ドッグマンのレビュー・感想・評価
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終盤までマルチェロの感情が分からない&もうやめとけ、(嫌な予感しか...
終盤までマルチェロの感情が分からない&もうやめとけ、(嫌な予感しかしない)映画なので観るの疲れた。
省略的な編集とマルチェロ役の人の演技が良い。
マルチェロはシモーネにとって冒頭の荒っぽい犬の様にいつか手なづけられる犬だったのか、、特殊すぎる関係性描いた作品だが
この閉鎖的な村社会に、日本的な雰囲気も感じる。
村の厄介者を排除したいが、手を汚したくはない、できれば何処か余所者がやってくれればいいのにと願うコミュニティの住民たち。いざ、身内の中で手を汚した人がいても、そこには手を差し伸べずにその人も排除して、万事解決してしまう。村社会とゆう生き物と、そこに迎合できないマルチェロとシモーネの話。
配信で鑑賞
ジャイアンとスネ夫
主人公マルチェロはどちらかというとのび太ではなくスネ夫に近い。おそらくシモーネとは幼馴染。子供の頃から悪友として一緒に悪さをしてきてそのまま大人になってしまったが、ジャイアンであるシモーネはいくつになってもジャイアンのままだった。そしてスネ夫の方もそんな腐れ縁を断ち切れず、おこぼれを頂戴したりしてズルズル関係を続けてきた。
こんな関係はどこかで断ち切らなければならなかった。いい大人ならシモーネはどうみても常軌を逸しており、今まで通り付き合いを続けていけばいずれは破綻が来るのは目に見えていた。そういう意味でマルチェロも純粋な被害者とは言えない。ただ、少し要領が悪いところがあって気の毒だとは思う。離婚されたのは納得。
本作の二人の関係性を見てると他のレビュアーの方も書かれてる通りアメリカと日本の関係を想起する。戦争でアメリカにこっぴどくやられて敗戦を迎え、戦後は民主化の名のもとに実質対共の防波堤として都合よくアメリカに利用され、いびつな民主国家になってしまった日本。
原爆投下に関しては被害者ともいえる立場ながら、アメリカの顔色伺いで核兵器禁止条約には反対するという矛盾。挙句の果てにはアメリカの戦争犯罪であるイラク戦争にまで加担。これはいやいやながらもシモーネに加担せざるを得なかったマルチェロの姿そのまま。
ラストでシモーネを思いがけず殺してしまったマルチェロ。草むらに放置しておけばおそらくお咎めはなかったかも。警察もいい厄介払いができたと犯人捜しをおざなりにするだろうし。でも結末は公園でシモーネの遺体とともに茫然自失状態のマルチェロの姿で終わる。
これはいろんな解釈ができるよう監督がこのように即興で撮ったらしい。これが功を奏したと思う。このラストシーンを見て、日本はいつまでアメリカと今のままの付き合いを続けるのだろうか、アメリカに乗せられて台湾有事とか威勢のいいこと言って最終的にマルチェロのようになってしまうよと思わずにはいられなかった。
犬のようにご主人様シモーネに献身的に仕え、裏切られてそれでも逆らえず生きてきたマルチェロ。人間と犬との関係が切っても切れない関係であるかのようにマルチェロとシモーネの関係も断ち切ることは難しかったのかもしれない。ドッグマンのタイトルが最後の最後になって分かった気がした。
犬好きな心優しい気弱な男…
なんだけど、結局は自分が一番大事な身勝手な小男で共感できなかった。シモーネが怖くて、犯罪に加担し、仲間を裏切り、最愛の娘のことも考えず、服役する。弱くとも立ち向かう勇気がなかった。服役後、シモーネに約束の金をせがんでも、貰えず、シモーネを殺す羽目に。殺して仲間に認めてもらい、迎え入れてもらおうというのも、自分本位で、娘や家族のことを全く考えていない。娘のことも、犬と同じ様に何かを金銭的に与えて、可愛がるだけで、養っていく、守るという発想がない。実話ベースだが、演じるマルチェロは正に小物感、きょどきょどして、隷従する役を好演。
