劇場公開日 2019年2月22日

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「ものすごく面白いことしてますの空気感」翔んで埼玉 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

2.0ものすごく面白いことしてますの空気感

2020年7月11日
PCから投稿

田舎者をばかにするのは有史以来あったことだけど、80年代に新しい待遇になった。よくわかってないかもしれないが、魔夜峰央や江口寿史は田舎者に自虐というしのぎ方をもたらしたんじゃなかろうか。

それまでは、1930年の榎本健一の歌にあるように、おれは村中でいちばん、モボだと言われた男、うぬぼれのぼせて得意顔、東京は銀座へときた──ただ、ひたすら都会人の嘲弄の対象だったのが「おれって埼玉だからダサいんだよね」と、予め宣言してしまうことで、ばかにされるのを回避できるようになった──わけである。

すなわち、これらの作者の初動には、千葉や茨城や埼玉や群馬をダサいところであるとおちょくると同時に、自嘲をまじえて、都会人の嘲弄をかわす目的があった──と思う。
東京でなければ、どこだってぜんぶ田舎なのに、やり玉になる県が東京近隣に限局されていることで、その裏付けができる。
通勤圏なら、日々そのカーストを被る。
かれらは、東京人たちの目を、もっと生産的なことに向けさせたかった──と見ることができるはずである。

ただし、80年代のシフトから、これらは耳にタコができるような常套ネタになった。嶽本野ばらみたいに、楽しいのもあったけれど、もういいんじゃなかろうか。個人的には下妻物語で卒業した昔のネタである。そして、これも事実上2020年の現在から見ると魔夜峰央の38年前のネタである。

そこに若い人々が突き抜けたフレッシュさを感じているのなら、もくろみが当たっているし、大多数の高評価に対して、イキって低評価を下している少数派意見には、はぎしり感が醸されてしまうわけで、もし自分が、そんな映画に遭っても、くれぐれも冷静さを失ってはいけない──と、つねづね思ってきた。

しかし、もうこの手の話は、ボディイメージを提供しているに過ぎない──とは思う。ようするに虐めを助長するような、卑下をもたらしているに過ぎない。
きょうび虐めがおこるのはメディアやSNS等が、イメージを形づくってしまうことが少なからず影響している──と思う。インスタとかで、おまえはこんな奴だぜとか、じぶんはこんなボディイメージなんだとか、繰り返しインプットされた人が、それを現実に反映させている。

だいたい、日々、ダサいところに住んでいるダサいじぶん、を念頭している人間が、いったいどんな人間になれるっていうんだろうか。

おちゃらけている映画に、律儀な持論を展開してしまうレビューは、柔軟性の欠如を露呈してしまうのであって、つねづね映画の温度に適応しなきゃいけないと思ってきたが、これはできなかった。
きょうび、あるあるを採ってくる──身につまされることを狙っている創作物がやたら多い。地方の風物や、会社の人間関係や、合コンの言動や、公共のパターンについて、定型に陥ってしまいがちな様式を笑うやつだ。笑えても、笑いがひきつる。魔夜峰央の漫画には、そんな意図はぜんぜんなかった。

人をばかにできる定型を山ほど提供していながら、それが観衆の無意識に取り込まれることを予測していながら、ばかにしているわけではない──とは、日常わたしたちが忌避している官吏の態度そのものではなかろうか。

映画は人の寛容をはかっていて、観衆は、受け容れることのできる自分の度量に満足しているわけだが、こういうのって、ぜんぶ面と向かって言われてみろよ。
いや、それ以前に、ほかの地域がぜんぶ関係ない。九州や北海道や四国やその他数多の人々がこの映画に頭がはてなマークだらけになっているとき、それを驕りというんじゃなかろうか。

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津次郎