「原作との比較。」バーニング 劇場版 琥珀糖さんの映画レビュー(感想・評価)
原作との比較。
村上春樹の短編「納屋を焼く」を読んでみた。
なんと主人公の青年・ジョンスは原作に存在しなかった。
原作は作家の「私」
パーティーで知り合った「彼女」
彼女の恋人の「彼」
この3人しか登場しない。
そして「バーニング」は作家志望の青年ジョンスが主人公。
だから、彼女の恋人の「彼」がベン。
そして「私」がジョンスか?
映画では、
ある日曜日の昼間、ジョンスに「彼女」から電話がくる。
「遊びに行って良い?」
「彼女」と「彼=ベン」は、豪華なデリバリーの食材を持ち込み現れる。
白ワイン。
ビーフサンド。
ローストビーフ。
スモークサーモン。
持ち込みの食材を食べながら「彼=ベン」が何気なく語る。
「納屋を焼いてるんです」
ランチに相応しくない話題。
それ以来、
作家の「私=ジョンス」は、彼が言う「納屋を焼く」行為に、
取り憑かれてしまう。
居住区の半径6キロに点在する「納屋6戸」を特定して、
朝晩のウォーキングコースを変更して
見回るのだ。
半年そして一年。
しかし一向に「納屋」は焼けない
一方、映画「バーニング」では、
大学を出たけれど無職で小説を書いていると言うジョンス。
幼馴染のヘミがアフリカで知り合ったと言う男・ベン。
ベンは貧しいジョンスと対照的に、
《美邸とポルシェと元彼女のヘミ》
まで所有(?)するリッチマン=《富の象徴》として描かれている。
(村上春樹がこの「納屋を焼く」の度の箇所で一体、
(格差社会を描いた部分がひとつでもあっただろうか?)
そこに来て、更にジョンスの初恋の女性でもある幼馴染のヘミが、忽然と「消える」
(村上春樹の小説では、女性は「死ぬ」のではなく「消える・・・」のだ。)
消えたヘミ。
ジョンスはヘミをベンが殺したと思い込み、
ストーカー行為を始めると、エスカレートして行き、
ベンのマンションまで押しかける。
そしてその化粧室で、ヘミの私物を見つけて、
「ベンがヘミを殺した」と確信する。
村上春樹の「納屋を焼く」には、ヘミのように天真爛漫で漂うように生きる娘が
言うところの「彼女=ヘミ」である。
パントマイムが得意で、蜜柑の皮剥きのマイムが特技の「彼女」が、
確かに登場する。
それにしても村上春樹の短編はよく膨らむ。
小さい風船が、映像作家の手に掛かると、
まるでアドバルーンのように大きく膨らみ
大空を舞う。
濱口竜介の手掛けた「ドライブ・マイ・カー」も、大きく膨らんだ。
「ドライブ・マイ・カー」は、
喪失から再生そして希望へと続く物語だった。
イ・チャンドン監督作の「バーニング」は、
納屋を燃やす・・・架空の悪意?
嫉妬の業火!
怨念の殺意!
衝動から破滅!
自己破壊!へと突き進む。
ラストは衝撃的。
小説「納屋を焼く」が映画「バーニング」に。
「彼」も「彼女」も実は存在しなくて、全て作家の「私」の想像の産物。
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「納屋を焼く」
その反社会的行為はイ・チャンドン監督の創作意欲を極限まで
掻き立てたのは、
間違いない。
共感とコメントありがとうございます。
難解な作品でした。
一つ妄想すると後から後まで考えが膨らんで止まらず訳が解らなくなります。
琥珀糖さんのレビューで納得する部分もありました。
後を引きずる作品でしたね。