演出の意図があからさまな自己満足の独善的世界観の好悪
1980年代にイタリアで実際にあった殺人事件をモチーフにしたというが、作者独自の世界観に当てはめた設定とストーリーを意図的な演出で単一化した自己満足の映画作品。近年のヨーロッパ大陸の映画表現の独善化を象徴するかの国際映画祭での評価は、あくまで審査委員数名の映画人の好悪が優先される選択に過ぎないことを改めて認識させる。勿論単一化するための演出技量は認めるも、細かな点の疑問が次から次へと現れ、それが不条理の一言で片付けられないところにある。例えば、離婚したとはいえ何故愛する娘が悲しむことを主人公マルチェロは続けるのか。この矛盾を抱えたまま、無知で小心者の哀れさを描かず、暴力男シモーネの飼い犬の如き服従を強いられる姿を執拗に映し出す。また、町一番の嫌われ者でもあるシモーネの度重なる傷害事件を、だれも警察沙汰にしない放置状態が無駄に過ぎていく。唯一、闇の組織を使って暗殺を試みるが、負傷したシモーネの自宅の場面で繋ぎ、マルチェロが傷の手当てをすることと、シモーネのマザコン振りを見せるための手段にしている。そして、強盗事件の身代わりで1年の服役をするが、それは出所後に分け前として1万ユーロを要求するためと判る。しかし、シモーネがそれを承諾するはずがないことは、火を見るよりも明らかであろう。すると結末はおおよその予測が付いてしまう。狂犬シモーネをケージに入れる映像の面白さはあるが、流石に自らケージに入るのは餌の仕掛けがない檻に入る熊以下という事なのか。二人の突出した間抜け振りが、結局は無残な結末を必然とする。
脚本と演出の殆どが意図的な表現の為に費やされ、人間を描く本質から逃げているのではないか。唯一優れているのは、統一された沈んだ空気感が漂う映像美を見せる撮影である。イタリアの荒廃した海辺の町の舞台が全ての矛盾を生むことを、作者は言いたいのだろうが。
タイトルに偽り無し
一つの見方として、最後までだれかの“犬”だった“男”。
街の荒くれ者の“犬”として、小さな特殊なコミュニティで生きる術としてそれに従事する。
娘が喜ぶことだけを考える“犬”(良い意味で・和やかなジョーク的な意味合いもこめて)。
開店中は、動物の犬に、仕事の“犬”として献身的に尽くす。
街の荒くれ者を殺し、わざわざ仕留めた獲物を元仲間に知らせようとする様も“犬”のよう。
「ドッグマン」が意味するところは、そういうことなのかもしれない。
最後のシーン、不必要に長く感じた「主人公が辺りを見渡す様」は、主人(ついていくもの)を失った犬のような喪失感を匂わせる。そこで自分を見失ったというより、「最初から自分がなかった」ことに気づいて、頭のなかでぐるぐると否定と肯定が繰り返されるなかで(あれ?…)とただただ喪失感の権化のような人間がそこにたたずんでいる。
誰に向けたなんの映画だったのか。まったくわからない。「こんな世界がある」としか思えないが、異文化を感じられるとても貴重な映画だと思う。
不条理
マルチェロはシモーネに飼い慣らされた犬。街の仲間と協力してシモーネを排除することもできたが結局街の中に暴力を留まらせてしまう。シモーネを刑務所に入れることもできたが、結局は出所して復讐される。自分だけならまだしも娘に手を出されては元も子もない。だから、自分が刑務所に入るしかなかった。しかしその時点で自分の人生は転落した。本人はそのことに気付いてないのだが。出所して飼い主に牙を剥き復讐を遂げるも自分は飼い主を失った迷える子犬。街の仲間からも見放され最後自分の近くにいたのは犬たちだった。
なんとも後味が悪い…
不条理ドラマ…って何?
