COLD WAR あの歌、2つの心のレビュー・感想・評価
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完璧なまでの「構図」の大勝利
あぁ、なんという傑作に出会ってしまったのだろうか。脚本、演出、演技、そして何より「カメラワーク」というより「構図」の美しさと言ったら、、、あぁ傑作だ、宝石だ、完璧な作品でした!もう特に前半なんか、全てのカットの強度に感動するあまり、ほとんど泣いてしまった。その完成度が故に、10カット目くらいからもう泣きっぱなし。半端じゃない傑作だ!
この作品で、個人的に一番賞賛すべきは、その「構図」の徹底的なこだわりだと思う。作中に、とても象徴的な台詞がある。「VIP席に来るか?」と聞かれて、主人公は「いい席をとってある」と言う。この会話に、この映画のカメラワーク、撮影手法の全てが詰まっていると僕は思った。すなわち、監督のこだわり抜かれたカットは必ずしも黄金比であったり、シンメトリーであったりの、所謂教科書的な美しさ(=VIP席)を捨てて、彼の美学の下に“いい席”として徹底的に置かれているのだ!素晴らしいの一言で、ここまで徹底できる監督は、今存命の中だと、反対にシンメトリーの鬼であるウェス・アンダーソンくらいじゃないかなとさえ思う。それくらいに稀有で完璧な作品だった。
この監督の映像美学は多分2つあるのかなと思った。一つは頭部の、正確には画面上で最も高い位置にある頭頂部の位置。それは常に画面の上、1/4くらいを空けて置かれ、最初は「もうちょっとカメラ下げて欲しい」と思うのだが、最後にはその空間が心地よくなるから凄いのだ。その全体を通して乱れることの(ほぼ)ない位置どりの構図は、きっと彼の哲学なのだと思う。もう一つは、所謂「列席」「群衆」的なシーンのそれで、中央下部に主役を設置して、その背後にボケた多数を背負う構図を何度も見せる。これはきっと共産主義的なイメージに通づるところもあるのだと思い、その迫力に圧倒される。この2つの映像美学によって、基本的には作品はコントロールされていて、作品のほぼちょうど真ん中で1カットだけ、すなわちズーラが初めてパリで歌うことになる作品の転換点においてのみ、前者の構図から後者の構図へ1カットで魅せるという完璧な覚悟が表出する。あぁ、なんと美しいのだろうか。今、これを書き、思い出している瞬間でも涙が出てくる。
このように完璧にコントロールされた構図であるからこそ、それを崩す二人の「愛のカット」が美しく活きる。作中前半で彼らが愛し合うときだけ、顔に寄り、その親密な空間がそれまでの統制された映像世界を壊してくるのだ。その上、「表題の曲」を川に流れながら歌ってしまうカットが重ねられた日にはもう、どうしようもなく脳みそが美という快楽に浸るではないか!なんと素晴らしい、もう何度も繰り返し味わいたい作品であることよ。
さらにこの「映像を壊す」という表現が音楽とマッチする瞬間もある。それは、ズーラがパリにやってきて、ひとときのアヴァンチュールに身を窶すシーンである。ここでは、基本的には手持ちの揺れたカットが採用されていて、見るものに二人の高揚感が伝わってくる。でも、この作品の映像空間からいうと、違和感があり、ややもすれば演出過剰な気もするのだが、それを監督は直前に「映画音楽」のシーンを持ってくることで予言し、だからこそ、その「映画音楽」というチグハグなものの象徴として、あるいは表象として、このアヴァンチュールを見ていられるのではないか。それは映像に合わせて音楽が変形するよう(実際、このアヴァンチュールの最後のカットは、おそらく映像に意図的に合わせた効果音的な音の作り方をされている)に、二人の物語に合わせて映像が変形することを許してくれと予言しているのである。そして、その表現の通り、この物語はこれらのシーンを境として、恋(二人の物語)に応じて音楽を裏切る姿が描かれるようになり、あるいは音楽に応じて恋(二人の関係)を裏切る模様が描かれるのではないか。完璧な構成!それは脚本レベルに留まらない、映像と音楽表現も含めた完璧に計画された88分という宝物だと思った。
最後に一つだけ、その完璧な計画。あるいは予言に関して付け加えたい。それは、この映画における違和感のある独白カットについてである。この作品では基本的に独白、あるいは独り言は「歌」として発せられるため、独白がもつ違和感は姿を消して、音楽と登場人物たちの調和をもたらすポジティヴな存在としてある。しかし、1カットだけ、酒を飲みながらズーラが独り言をいうトイレのシーンがある。これはその台詞の内容から言っても、普通の作品であれば「やりすぎ」なシーンなのだが、この作品では2つの巧みな技巧によって、それを回避する。その1つは、画面の右端に鏡の縁を見せることで、これは「鏡に向かって声をかける独白」ということを示唆することである。つまり、普通の独り言ではなく、自分に向い話している言葉であり、会話なのだという表明である。ある意味言い訳がましいのだが、それの言い訳くささをも回避してくるからこの作品は傑作なのだ。