劇場公開日 2019年8月9日

  • 予告編を見る

「非暴力という尊い思想、あるいはラッパ吹きの生涯」ピータールー マンチェスターの悲劇 キャベツ頭の男さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5非暴力という尊い思想、あるいはラッパ吹きの生涯

2019年8月14日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

あっという間の155分。
映像は、絵画的な陰影に富み、美しい。
(同じく政治劇、群像劇であるスピルバーグの「リンカーン」を思い出した。)

さて、ご覧になった方はお判りのとおり、この映画には主人公と呼べるような中心的な人物は不在であり、また英雄的で華々しい行動が描かれるわけでもない。
しかしながら、この映画の主旨を考えるなら、マイク・リーが、複数の人物を同時進行的に描いていることにも納得がいく。

物語で描かれるのは、今に続く議会制民主主義という政治形態の胚胎期に、男子普通選挙の施行を求めて集会を開こうとする人々の姿である。
弁論に秀でた者、いささか舌足らずではあるが善意によって聴衆の心をつかむ者、雄弁に耳を傾ける者、そして、そこで語られる理想を冷笑する者。

市井の人々が足並みを揃えるのは容易ではないが、不況によって生活が困窮するにしたがって、人々の心は一つにまとまっていく。
しかし同時に、社会運動の指導者たちに、実力行使もやむを得ないと考える者も増えてくる。

映画のクライマックスで描かれる、マンチェスター、セント・ピーターズ・フィールド広場での集会の主賓は「絶対に非暴力でなければならない」と主張する雄弁家ヘンリー・ハントである。
「非暴力」がモットーであるが故に、人々は正装し、子どもを連れ、胸を張って広場へ集う。
しかしながら、この「非暴力」は、街の有力者たちの「暴力」によって踏みにじられてしまう。
つまり、「非暴力」は「暴力」に屈し、「理想」は「現実」に潰えてしまうのだ。
映画が語るのは、そこまでである。

では、この映画は「敗北」が主題なのだろうか?
そうではないだろう。

例えばガンジー、マーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラといった「非暴力」を主張した指導者たちのルーツとして、この映画で語られる「非暴力」という思想があるのではないだろうか?

また、「非暴力」という主題を考えるなら、この映画で、複数の人物を同時進行的に描くことを選択したマイク・リーの意図もより理解できるように思われる。

映画の冒頭と最後の場面を思い出してほしい。
そこで何が描かれていたのか?
それは戦場で途方に暮れてラッパを吹く青年の姿であり、その人物の埋葬である。
ひどく口べたであるがゆえに、ほとんど何も語らない人物。
仕事を探すが、何も見つけることができない人物。
しかし、その人物は歴史の証人であり、ヘンリー・ハントの演説に期待して、広場にいた6万人の一人である。
つまり、理想を胸のなかで暖めていた人物でもあったわけである。
(無抵抗であるがゆえに、あっけなく暴力の犠牲となってしまう人物でもあるのだが)

この失業者であるラッパ吹きを作品の冒頭と結末に描いているところに、監督であるマイク・リーの歴史の見方が現れているといえるだろう。
彼は、歴史の証人であり、また参加者でもある。

歴史とは、歴史に名を刻む者によってのみ作られるものではなく、同時に名もなき者たちによっても作られる。
それは、もちろん、議会制民主主義という政治形態の下に生きる、この映画の鑑賞者であるわれわれについても言えることだ。

ピータールーの事件について、なにも知らなかっただけに、良い映画であった。
また19世紀初頭の英国の様子も丁寧に描かれており、個人的にはとても勉強になった。
それにしても、政治にかかわろうとする者のなんと雄弁なことか。
飽きることなく、楽しめた。

キャベツ頭の男