思わず、不条理という意味を調べてしまった。事柄の道筋が立たないこと、不合理であること、常識に反していること、などとある。うーん、難しいなぁ。
一言では言えないけど、主人公マルチェロと友人シモーネの関係…でしょうか。町の仲間たちも手を焼いてるシモーネなのに、そんなヤツでも、縁を切ることができない。シモーネには、友人という顔をしながら、都合よく利用される。シモーネの代わりに服役までしたのに、お金は貰えない、暴力を振るわれる。ここまでくると、マルチェロが、バカにしか思えない。
シモーネは、もちろん、何でもありのジャイアンキャラで、ただの薬物依存症で、バカだと思う。こういう人種の存在も理解ができない。でも、こんな男、関わらないのが一番なのに、相手しちゃうあたりは、もっと理解できない。
結局、我慢ができずに殺してしまったけど、だからといって、町の仲間たちと、元どおりになれる訳ではない。なんとも後味が悪い終わり方でした。
日本でもありそうなリアリズム
イタリアのさびれた海辺の町。
お世辞にも綺麗といえない砂の広場を中心にして、古びたビルが立ち並んでいる。
小男のマルチェロ(マルチェロ・フォンテ)が営むドッグサロンもその一隅にあった。
離婚したものの妻やひとり娘とは良好な関係で、周囲とも良好な関係であるが、ただひとつ、切っても切れない腐れ縁が続いていた。
それは町の乱暴者シモーネ(エドアルド・ペッシェ)との関係。
日々騒ぎを起こすシモーネとは古くからの友人関係で、無下に関係を断ち切ることが出来ずにいた・・・
というところから始まる物語で、映画はふたりの関係、町の様子を丁寧に描いていきます。
丁寧すぎて、まだるっこしい感もあるのですが・・・
くすんだ色調で撮られた画面を観続けていくと、どんどんと憂鬱・陰鬱になっていきます。
外国イタリアのハナシではあるものの、この手の物語は、最近の日本映画でも地方都市を舞台にしてしばしば描かれているので、遠い外国のハナシとは思えず、遣り切れなくなってきます。
マルチェロはシモーネのことを友人と思っているが、シモーネはさにあらず。
シモーネが主人で、マルチェロは飼い犬、忠実な下僕。
虐待された犬が主人に反撃する・・・という展開になるのは早々に予想がつくが、明確に反撃し始めるのは映画も終盤になってから。
しかし、その反撃も、「怒り心頭に達し、暴力には暴力だ!」という、わかりやすい、カタルシスが伴うものではなく、空しく虚しいもの・・・・
マルチェロが手入れしている犬たちが、マルチェロの心情を察して、シモーネを集団で襲って食い殺す・・・ぐらいの展開だったら、もう少しスッキリしたと思うのですが、そんな展開だったら別の作品になっちゃったでしょうね。
主役のマルチェロ・フォンテ、誰かに似ていると思っていましたが・・・あ、藤原釜足!
古くて申し訳ない・・・
そして誰もいなくなった
主人公のマルチェロは別に良い奴じゃないんだよね。コカインの仲買人っぽいことやってるし。
むしろ悪に対する憧れがあるんじゃないかな。でも腕っぷしも強くないし、せいぜいコカインの仲買人ぐらいしかできないんじゃ。
だからマルチェロは副主人公のシモーネに憧れてるところがあると思うんだよね。
疎ましいと思いながらも憧れて、自分が憧れている世界を見せてくれる存在なんじゃないかな。
シモーネも、他の人は疎んじてるだけだけど、マルチェロは自分を羨望の目で見てることも知っていて、マルチェロに甘えてるような気もする。
マルチェロは皆と仲良くしたかったんだろうけど、一番仲良くしたかったのはシモーネなんだろうな。だから、隣の家に盗みに入るときも反対しきれない。皆を失ってもシモーネが残れば良いという決断をしてしまう。そして憧れの存在と親友になるために、自ら刑務所に入る決断をする。
でも出所してきたらさ、憧れの存在は自分なんか鼻にかけてもくれないし、チクショーと思うよね。じゃあって、他の人と仲良くしようと思っても、いまさら無理。
そして最後はシモーネを自らの手にかける。これは、殺したいほど仲が良いってことでもあると思うし、他の奴に殺られるくらいなら俺がってことでもあるんじゃないかな。
しかしそれで、他の人と仲良くなれるかというと、そんなことはない。結局、マルチェロの友達は、誰もいなくなった。
暗い
気の優しい主人公のマルチェロ。
傍若無人な友達のシモーネにやりたい放題やられてばかりで彼が不憫でならなかったが、
なんだかだんだん、おや?これってただの優柔不断か?