それはすなわち、このカットで「鏡」が登場することを違和感なく感じさせるために、作品冒頭から鏡越しのカットを監督は要所要所で採用している。その美しさは、嫌がおうにもマネの傑作「フォリー・ベルジュールのバー」を想起させる鏡の利用であり、しかもその初出はヴィクトルがズーラに対し完璧に恋に落ちる予感のカットとして採用されているではないか!なんだ、この美しさは!異常ではないか!!!そのカットは、まさしくマネのごとく、ヴィクトルとイレーナだけを正面に捉えた鏡面構図から始まって、そこにカチマレクが参入し、最終的にはヴィクトルだけになり「フォリー・ベルジュールのバー」が完成する。その直後、突然ヴィクトルの視線になっってズーラが見つめられ、そのまた直後二人は愛しあう。超寄りのカットで。この流れがあるからこそ、ズーラの独白も、彼女の恋の破綻として、いわば対照的に位置付けられるのだと思うし、この鏡面構図の一貫性が作品の映像世界を押し広げているのでもないだろうか。
とにかく、長々と書いてしまったが、この作品は間違いなく大傑作だということである!!!映像の勝利!構図の圧倒的大勝利!!
ズーラが求めた社会派とロマンスのバランス
物語の始まりは1949年。両端が詰まった画面サイズとモノクロの映像が時代感を醸し出すのにとても効果的だと感じた。
雰囲気がいい。雰囲気がある。まあそんな感じだろうか。
第二次世界大戦のあと、ポーランドはソビエトの衛生国として生きる道を模索していた。ソビエトのやり方を真似てソビエトのようになろうとしていたわけだ。
序盤の、次第にソビエトに染まっていく様はとても面白かった。その裏で「未来」の文字が落ちていくシーンは実に皮肉がきいて混迷していくポーランドを象徴しているようだった。
民族衣装と民族歌謡を披露する歌劇団がソビエト色に染まり、自分が監視されていると知ったヴィクちゃんはフランスに亡命することになる。
そこでは西側の音楽とパリのやり方に染まっていき、それはズーラの歌うポーランドの歌にまで及ぶ。
ソビエトに蹂躙されたポーランドの歌は、次はそれを訝っていたヴィクちゃんも加担する形で西側に蹂躙される。
赤く染まった歌が青く染まる。ポーランドの色は?ポーランドをポーランドのまま残すことは出来ないのか?エンディングのセリフの「向こう側」の意味するところは何だろうか。常に他国に蹂躙され続けていたポーランドの悲痛な叫びのような気がする。
と、ここまでは社会派な部分で、これにズーラとヴィクちゃんのロマンスが乗っかってくる。
ズーラはヴィクちゃんに対し対等ではないから共に逃げられないと言う。ヴィクちゃんに目をかけられ歌劇団の扉の先へ連れていってもらったからだ。
時が流れて、二人の愛は常に高まり続けるが、それに反するように時代や国に翻弄され、求めているバランスはなかなかとれない。
終盤、ヴィクちゃんはズーラと同じように密告者となり、ズーラはヴィクちゃんを救うためにすべてを捧げた。
ズーラが求めた対等を手に入れたとき、そこにはポーランドの衣装もポーランドの歌も、二人の居場所すらなかった。
そしてエンディングのセリフ「向こう側」に繋がる。愛する人と共にいる。こんな簡単なことができる場所が、この時代には「向こう側」にしかなかったのかと思うと非常に悲しい。
15年の時の流れを90分でまとめているので、とてもハイペース。一年を平均6分だからね。
そのため説明シーンなどはほとんどなく、もしかしたら分かりにくいかもしれない。
更に社会派パートとロマンスパートが同時に存在していて凄く複雑。(意味がわからなければ複雑になりようもないので単純とも言えるが)
エンディングのセリフ「向こう側」のように、社会派、ロマンス、どちらにも意味があるようなシーンやセリフが随所にあり、とても示唆的。
とても良くできたイイ映画だと思う。
しかし終盤に向かって徐々に面白くなくなっていくのはちょっと辛かったね
『何が比喩よ!バカ女(ママ)』
『エディット・ピアフも売春宿にいた。それがパリと言う所だ。』
『何が比喩よ!バカ女(ママ)』
『貴方は公爵じゃないのよ。ただの商売人』
『ロック・アラウンド・ザ・クロック』で止めを刺す。
シャンソン(Dwa serduszka?)を録音するも主人公は満足いかず『だめだ』と言う。
居所がない二人の純愛だと思う。
『Ja za wodą Ty za wodą』オーディションの時、二重唱の歌。そして、その前にグレン・グールドさんによる
バッハBMW988♥
僕は傑作だと思う。
『ある画家の数奇な運命』をリスペクトしている。
イコン画がかかる教会の廃墟はタルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』の様だ。振り返れば、スラブ系の民族としてのナショナリズムがこの映画には含まれている。
『Mazowsze Dwa serduszka』がスラブ的で好きだなぁ。ポーランドへ行ってみたい。
二人とも結局何したかったのか?
