バーニング 劇場版のレビュー・感想・評価
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A Literary Thriller Mystery
Burning is a read-between-the-lines masterpiece, cryptic and not conforming to any genre. Jong-Su barely talks throughout the film, but through his motions in the chain of events and interactions with other characters and subplots of the film, we are always within his thinking. It's a sad tale dealing with loss of heart and jealousy; promises perceived but not fulfilled. Happy endings can't occur.
霧の中、夕焼けの中、おぼろげな現実に手を伸ばす。
イ・チャンドン監督の8年ぶりとなる新作は、日本では先にNHKで95分版が放送されるなど、実に不可思議な公開方式となった。村上春樹の短編小説を読むと、どちらかというとNHK版の方が原作のニュアンスに近いかなと思う。対する148分の劇場版はそこから完全にイ・チャンドン世界に振り切れてしまった印象だ。忽然と姿を消した「彼女」と同様、この消えた(編集削除された)「50分」もまた、二つの兄弟のごとき作品の間に漂う浮遊物のように思えてならない。
ともあれ、村上が著した頃と時代が一回りして、本作には逆に現代社会を鋭く突き刺したような生々しさが充満する。例えば、存在と不在。ネット世界では本当に実在するかなどもはや問題ではない。創作という行為もこれとよく似ている。イ監督はこれらを否定も肯定もせず、霧の中で手を伸ばすかのように世界を泳ぐ。我々も泳ぐように映画に触れる。とても刺激的なひとときがそこにはあった。
メタファーより大事なことを見逃すな。
主人公ジョンスも多くの観客も「メタファーを知っているかい?」という台詞に引っ張られ、ベンの謎めいた発言を読み込もうとやっきになって、大事なことを見逃している。
例えば、半裸で踊るヘミが「娼婦みたいだ」と言われた時の表情とか。ヘミが姿を消したのは、ベンが「ビニールハウスを焼くのが趣味」と言った後であり、唯一の理解者だと思っていたジョンスに「娼婦」と言われた後だ。
ジョンスはベンに囚われ過ぎていて、
自分の発言がヘミに与えた影響に気付いていない。
ジョンス視点で進む物語なので、観客の思考もジョンスと同じように、フォークナーで言うところの「意識の流れ」に誘導される。
ジョンスは、全てはベンのせいだと思っている。
ベンのせいだと思わないと、ヘミを失った喪失感に耐えられない。
ベンがビニールハウスを焼く現場を押さえたいのは、裕福な者特有のおおらかさで、自分に劣等感を与え続けるベンを貶め、楽になりたいから。
ベンが犯人かも?ではなく、「ベンが犯人でなければならない」し、目の前から消えてもらわないと、自分を保てない。母の服を燃やした時のように、耐え難い現実を消し去らないと。
人間の脳は、
感情に見合った情報しか収集できない。
浮気を疑う奥さんが、
夫の行動すべてを怪しく感じるように。
ベンの職業はスタイリストで、家にアクセサリーがあったのはそのせいかもしれない。化粧をするのは、メイクアップアーティストだからかもしれない。時計は、ヘミが忘れて行っただけかもしれない。犬や猫は、名前の頭文字で反応している「ボイル」「ボール」「ボンサイ」どれでも反応したかもしれない。
ヘミよりジョンスの創作活動に興味を持ち、
そして、おそらく理解したいと思い、好きだと言われたフォークナーを読むのは、
ベンがジョンスに「好意」を持っているからかもしれない。
しかし多くの観客がジョンスに感情移入し、ビニールハウスを燃やす=殺人。ベンを殺人犯だと思い込んだ。観客の思考をジャックする、なんとも恐ろしい映画だ。
ジョンスは
自分の感情が求める小説を書いた。
そして、観客も。
見逃していたバーニング劇場版。 サブスクで見ようかと思ってたけれど...