なんて思うように。
もっとましな賢い対処法があっただろうに。
友達だと思ってるなら尚更に。
そして
町中の嫌われ者のシモーネにも苦手なものがひとつ。
母親だ。
母ちゃん、もっと息子の首根っこを捕まえとかんと!
しかし最後あんなホラーな展開になるとは思ってなかったので、ちょっとびっくり。
群れる媚びる流される
何故、マルチェロがシモーネをあそこまで助け庇うのか。マルチェロはシモーネに何か特別な弱みを握られているのか、あるいはシモーネに恩があるのか。途中まではそう思わずにいられないほどマルチェロのシモーネへの忠誠心が異様に映りました。これは虐げられた人間がブチ切れる復讐話かと。
ところが、後半マルチェロがシモーネをゲージに閉じこめた時に私の考えは変わりました。マルチェロは、シモーネを殺す気などさらさらなく、シモーネを落ち着かせもっと自分を慕って仲良くして欲しいだけなのではないか。例えば、マルチェロと犬みたいに。
そして、シモーネの遺体を表に出し見せびらかそうとしたのは、周囲の人間に認められてもっと仲良くなりたかっただけなのではないか。
実はマルチェロにとっても、シモーネは友人ではありませんでした。友人の遺体を誇らしげに見せびらかす人間なんていません。シモーネは、マルチェロを利用はしていたけれども必要ともしていた数少ない人間で、犬以外にマルチェロの承認欲求を満たしてくれる相手でした。つまり、マルチェロは非常に孤独だったわけです。
マルチェロは、孤独を避ける為「群れる、媚びる、流される」人間の悲しい性の象徴なのではないでしょうか。その習性が行き過ぎて小さな諍いになったり、極端になると国家レベルの大きな悲劇を生む。これは、歴史が証明しています。
個人主義のヨーロッパ諸国の中でもイタリアは未だに家族や地域との関係が強い国ですし、日本は現代になっても村社会の文化が残っていて相手の顔色を伺う民族なので、今作は日本人にこそ共感と理解ができるのではないでしょうか。
ドラえもんのいない世界
初めてやってしまった・・・(泣 あるある話だが、日にちを間違えて予約してしまい、結局二重払いに・・・ダメージが大きすぎて、ヘナヘナ(泣 二食分断食しないといけないなこりゃ。
主人公であるイタリア人が、滝藤賢一にしかみえなくなり、多分邦画ならば演じるのだろうと思ったのが第一印象。
冒頭でいきなり大型犬の凶暴さを先制パンチのように観客に攻撃してくる。それが恐いの何のって、観ていてビクつきながら、顔を背けながらの心持ちであった。とにかく今作品は、ストーリー自体は複雑さは余り無いのだが、始終その怖さや苛立ち、そして共感性羞恥を誘発されて、その居たたまれなさ、情けなさに何度も途中退席したくなる程の引き込み力である。と同時に、その主人公を追い詰める“ジャイアン”であるシモーネの迫力と理不尽、そして幼稚さがの際立ちが凄い。勿論フィクションであるが、元々実際の殺人事件をモチーフにしているらしい題材である。そしてずっと疑問が湧き続けているのが、何故一人で生きていこうと思わないのか?という点。しかしネット情報によると、イタリア人における家族との連帯感というのは非常に強い事で有名だが、同時に近所付き合いや地域の仲間との結びつきも強く、村八分にされることを非常に怖れるという基本情報が重要なファクターであるらしく、今作品の解釈の中でど真ん中の知識ということである。