グッバイ・ゴダール!のレビュー・感想・評価
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ゴダール本人は斬り捨てたエスプリ漂う実録ドラマ
今年87歳でカンヌ映画祭にFaceTimeで参加したフランス映画界のレジェンド、ジャン=リュック・ゴダール。「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」での同時録音や"ジャンプカット"で旧来の映画手法をぶち破ったゴダールが、その後、低迷していた頃、どんな風に日々を過ごしていたか?それを、後に妻となる女優、アンヌ・ヴィアゼムスキーの手記に基づき再現したという映画は、まだ37歳なのに老いを感じ始めていた半端な中年男が迷走する姿を容赦なく描いて、いかにもフランス映画らしいエスプリ(ジョーク)を炸裂させる。容赦なさ過ぎて観ている方が引いてしまうくらいに。しかしそこが、フランスのフランスたる所以で、ジョークに限界を設けないことが許され、好まれる国なのだ。標的にされたゴダールは映画を一刀両断に斬り捨てたらしいが。そこにもエスプリがぷんぶん匂う。そんな場外乱闘も含めて、先人を笑いのネタにすることなど到底許されない日本の映画ファンとしては、少しだけ羨ましくもある洒落がきつい実録ドラマなのである。
マオ的?が分からない
映画表現の思想と映画制作の経済に苛まれる
巨匠ゴダール、意外と子供っぽい(笑)
でもそのカッコ良さに惹かれるのも尤もだし
愛想つくのも当たり前
残酷で陰険で冷たい人なんだから…
「普通」だと怒られるし(笑)
デモに参加するたびディスられて眼鏡踏まれるシーンを何度も繰り返したり、長距離ドライブ中に仲間内で大喧嘩したり
ゴダールをシニカルに表現
貴重だったのは上映中の映画にアフレコ的に被せる会話
その映画が「裁かるるジャンヌ」であった!
確か無声映画だった記憶、日藝の映画祭で観た
ゴダールの生真面目さと嫉妬深さが印象に残るのだが、残る欲求不満
ゴダールの2番目の妻の自伝が原作の映画で、1968年の5月革命前後が舞台。まあ、ゴダールの元から巣立つ若い妻の自立の物語ということなのだろうが、あまり成功していない様に見えた。
原作がそうなのかもしれないが、ゴダールがひたすら生真面目で、頭の中だけからの革命から行動家へ自己変革しようとしているらしい。しかし、何故か周囲の人間と絶え間ない諍いを起こす。そして、妻の撮影現場に押し掛けるほど嫉妬深い。街に繰り出すが、決まって眼鏡が壊れて行動が挫折。とても魅力的には見えないそのゴダールを駆り立てているものの本質が、見ているこちらに十分に伝わってこないもどかしさが最大の欠点か。
まあ、映画監督ゴダールの個人史断片、自己の過去作品を否定した希有の作家のプロフィールを知るという意味では役にはたった。
休みの日の朝から見ると???
劇場で公開された2017年当時から気になっていたんですが、なかなかチャンスがなくて見ることがかないませんでした。それがコロナ禍の年末、時間ができたので見ることに。
いろいろと調べてみると、話は、ジャン=リュック・ゴダールと、その二人目の妻アンヌ・ヴィアゼムスキーとのお話の模様。
描かれている1960年代後期というと、中国では文化大革命のころで、それが(一部の)フランスに与えた影響が画面から垣間見れたのですが、休みの朝から見たんで、まぁ、あれですね。なかなかわかりにくいです。失礼。土曜の午後とかなら、よくわかったのかもしれませんが・・・
割れる眼鏡
映画監督J=L・ゴダールと彼の妻となるアンヌ・ヴィアゼムスキーを描く劇映画。原作はアンヌの自伝的小説。1967年に撮影中の『中国女』から物語は始まる。政治に傾倒していくゴダール。そして情緒的な五月革命がやって来て…
正直に言うと『中国女』を見てないでこの映画を見てしまっているのだが、まあいいよね。ところで、まだ監督は元気に生きてるが、こういうのを作られるのはどんな気分だろう?
ゴダール的な色彩・音響など目配せしつつアート寄りではなく商業映画的に作っており見やすい。お洒落な裸もあり。笑えるシーンがあるとは思わなかった。(車のとこ最高)
予想通り、一緒に暮らすには面倒くさすぎるゴダールであった。
劇中ではスルーされてるが、「中国女」の後に「ウイークエンド」と「ワンプラスワン」を撮ってるというのが面白い。これ余談。
孤独は夢の代償なのだ。
勝手にしゃがれ!・狂がいピエロ。
憧れだった。
非日常を映像にするだけで面白い!と、言わしめた時代だった。
天才の自伝映画ではなく元妻の原作を映画化しただけ。
それが故に笑い話映画。
女性特有の自画自賛映画に他ならない。まさに愚かな映画。
自己否定と同胞否定は人が変わっていく必然。それを認め、支えるのが役割であるはずが、哀しいかなそんな強さは彼女にはなく自己肯定に終始してしまう。もちろん努力は怠らなかったんだ。けれども所詮むりな話なのだ。男と女が支えあうということは・・・・
タイトルなし
ジャン=ルック・ゴダールの2番目の妻
女優アンヌ・ビアゼムスキーの
自伝的小説の映画化
.