期待はずれ。冷戦下の恋の割には二人とも考えが甘過ぎる気がした。くっついたり離れたりなのだが、喧嘩してもフランスで暮せば良かったのに。男も年が離れているのだから、土地になれない彼女を分かってやれよと。嫌な男と子供を作ってまで助けるのなら、尚更ポーランドに戻ったのが浅はかな気がする。子供もいて心中は共感できない。
執行猶予中だから命令に従うしかないの
映画「COLD WAR あの歌、2つの心」
(パベウ・パブリコフスキ監督)から。
「ポーランド・イギリス・フランス合作」の文字に惹かれ、
どんな作品になるのだろうか、久々のモノクロ映像の恋愛作品に、
やや未知数な期待を持ちながらの鑑賞となった。
気になった原題の「Zimna wojna」は、
ポーランド語で「COLD WAR」(冷戦)を意味し、
それに続く「あの歌、2つの心」は、主人公の彼女が歌う曲の中に、
「2つの心の4つの瞳」というフリーズが出てくる。
冷戦下の中での恋愛は、単純に「好き」では済まされないことを
幸せそうに寝転んでいた二人に、こんな会話をさせている。
「白状するね、密告してたの?」「僕のことをか?」
「毎週カチマレクに、害のないことだけ。あいつ言い寄るの」
「何を探ってる?」「色々とね。西側のの放送を聞くかとか
神を信じているかとか。信じてる?、私は信じてる」など。
それを彼女の口から聞いて、男は黙って立ち去る。
そんな彼に向かって彼女が叫ぶ。「わかってる、私は馬鹿よ。
執行猶予中だから命令に従うしかないの」
こんな手段を使っても、東は西の、西は東の情報が欲しいらしい。
「東ベルリンは、社会主義陣営と帝国主義陣営の間にある。
平和主義対報復主義だ」
「ワルシャワの東のパリだ」なんて台詞も飛び交う中の恋愛。
その弾圧された関係が、余計にふたりの関係を切なくさせていたな。
切ないラブストーリー
フィルムも音楽も役者も全てが芸術的で美しく、劇場で鑑賞しなかった事をとても後悔しました。国は捨てる事ができても、愛する人は捨てられない。多くを語らないふたりが出した結論が、独裁国家に生きる人々の悲しみや苦しみを象徴している様に感じました。秋から冬にかけて鑑賞すると、良いかと思います。
Dwa Serduszka
どこかで聴いた事のあるフレーズの本文タイトルのそれだが、ポーランドという国のイメージがそのままストレートに表現されていると感じた。やはり『アウシュビッツ・ビルケナウ』を一番に思い起こすのだが、本作品はそれ以降の東西冷戦時のイデオロギーの中で激しく燃えた男女の恋愛関係を描いた作品である。これの何処までが実話であり、フィクションなのかは不明であり、それが監督の両親の話が前提であるならば、人生そのものが長い長いドラマそのものである。とはいえ本作はその長さはサクサクと進んでいき、余計な部分は切り取られているので、少々感情のタメが少ないかなぁとは感じたけど。他サイトレビューにおいて、ヒロインのファムファタールを強調していたが、自分としてはそこまでの悪女のと言う感覚はなく、性格的に捻くれている位ではないだろうか。確かに、男が途切れる事がない人生に於いては女性の共感性は得られないだろうが。それよりも自分的にはそれを健気に待ち、そして人生を賭して愛する男の心情の方が中々理解しにくいものを感じる。それ程感情を揺さぶられる正に運命を感じたのだろうが、人生に於いて、これだけの執着、そして愛と裏切り、そこからの自己犠牲と、まぁどれを取っても持ち併せない欠陥人間の自分としては、これこそ寓話としか思えないものであった。亡命とはいえ、国を嫌いになった訳では無く、その時代の体制が嫌いなのであり、やはり生まれ育った国に帰りたい想いは、年を追う毎に募るものなのだろう。と、何だか当たり前の話始終してしまっているが、実は今作のキモは何と言っても”音楽”そのものである。”オヨヨイ(有名なフレーズ)”から、いわゆる”フォルクローレ”、”ジャズ”、”クラシック”等、激しさ、優雅さ、そして悲哀を余すところ無く作品に載せてくる演出効果は、今作品の正に”ターボチャージャー”そのものである。スタンダード画面の画角と、反比例するかのような音の爆発は、広がりではなく、まるで一本の細い線が奥へ奥へと突き進む印象そのものである。