本来ならば人間社会に於いて対等での付き合いの仲が求められるが、現実は様々な要素の中で残念ながら上下関係という歪な関係に強いられる事が多い。理性があってもやはり人間も動物ということだ。その中で今作はその人の弱さを余すところ無く極限まで表現されている。それはクライム映画というよりはもうホラーそのものなのではないだろうか。主人公が付き従う理由は娘とのダイビング費用という尤もらしさを前面に押し出しているのも皮肉的演出である。何度も出てくる海中散歩シーンと遊泳後の船上での娘との微睡みのシーンの平和演出を施しながらも、実は主人公自体が“犬”化してしまっている事を観客は気付く筈である。シモーネのペット、地域の仲間のペット、そして娘のペット。だからこそ関係性が切れず、益々奈落へと堕ちてゆく。本人にその自覚がないから、幾ら周りが忠言しても耳に響かない。身代わりで刑務所へ入るなぞ、普通の人間ならば決して判断しないことを躊躇いもせずに受容れる。だが、前述の通りの無自覚さ故、自分が犬を支配してる人間側だと思い込んでいるから、慣れない復讐らしきことをして恨みを晴らすというより、手なずけようとしてしまう過ちをしでかす。今作のシーンのクライマックスである、シモーネのネックハンギングのシーンは、明らかに冒頭の凶暴な犬をトリミングしようとするシーンのそれとの対比演出であり、そのアイデアは凝っている。そしてラストの長回しは、まるで猟犬が獲物を飼主の元へ運び、喜んで貰えることを期待するかの如く、中心部の遊戯場にシモーネを持ってくるその哀しさと情けなさに、最後まで心の落ち着きどころのない不快感を醸し出す効果として充分の訴え方ができた作りであった。一貫してブレないそのテーマ性にどす黒い闇を叩き込んでくる制作陣に称賛を贈りたい。
心して鑑賞されたし
かなり凄惨なシーンがあります。
同時期に公開されているバッタバッタ人を殺していく『永遠に僕のもの』と比べて、こちらはドーンとヘビーな仕上がりです。
時に人の優しさは凶器になりうる。
闘犬に出てくる様な獰猛な犬が最初に出てくるので、この犬にシモーネを噛み殺させるのかな?と思ったのですが、そんな生易しいものではなかった。
主人公の役者さん、どこからが素でどこからが演技なのか?も解らないくらいの見事な気弱さで。違う作品も観てみたいなぁ。
adidasのジャージが大嫌い⁉️
日経新聞や一部の新書などから得られるヨーロッパやEUの経済状況の1つの側面として『ドイツの一人勝ち』とか南北格差があげられます。ヨーロッパの経済危機のニュースは、イギリスのEU離脱を除けば、いつもギリシャや南欧諸国から発信されます。また、イタリア国内でもミラノに代表される北とナポリなどの南では経済格差があるとも聞きます。
南欧の人からすれば、ドイツは経済で勝ちを収めていい気になってるいけ好かない優等生。上から目線で財務改善、つまり公務員給与や年金の削減を迫ってくるドイツはシモーネのように見えるのかもしれません。だから、adidasのジャージを着せているのではないでしょうか?