ゴダールをルイ・ガレル
アンヌをスティシー・マーティンが演じた
.
ゴダール作品を知らなくても
この映画でゴダールを知ることが出来る
天才…奇才…この監督…
面倒くさい男だった🤣
車の中での延々と続くやりとり等
面倒くさい奴だなぁと思いながらも
だんだん許せてきたり…
セットや衣装も素敵で
観入っちゃう🤩
【ステイシー・マーティンという魅力的な仏蘭西女優に魅了された作品。】
ー ゴダールが振り回される、ステイシー・マーティンの美しい肢体、裸体に魅了された作品。ー
<次にステイシー・マーティンに魅了されたのは、個人的に近年の仏蘭西映画の秀作と思っている「アマンダと僕」である。>
<2018年10月5日 劇場にて鑑賞>
ポスト アンナ・カリーナ
1968年のカンヌ映画祭中止事件の前後、ゴダールがアンナ・カリーナと別れ、アンヌ・ビアゼムスキーと共に歩んだ混乱した時代が描かれる。
「勝手にしやがれ」、「女と男のいる舗道」、「軽蔑」、「気狂いピエロ」などは凄い映画だと思うが、その後は私にとって訳が分からない作品ばかりになった。
1960年代末期の政治的な時代は日本でもあったと思うが、直ぐに消えてしまった。
何かが壊れ元へ戻れなくなった。これこそ革命なのかも
映画「グッバイ・ゴダール!」(ミシェル・アザナビシウス監督)から。
冒頭、ゴダールの賛辞が文字となって飛び込んでくる。
「ジャン=リュック・ゴダール。映画の概念を変えた男だ。
野放しの独創性が放つ魅力。予期せぬおかしさで裏をかく。
物語をずらして政治を語る面白さ。つまり若さと自由だ。」と。
そのゴダールがのめり込んでいった「革命」がテーマとなっている。
日常の生活の中でラジオから流れるのは、革命的な潜水艦の情報は、
「『戦慄号』は穏やかな航行と力強さを兼ね備えます。
静寂の戦いこそが『戦慄号』の特徴と言えるでしょう。
これぞ『戦慄号』の暮らしなり」という意味ありげなフレーズ。
さらに「革命」に対する表現が、所々に散りばめられているのも気になる。
「いいかい、革命は靴と同じ。
左と右があるから・・裸足で歩きたくなる」
「フランスもそうなるさ」「そうかな」「便を出せば、胃も軽くなる」
「学生運動の『運動』こそが重要だ、『学生』ではない」
「何かが壊れ元へ戻れなくなった。これこそ革命なのかも」
そして、最後に「これぞ『戦慄号』の末路なり」のフレーズが現れる。
『戦慄号』(静寂の戦い)イコール「革命」ということなのか。
私には、ちょっと難しいテーマだったかもなぁ。(汗)
ヒロインかわいい!ゴダールもかわいい(笑)
映画は女優を見に行くものだった感覚を久しぶりに堪能した。
●とにかくヒロインが魅力的だ。美しい裸体、チャーミング(死語か?)な笑顔と何を考えているかわからない表情。ヒロインが動的でない事も二人の微妙な距離感の効果になっていて、夢見心地にさせてくれる。
●ゴダールもいい。偏屈で理屈屋、それでいて気弱で内弁慶で寂しがり屋で嫉妬深い。芸術家特有の勘違いで突っ走って失敗を繰りかえす。まさにゴダールっぽい。そのうえで放っておけないかわいさがあるのだ。
●ゴダールの手法や色彩、スタイルをパロっているようで現代でも効果的な映像スタイル。その狙いがスゴイ。
ただただ男女が微妙な距離感で時を過ごす映画は最近あまり見ない。お家柄のフランスでもそうだろうな。空気のような物で見る者を魅了する映画。ああ、久しぶりにゴダール見たくなった。
面倒くさい人
映画監督のジャン=リュック・ゴダールの2人目の妻、アンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝的小説を映画化したもの。
あくびが出るほど退屈たったわけではないものの、特に盛り上がる場面があるわけでなし、ちょいちょい出てくるきっとユーモラスな?場面では、いまいち笑えないばかりか、逆にどんどん引いていく自分がいて・・・。
やはりおフランスの映画はよくわかりません。
わかったのは、ゴダールという人はとにかく面倒臭い人だということ。
いくら才能があるといっても、友達や仲間にはしたくない人物ですな。
良かったのはアンヌ役のステーシー・マーティンがチャーミングでとても素敵だったこと。
60年代ぽい映像は良いが、音楽もなんだかミスマッチだし、個人的には全くもってイマイチでしたが、ゴダール作品が好きな人には楽しめるかな。