ラストの心中を印象付けるシーンは、変にカタルシスは押しつけず、ぶつ切りで終わらせるやり方も、イメージとして東欧らしいなぁと感じた次第であるが、総合芸術である映画というものに対する皮肉を込めたエンディングなのだろうか・・・
美しく 儚い
最後のひと吹きの風は
何かの合図だったのか。
それとも
単なる自然の奏でる法則の気まぐれだったのか。
「あちら側に行きましょうよ。景色がキレイよ」の意味はきっと
そういうことだったのだろうな、と。
2人は果たして
美しい景色を見れたのだろうか。
「あちら側」で。
ポーランドで昭和枯れすすき
この時代の東欧ネタの映画を、今年に入ってから立て続けに観てる気がする。が、今度は「昭和枯れすすき」かぁ....
いやぁ、あなた方、何に負けたんですか?って問い詰めたくなるラスト。並べた錠剤の前で神に婚姻の誓約をする二人。この世で結ばれないのなら、あの世で?
いやぁ、なんか、60年代のアムステルダムとか、二人でのうのうと暮らせそうな気がするんだけど。彼にはパスポートはおりないでしょうけど。もしかして、二人のうち一人が不治の病にでも冒されてんのかとか、色々と考えてしまったけど、よく判りませんでした。
とに角、雰囲気は堪能した。
この前見た中国映画(芳華 Youth)を彷彿させるスタート。こっちは「戦火」に巻き込まれない。けれど、「結ばれなかった男女の話」が滲みるのは、年取った証拠に違いないと思いながら退散。
モノクロなのにカラフル
先にすっごく無粋なことを言っちゃいますが、ズーラとヴィクトルは、屋根がない古い教会(空襲でやけたんかな?)で、二人っきりで結婚して、致死量の薬を飲んだ、でええんですよね?オチは心中でよござんすね?
前述のオチ解釈が妥当なものであるならば、陳腐という意見も付け加えたいですが、オチ以外は大変よかったです。
ズーラたちの舞台衣装は当然モノクロなんですが、極彩色の衣装のように思えました。
街の風景でも、モノクロなのに昼間と夕方の空の色が違うように見えました。
腐れ縁の恋と、時代の制約とが、甘く苦く味わえました。
それでいて人物と距離を保った理性的な語り口で、好感をもちました。
ヴィクトルは亡命したんですよね?亡命している人が亡命先のフランス?からでてユーゴスラヴィアに舞台見にいくとか、あり得る?できる?とは思いました。
ほんでポーランドに強制送還?されて服役して、出所して、屋根のない教会へ行ったんでしたね。
社会主義体制と宗教ってどんな関係だったんでしょう。
ちょっと調べてみたくなりました。
民族歌謡「ふたつの心」に祖国への想いを託した映画
1949年、第二次世界大戦後、共産主義政権下のポーランド。
ピアニストのヴィクトル(トマシュ・コット)は、仲間とともに各地の民族歌謡を収集していた。
ほどなくして、民族音楽舞踊団を共同主催することにした彼は、舞踊団のオーデションに応募してきた歌手志望の娘ズーラ(ヨアンナ・クーリク)に興味を持つようになる。
「父親殺し」と陰口をつかれるほどの激しい気性のズーラは舞踊団で頭角を現し、当然のようにヴィクトルと恋に落ちる。
しかし、当局からの厳しい監視を受け、舞踊団にも共産主義色が濃くなってきたなか、ヴィクトルは東ベルリンへの巡業の際、西側への亡命を決意。
ズーラも連れていくことを決意するが、ズーラは故郷を捨てきれず、結局ふたりは離ればなれになってしまう。
数年後、パリで幾分の名声を得てたヴィクトルは、花形スターとなったズーラと再会を果たすが・・・
といった物語で、ここまで書いたあらすじでは冷戦下のメロドラマにすぎない。