それはさておき、同情するのも嫌になる程、主人公は客観的には情けない判断ばかり積み重ねていますが、愛娘とダイビングをしに海外に行くんだ、という決意だけは確固たるものでした。中長期的な予想や客観的な視点ではどうみても不可解な判断であっても、その瞬間ごとの優先順位から見ればある意味、合理的なことが分かります。
・鍵を渡してしまった以上、もう取り返しがつかないのだから1万ユーロのためには服役も辞さない。
・殺してしまった以上、もう取り返しがつかないのだから、せめてそのことで、また仲間として認めてもらいたい。
いつも暴力や精神的な威圧に晒されていると、否応無くその場しのぎでなんとか目先の被害をやり過ごすことが習い性になって、はたから見ればあり得ないほど短絡的な対処法に走ってしまう。
このような精神状態に人を追い詰めてしまうことは、児童虐待やDVや会社におけるパワハラなどの底知れない罪深さのひとつの要素なのだと思います。
タイトルの意味
まず、驚くべきは、マルチェロを演じるマルチェロ・フォンテの演技力だ。口を開かずとも、その目は、その表情は常に何かに怯え、何かを伺い…その時々の感情を事細かに表すのだ。
そして、この映画のタイトル「ドッグマン」の意味することろに、彼の演技が全て繋がっていたことに更に驚かされる。
そう、マルチェロは犬そのものなのだ。
怯えながらもシモーネに従い、
シモーネのピンチを助け、
シモーネのねぎらいには喜び、
周りの人々の動向には目配せをし、
シモーネの不条理な命令にも従い、
シモーネの身代わりにもなり、
しかし、いざ、シモーネが自分に十分報いる気がないと知ると、虐待には牙を剥き、
今度は、周りの人々に、あなた達の嫌なものを取り除いて、喜ぶようなことをしたよ!と成果を見せようとアピールする。
だが、誰も喜んでくれる人がいないことに気づくと、犬はポツンとひとりで途方に暮れるしかなかった。
人間の物語として観ると嫌悪感を抱く人もいるようなストーリーだか、仮に犬に置き換えたらどうだろうか。
切なさも感じさせる。
自分もかなり長い間、犬を飼っていたが、不条理な命令などしたことはないし、でも、彼らの気持ちを本当に理解していただろうかと、少し不安になった。
挑戦的だし、悪い意味ではなく、居心地の悪い強烈な余韻の残る映画だった。
そのままかよ~?
この映画の印象を聞かれたとしたなら、稚拙なものにとっては、ただ暗いとしか言いようがなく、また映画の撮影背景も青みがかったものなので余計にそのように感じてしまう。冒頭に「ジョン・ウィック:チャプター2(2017)」でも登場した相棒のピットブル犬の大写しから始まるのだけれども、この犬種、もともとは、闘犬用として生まれて、そのどう猛さからかしれないけれども国によっては、飼うことに制限を設けているところもあるが、そのどう猛さと反比例をするかの如く、忠誠心の塊な性格によって愛犬家もためらわずに飼うこともある。
モキュメンタリー風に作られたと思われるこの映画、主人公を含めて演技をしているのか、日常を淡々と描いているのか、訳の分からないようにシナリオが進んでいくので、この映画に出ている役者さんは素人の方たちかと疑ってしまう自分がいた。しかも主人公以外IMDbで調べてもあまり詳しくは、情報を載せていない。
主人公のマルチェロ、優柔不断さからか、それとも優し過ぎるのか、弱すぎるのか、言えるのは"強いものには巻かれろという"地でいくような性格をしている。しかも目に入れてもいたくない娘のためにコカインの密売で小金を稼いでいる。そんなことで、地元のチンピラのシモーネにいいように扱われることとなる。
Los Angeles Timesの記者は「せいぜい、私たちがマルチェロの目を通して「ドッグマン」として生きることができるとき、映画は人、動物、脅威と優しさ、そして私たちが自分たちのために作ったことに気づかない檻を思い続けることとなる。」またRogerEbert.comという映画専門サイトは、「厳しいメッセージにもかかわらず、悪魔との取引をしようとする、その優しい心根に同情すらしてしまう。」と述べている。この映画監督の映画作りのためか、対比する両者の関係が壊れた時、その人がとる行動は、計り知れなくなると言いたいように個人的には感じる。
娘に最後の願いをかなえたマルチェロ。しかし誰からも信頼を失い、誰一人として、彼の言葉に耳を貸さなくなった時に最後に行動を起こすのだが.....!?
批評家からと視聴者からも高い支持を受けているこの作品、イタリア映画が現在でも健在なのがよくわかるものになっている。
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