見逃していたバーニング劇場版。
サブスクで見ようかと思ってたけれど、キネカ大森にてイ・チャンドン監督特集がやっていたので鑑賞。
なんとも…なんとも、
身を焦がす様な映画体験だった。
年に一度あるかないかの感情の昂り。高揚。
この気持ちをうまく言葉に消化出来ないのがもどかしいほど、儚い作品だった。
バーニング。なんとも皮肉なタイトル。
感情、テキスト、汚さ、残忍さ、旋律、自然美、エロスと、余白。様々な要素がひとときの中に同時存在出来るのが映画なんだと改めて気付かせてもらった。
説明の仕方と、メタファーの使い方のバランスが絶妙過ぎて。もっと難解な作品なのかと思っていた。
実際の話はシンプルでわかりやすいんだけれども、物語で意図的に隠されている部分部分が見えてくる(実際は見せてなもらえない)と、何故消えてしまったのかがわかった時になんとも切なく寂しかった。
たまたまだけれど現代2023年の日本社会の事件にも通じるものが多過ぎて。ホストの斡旋問題とか、弱者男性、派遣社員放火事件、こう言った問題の根底に流れている社会不安や格差の波。
帳尻合わせは悲しいけれど弱い立場のひとの元へ火の粉が降りかかってくる…。それを放っておけばまた新たな怒りの炎が生まれ、その炎は大切だったものを知らず知らずのうちに焼き尽くし、そしてその炎は我が身に帰ってくる…。
全ての人がみておもしろい!となる様な作品ではないけれど、映画的な面白さとは何か?の解答が詰まった作品だという事は間違い無いのでは無いでしょうか。
身を焦がす映画体験でした。
謎が多きミステリー
意味不明な終わり方
いろいろな伏線がありつつ、なんでそんな終わり方に?と疑問のまま終わりました。こいうここと?いやこういうこと?といろいろと考えながら、ネタバレサイトを読んで、ようやく意味がわか、、、らない(笑)
意味は3つほど見つかりましたが、どれも真実ような虚構のような。
意味がわからないのが正解なのかな。
ラストシーンで「え?」と、今までの理解を一気に崩壊させられる。
ひとつ言えることは、とにかくどういうことか知りたくなる。誰かも観てたらその後話が盛り上がりそう。一人で見てたら、エンドロール終わる前に「バーニング ネタバレ」と検索してしまうはず。
スッキリしないけど、いろいろと想像出来るのは面白いのかも。
村上春樹っぽいのかな、、、。
原作との比較。
村上春樹の短編「納屋を焼く」を読んでみた。
なんと主人公の青年・ジョンスは原作に存在しなかった。
原作は作家の「私」
パーティーで知り合った「彼女」
彼女の恋人の「彼」
この3人しか登場しない。
そして「バーニング」は作家志望の青年ジョンスが主人公。
だから、彼女の恋人の「彼」がベン。
そして「私」がジョンスか?
映画では、
ある日曜日の昼間、ジョンスに「彼女」から電話がくる。
「遊びに行って良い?」
「彼女」と「彼=ベン」は、豪華なデリバリーの食材を持ち込み現れる。
白ワイン。
ビーフサンド。
ローストビーフ。
スモークサーモン。
持ち込みの食材を食べながら「彼=ベン」が何気なく語る。
「納屋を焼いてるんです」
ランチに相応しくない話題。
それ以来、
作家の「私=ジョンス」は、彼が言う「納屋を焼く」行為に、
取り憑かれてしまう。
居住区の半径6キロに点在する「納屋6戸」を特定して、
朝晩のウォーキングコースを変更して
見回るのだ。
半年そして一年。
しかし一向に「納屋」は焼けない
一方、映画「バーニング」では、
大学を出たけれど無職で小説を書いていると言うジョンス。
幼馴染のヘミがアフリカで知り合ったと言う男・ベン。
ベンは貧しいジョンスと対照的に、
《美邸とポルシェと元彼女のヘミ》
まで所有(?)するリッチマン=《富の象徴》として描かれている。
(村上春樹がこの「納屋を焼く」の度の箇所で一体、
(格差社会を描いた部分がひとつでもあっただろうか?)
そこに来て、更にジョンスの初恋の女性でもある幼馴染のヘミが、忽然と「消える」
(村上春樹の小説では、女性は「死ぬ」のではなく「消える・・・」のだ。)
消えたヘミ。
ジョンスはヘミをベンが殺したと思い込み、
ストーカー行為を始めると、エスカレートして行き、
ベンのマンションまで押しかける。
そしてその化粧室で、ヘミの私物を見つけて、
「ベンがヘミを殺した」と確信する。
村上春樹の「納屋を焼く」には、ヘミのように天真爛漫で漂うように生きる娘が
言うところの「彼女=ヘミ」である。
パントマイムが得意で、蜜柑の皮剥きのマイムが特技の「彼女」が、
確かに登場する。
それにしても村上春樹の短編はよく膨らむ。
小さい風船が、映像作家の手に掛かると、
まるでアドバルーンのように大きく膨らみ
大空を舞う。
濱口竜介の手掛けた「ドライブ・マイ・カー」も、大きく膨らんだ。
「ドライブ・マイ・カー」は、
喪失から再生そして希望へと続く物語だった。
イ・チャンドン監督作の「バーニング」は、
納屋を燃やす・・・架空の悪意?