が、映画はまるで違う。
構造はメロドラマなのだが、ふたりの心情をそれほど掘り下げない。
代わりに用いられるのが、ポーランドの民族歌謡「ふたつの心」。
ヴィクトルたちが採取し、舞踊団のメイン歌曲となり、それをズーラが歌うわけだが、第二次世界大戦後のポーランドが翻弄されたように、この歌も翻弄される。
まずは、純然たる民族歌謡だったものが、共産主義政権の影響下で、スターリンを称える歌の添え物のようになってしまう。
しかしながら、ここでは、まだ、原曲は原曲のまま。
ただ影が薄くなる、といった程度。
パリ時代になると「ふたつの心」は変貌を遂げる。
自由主義社会の下、強烈なジャズが渦巻くパリのクラブ・レクリプスでピアニストとして活躍するヴィクトルは、同棲していた女流詩人にフランス語の訳詞を付けてもらうことにし、売り出そうとする。
原曲の歌詞を拡大解釈したような歌詞も、ブルーでジャジーなシャンソンの編曲もズーラは受け容れることはできず、出来上がったレコードを打ち棄ててしまう。
「ふたつの心」という民族の歌が、社会主義と自由主義とによって踏みにじられてしまう。
ポーランドにとっては、社会主義と自由主義のどちらも同じようなもので、ポーランドという国に経緯などなく、蔑ろにしていたといわんばかり。
ドイツとロシアに挟まれ、常に両大国から蹂躙されてきた第二次世界大戦以前と変わらないポーランドの姿が描かれている。
映画はその後、祖国へ戻るにあたって、故郷を棄てた同士を売れとヴィクトルに迫る祖国があり、ヴィクトルは愛する女性のためにその屈辱を受け容れ、政治犯として収監される彼を描き、恩赦によりその後、当初よりも早く出所したヴィクトルとズーラがふたりだけの結婚式を挙げるところで終わる。
その結婚式の舞台は、第二次世界大戦で破壊しつくされた教会。
大戦後、冷戦下となったポーランドの地ではなく、大戦以前の象徴としての教会。
もとのポーランドに戻ることはできないが、心は以前のポーランドにあるまま・・・
あるまま、であったならばよかったのに、と神に祈り、誓うラストのような気がしました。
運命じゃない二人
運命じゃない人って時々いる。運命だって思ったのにそうじゃなくて、運命ならいいのにって願うのにうまくいかなくて、運命ならきっとまためぐり逢うはずって信じて別れたまま、永遠に報われないような。そのくせ、運命じゃないのにずっと心から離れていかない人。
この映画にそんな「運命じゃない二人」の恋路を見た。時代と冷戦と国境と政治と音楽に翻弄され、引き裂かれたまま戻ることも進むこともできなくなってしまった二人が、運命に逆らってなんとか二人の愛を結び付けようとするのにどうしても結ばれない。その様子が切ないやら美しいやらで、文字通り胸が締め付けられるようだった。時代や国が違えば二人はもしかしたら「運命の二人」だったのだろうか?と考えるけれど、私はなんとなくそうじゃない気がする。傍にいることもいないことも、どっちも二人にとって苦しいことに見えた。
正直なところ、はじめのうちは映画の時代背景や国の情勢など、私の知識不足のせいで理解が難しいのでは?なんて不安に感じていたのに、映像の中にいる主人公二人をただ見つめているだけでもう話が分かる分かる分かる・・・。二人を通してその時代がより鮮明に見えるようでもあった。
余計な説明はすべて排除して、そこにいる二人の姿や在り方だけでシーンを魅せ切る潔さ。そしてそれを切り取る映像のリアリティと美しさ。加えてそれらを彩る音楽。2018年の映画なのに既に「名画」の風格すら感じてしまった。
今生ではもう結ばれないと悟った二人が、運命に逆らって下した最後の決心と、残された時間の余韻。
切なくて美しい極上のラブストーリーだった。そうだ、こういう映画を「ラブストーリー」と呼ぶのだ。
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