愛、革命、映画
ゴダールの2番目の妻で、彼の映画「中国女」の主演を務めたアンヌ・ビアゼムスキーの自伝が原作。
2人の出会いから別れまでを描いており、ゆえに、ゴダールの描写は辛辣。
芸術家や作家の元妻、元恋人による手記って、たびたび世に出るけど、女性目線による男性芸術家の評価って、たいてい厳しいものなのだが。
本作でも、ゴダールは妻1人とまともに向き合えないダメ男として描かれている。
小心で他人の目を気にするくせに、口をついて出る言葉は攻撃的で、すぐに周りと対立する。
容易に不機嫌になり、付き合うにはめんどくさいこと、この上ない。
しかし、当時の背景も知る必要がある。
1968年、まさに政治の季節、フランスは五月革命に揺れていた。
ゴダールの自由精神は革命と共鳴する。革命に憧れ、革命に絡め取られ、革命と愛と映画の三角関係に振り回されるゴダール。
彼もめんどくさいのだが、当時のフランスがまた、めんどくさかった。
革命か体制か。
当時あったのは、この二択だけで、何か物を言う、何かを表現しようとするならば、このいずれかを選ばなくてはならなかった。
革命とは現状の否定だ。ゴダールは過去の自作や映画(産業)すら否定し、そうした発言への批判にまた疲弊していた。
彼の不機嫌には、革命に向かう高揚感と空回りする焦燥感があった。
僕たちは歴史の「その後」を知っている。
共産革命は世界の労働者を救わなかったし、共産圏の指導者たちはひどい虐殺者で、西側諸国は経済発展を謳歌し、結局は革命が起こって政治体制の転換を迫られたのは共産主義国家のほうだった。
映画の中でゴダールがレストランで居合わせた老人に突っかかる場面がある。老人は2つの対戦で戦い、そして反ナチのレジスタンスだった。それを聴いたゴダールはこう問う。「それで出来たのが、この社会か?」
日本でもちょうど1968年を取り上げた本や、展覧会が開かれている。
あれから50年、世界はマシになったのか。映画は?そして愛はどうか?
そんなことを考えさせられた。
ル・ルドゥタブルの艦内での暮らし
『ゴダールを知らない者は映画を観る資格無し』、なんていう格言などは無い。別に“ヌーベルヴァーグ”なんて知らなくたって映画作品は数多ある。自分が分らないモノ、理解出来ぬモノはドンドンDisればいい。批判的な批評だろうと今の時代はとりあえず表明は出来る。勿論、炎上商法なんていう技だって日常茶飯事。映画も演出ならば、レビューだって同様だ。
唯、一つ言える事は、今作品は間違いなく、五月革命、五月危機を知らなければ面白味も半減してしまうということ。勿論、自分もフランス現代史なんて知識もないし、今でも興味は薄い。そんな中で繰広げられる、中二病の中年男と、その才能だけに惚れてしまったミーハー女の短い恋愛話という矮小なストーリーというカテゴリーで括ってしまうのはいささか乱暴すぎるということは充分自覚はしている。映像のルックがまるで昔のアメリカのテレビドラマな感じやら、全体的に包み込むウィットや、フランス仕込みのアイロニーとエスプリ、そして天丼の眼鏡が壊れるギャグも、おフランスの正にイメージ通り。私人と公人の間の葛藤など、ブルジョワでセレヴのみが悩むことが出来るさもしい思考。結局、平和と平等なんてものは人間の妄想以外のなにものでもないことを、冷たく今作品は訴えているのではないかと思える程のラスト。
しかし、こんな作品を一刀両断に切り捨てるのも又、了見の狭い人間なのであろう。そう、まるで潜水艦の中の生活そのものの思考だ・・・そんな中で、フランス映画に憧れがあるとすれば、堂々と女優が脱ぐこと。せめてこれだけは邦画でも真似て欲しいと願うばかり。
ゴダールの60年代後半戦、これは面白い
ゴダールの2番目の奥さんのアンヌ・ビアゼムスキーの自伝的小説を映画化したとのこと。
ゴダールが商業映画から離れていく60年代の後半を描いたファンにはたまらない作品だ。彼のいいところも悪いところもひっくるめて興味津々で観た。
「ニンフォマニアック」のステイシー・マーティンがいかにもゴダール好きなアンヌを演じる。女性の好みは違うが魅力的だった。
ファンにはお宝、そして彼の作品を観たことがない人にはまったく意味がないという、まさに観る人を選ぶ作品だ。
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