嫉妬の業火!
怨念の殺意!
衝動から破滅!
自己破壊!へと突き進む。
ラストは衝撃的。
小説「納屋を焼く」が映画「バーニング」に。
「彼」も「彼女」も実は存在しなくて、全て作家の「私」の想像の産物。
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「納屋を焼く」
その反社会的行為はイ・チャンドン監督の創作意欲を極限まで
掻き立てたのは、
間違いない。
こんなメタファーある?
原作を知らずに韓国映画好きが見た感想。
なんだか見てる時はつまらなかったが、終わった後に、じわじわっとずっと考えることになる。個人的には、ベンとヘミは、感覚の世界の人で、ジョンスは、常識と感情の人といった風刺なのかと思う。分からないから殺してしまったのではないだろうか?また感覚の世界に憧れたから裸になって。心理学的に見れば、ジョンスは、隠された怒りがピークになってしまって、もう抑えきれない状態の殺人。ベンは、欲求不満をどう解消したらよいか常に意識しているナルシスト。ヘミは不安からの逃避といったところか。
謎。
先日村上春樹のドライブ.マイ.カーを観てからの観賞。村上春樹の小説は読んだことはないのですが今作は監督が韓国人で作品も違うのに何処か似た様な雰囲気がある。村上春樹の小説だからなのか。
登場人物が男性2人と女性1人で同じ様な設定。幼なじみの女性が突然連絡が取れずにいなくなる。彼はもう1人の彼が関わっているだろうと思っている。(確証は)ないが。でも。二人は争うこともなく淡々と日常を描いている。
ドライブマイカーも内に秘めた想いとかを相手にぶつける事もなく自分の気持ちを表さないところがとても似ている。
肝心の所が映像となっていないため 謎 の部分が深まる。細かな点と点で描いている様な感じ。最後は観ている人が線として繋げるような作り方(描き方)でそれぞれの感じ方をしてください。と言う事なのかなと思った。
やんなっちゃうなぁ。
勿論、楽しい面白い作品ではない。この監督の傑作で、韓国、映画、やんなっちゃうなぁこういうの作っちゃうんだから。ストーリーもそこまで分かりにくくはないし。監督の自己満足、というほどでもない。
ベースが鳴るのが自己燃焼じゃない悲しさ。他人が燃えていくのを見て沸き立つなんて、ネットの書き込みなんかを連想させて現代は現代なりに空虚なんだなとまた悲しい。生活様式とか、財産だけでなく、所有に底無しの曖昧さしか持ちえないで、故に曖昧な嫉妬。
ベンも退屈であくびだし、ヘミは旅行行っても大した発見もなく、グレートハンガーどうのと、表面的な情報程度。ググれば一発です。本当は生きる意味に出会いたかったろうに。ジョンスもヘミが好きなんだけど、曖昧さから抜けられない。その内に消されちゃう。消えるまでベースが鳴らないなんて、人間ってホント悲しいけど、そんなものかも。
燃やしてくれっていう若い女性は日本にも多いよね。決定権をとるつもりもない。雨が降りすぎたら洪水、脱いじゃうし、写っちゃうし、写しちゃう。インスタ万歳だわ。wベンも燃やしてくれってあくびをするんだな。笑顔を見せるんだな。それで預けちゃうんだよ。どうするか。自分で構築しないんだな。自分でやってみようともしないんだ。
なんでしょう。解決策はない?現代病?そんなことは無い。モラトリアムをきちんと過ごす事を誰も教えてくれないからか、ジョンスの父と母はどう?みんな教わってないんだな。
ベンの犯罪は無関心に埋没していたのに、見つけてくれたのは、ジョンス。ヘミはどうなった?って聞く人もいないかったんだな。ある、ないと思うんじゃなくて、みかんを食べるだけ。探せば、答えが見つかるんだけどな。話のテンポ、展開と相関しないこの濃密さを映画にしてしまう素晴らしさ。
実体や実存を、有るものにする力は誰にでも与えられている。隠すよりも、ごまかすよりも、全部脱いで燃やしちゃった方が早いわな。確かに。生きる人を応援したいんだろうな。この監督は。日本としては、なんかやんなっちゃうけどね。ww
スティーブン・ユアンだけは村上作品に合っていた
匂わせる妙
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