「ジャ・ジャンクーは、デビュー作『小武』(1997)以来、改革開放以...」帰れない二人 KAPARAPAさんの映画レビュー(感想・評価)
ジャ・ジャンクーは、デビュー作『小武』(1997)以来、改革開放以...
ジャ・ジャンクーは、デビュー作『小武』(1997)以来、改革開放以降の中国社会を背景に、「時間」と「誠実さ」を軸に人間の生を描いてきた。『長江哀歌』(2006)、『罪の手ざわり』(2013)、『山河ノスタルジア』(2015)と続く作品群はいずれも、変わりゆく風景と、変わることのできない人間の内的時間の交錯を主題としている。本作『帰れない二人』(原題:江湖儿女)はその延長線上にありながら、従来の社会的リアリズムよりも個の生の継続と他者との関係性に焦点を置いた、きわめてパーソナルな作品である。監督の公私のパートナーでもある俳優チャオ・タオを中心に据えた本作は、むしろ「彼女を記録するための映画」として成立しているとさえ言える。
映画冒頭、ステージ上のMCが「今日は2001年4月2日、お忘れなく!これから奇跡が起こるよ」と叫ぶ。この発話は、まだ北京五輪開催が正式決定する前〔註1〕の、熱狂と不安が入り混じる時代の空気を伝えるものである。ここでの「奇跡」という語は、未来への陶酔と地方都市の期待を象徴する。さらにこのプロローグ部分のみが4:3のスタンダード・アスペクトで撮影されており、タイトルバック以降はビスタサイズへと転じる。画面比の変化はそのまま時代の転換を、映画のフレーム自体が「息を吸い込むように」拡張していくことで示しており、『山河ノスタルジア』の第1章(1999年)における構成とも呼応している〔註2〕。また、バスの中で映る幼児—耳にピアスをつけ、“USA”の文字が入ったサロペットを着る—は、来るべき未来の予兆として描かれている。この短いプロローグ全体が、改革直前の中国社会の高揚と不安を凝縮して提示している。
物語は、山西省大同を舞台に、炭鉱の衰退とともに没落していく渡世人ビンと、その恋人チャオの関係を軸に展開する。クラブで「Y.M.C.A.」を踊る彼らの姿は、外来文化と地方の現実が交錯する象徴的場面であり、享楽と退廃が同居する時代の気分を映す。やがて新興勢力の暴力に巻き込まれ、ビンが襲われる場面で、チャオは恋人を庇い空へ向けて発砲する。この行為は、単なる愛の犠牲ではなく、自らと対等に生きる他者への誠実さを貫く行為として描かれる。彼女が沈黙のうちに罪を引き受ける姿には、社会や体制に対抗する政治的意志というよりも、社会の法ではなく、チャオ自身の内なる倫理の筋が刻まれている。
出所後、ビンを探して長江流域をさまようチャオは、“帰る場所”を求めて奉節へ向かう。そこは『長江哀歌』の舞台でもあり、巨大ダム建設によって失われゆく都市が、記憶と時間の象徴として現れる〔註3〕。長回しによる再会の場面では、過去に縋る男と、それを超えようとする女のあいだに横たわる断絶が静かに描かれる。この瞬間、チャオにとって“帰る場所”とは、地理的な空間ではなく、もはや取り戻せない「過去の時間」へと変質する。目的を失った彼女の歩みは、図らずも「過去との決別」の物語へと変わっていく。
終盤、再び故郷・大同に戻ったチャオは、かつての恋人ビンと再会する。車椅子に乗る彼を見つめる眼差しには、もはや愛でも慈悲でもなく、過ぎ去った時間を見送るような静かな距離が宿る。そしてラスト、監視カメラ映像に切り替わったフレームの中で、彼女は再びその背中を見送り、やがてカメラに振り返る。この瞬間、チャオは「他者の視線」—それは観客であり、社会であり、そして映画カメラそのもの—をまっすぐに見返す存在となる。ジャ・ジャンクー作品において「監視/記録」のモチーフは繰り返し登場するが〔註4〕、ここでは映画という装置が“記録する眼”であることを自覚した人物としてのチャオが描かれている。
「帰れない二人」とは、愛や故郷だけでなく、かつての時間にも帰れない人間の寓話である。同時にそれは、記録という行為の中でのみ生を証しうる映画というメディアの宿命を問い直す作品でもある。ジャ・ジャンクーは、社会の風景を離れ、チャオ・タオという身体を通して、映画が捉えうる最も尊く、最も不確かな人間の記憶を描いた。そこにあるのは、社会を超えた、人間そのものへのまなざしである。
