザロが登場する。
ルカ伝のラザロは全身デキモノに覆われた乞食で、金持ちの家の前に座っておこぼれを待っている。ラザロも金持ちも死んで、黄泉の国で苦しむ金持ちが見上げると、ラザロはアブラハムの懐にいる。
ヨハネ伝のラザロはマリアとマルタの姉妹の兄弟で病人である。死んで墓に入れられてから四日後にイエスが蘇らせた。そして病気も治ってイエスと一緒に食事をする。一般にこちらのラザロが有名で、死者の蘇生実験の映画「ラザロ・エフェクト」は記憶に新しい。
本作品のラザロは聖書のラザロと違い、至って健康で働き者である。そしてヨハネ伝のラザロと同じように皆に好かれている。それはラザロが決して人に反対せず、相手の願いを叶えようとするからである。口答えのしない働き者はとても便利な存在だ。それは誰もがラザロを下に見ているということでもある。しかしラザロ自身はそんなことを意に介さない。
この映画を観て、ドストエフスキーの小説「白痴」を思い出した方はいるだろうか。私にはラザロがムイシュキン公爵に重なって見えて仕方がなかった。小説のヒロインであるナスターシャ・フィリポヴナ・バラシコワは、立ち去り際に主人公に声を掛ける。
「さようなら、公爵。初めて "人間" を見ました」
その美貌を金持ちに利用されて散々酷い目に遭ってきた彼女にとって、無私無欲のムイシュキン公爵は聖者のようであったに違いない。ドストエフスキーはそこを聖者ではなく "人間" と表現することで、他の登場人物たちがどれほど人でなしかを浮かび上がらせた。
本作品の登場人物たちも、大人から子供まで、負けず劣らず人でなしばかりである。それでもラザロは幸福だと、本作品はタイトルで主張する。実存としての人間の幸福は、置かれた状況にではなく、自分自身の心の内にある。ムイシュキン公爵がそうであったように、ラザロもまた人を疑わず、そして人を恐れない。疑うことと恐れることは表裏一体だ。人が自分を騙し傷つけようとしているのではないかと疑うところに恐怖が生じる。疑わなければ恐れることもない。そして不安もない。不安と恐怖から解放されること、それは確かに幸福以外の何物でもない。
ラストシーンも「白痴」と似ている。ムイシュキン公爵は精神病院へ戻されたが、ラザロはどこに還って行ったのだろうか。
人々からいいように利用され続けたラザロだが、疑うことを知らなければ、利用されたと思うこともない。それは簡単な生き方のように見えて、人間にはほぼ不可能な生き方である。ラザロの人生は稀有な人生であり、結末の如何にかかわらず、人類で最も幸福な人生であった。この作品の意義はとても深くて大きいと思う。