止められるか、俺たちをのレビュー・感想・評価
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それなりに面白かった
若松監督、1936年生まれ。自分より24歳年上。生きていれば82歳だ。
60年安保を14歳で、70年安保を24歳で迎えた背景。世の中は今より混沌雑然としていて、新宿を中心に、若者の行き場のないエネルギーが渦巻いていた頃とも聞く。
その中で「実録あさま山荘」をはじめ、評価される映画を撮り続けた監督を振り返り、その頃の1年を女性新人助監督を主人公にして駆け抜ける話。
自分も上記したように聞くだけなので、きっと時代の雰囲気が描けているのだろうと、本当かどうかわからないが感じた。
猥雑な中のエネルギー、ピンク映画つまり性の中に溢れる生きる力といった言われ方をする意味が、少しわかった気がする。
一方で、自分のひとつ前の世代であるこの代の感覚に、ついていけてないというか、共感を感じないのが自分。経験していないために、否定する意味ではなく、ふーん、よかったね、と醒めてしまう。
ただし、映画は全て、経験していないものを観て、疑似体験して感動共感するものなのだから、上で言ってることは何か変。
おそらく、その時代を経験し自分のこととして熱く語れる人たちが近く(少し上の世代の人たち)にいたので、「羨ましいけれど、自分たちはそれを体験できるわけではないから、醒めた感じで聞く」という姿勢になってしまっているのだろうな。
25歳くらいの若者に「オールウェイズ三丁目の夕陽 は、ノスタルジーばかりでちょっとイヤ」という声があるが、ある世代の郷愁とか自慢が前に出過ぎてしまうと、他の世代から見た時に、違和感や拒否反応が生まれてしまうものなのだろうか。(NHK番組「プロジェクトX」にも、同様の声を聞く。俺は、大好きなのだが)
そして、本作に対する俺の違和感は、やはり、自分に近い世代だが、自分が同じ経験をすることは絶対にできない世代に対して生まれてくる、やっかみ、隠れた拒否反応なのだろう。
否定的な感情を述べてきたけど、この映画は、本当にエネルギッシュで、俳優たちも躍動してるので、一度観ることをお勧めします。
知人曰く「古巣に対して、『なんか活動家の拠点みたいになっちまったなあ』と言わせる批判精神には好感もてるけれどな」とのこと。
チェ・ゲバラの顔が常に見守ってる。性と暴力そして革命
一番印象に残ってるのが、初監督を任された吉積めぐみ作品「浦島太郎?」が若松孝二監督に認められなかったときに見せた涙。最初はフーテンの自分を拾ってくれた若松プロで何気なく助監督を続けていためぐみだったが、自分の目標をやっと見つけたと思ったら、これだもん。ちょっとした青春の挫折感がいい具合に描かれていた。涙を見せるシーンは何ヵ所かあったのですが、男社会の紅一点という立場を乗り越える健気なところが素敵でした。
足立(山本浩司)からすれば、女を捨てたと思われていた吉積めぐみ(門脇麦)。しかし、映画製作にのめり込む過程で何かが変化していた。映画への情熱、大手とは違った湧き出るような創造力。ピンク映画中心ではあったが、それらはすべて資金のためであり、難解であるがため評判が良くなった若松プロ作品の奥底にある体制批判や、映画からにじみ出るエネルギーを皆が共有していたのだ。エロ目的で映画を観る人は所詮エロどまり。映画に隠されたテーマやメッセージはなかなか気づいてくれないもどかしさは現代にも通じていると思う。
時代背景からして、学生運動華やかなる時代。しかし、インターナショナルを歌わなかった若松孝二。彼は映画を通してのみ自らの思いを発する手段として使っていたことがわかる。同門の助監督たちはその意思をくみ取り、富士山を天皇と見立てたり、体制批判の精神だけは忘れなかった。しかし、助監督から監督へと道を進むにつれ、主人公めぐみの心は複雑に揺れていた。
カンヌ映画祭へと招待され、ついでにパレスチナの現状を撮ろうとする若松、足立。「パレッチナ」と発音するところが何ともユニーク。同時にその映像を映画化されてないのは、ハリウッドはユダヤ系が多いためだという現実も伝えられる。そこからは映画製作よりも活動拠点として赤バスを走らせるなど、政治的ニュアンスが強くなっていく。そんなときに思いがけない妊娠に気づいためぐみ。彼女が死を選んだ理由はよくわからなかったが、簡単には答えは見つからないような内容でした。
赤塚不二夫や大島渚といった著名人も顔を出し、三島由紀夫の自決シーンも大きな意味を持ってくる。死んでしまったらおしまいだけど、死ぬまでに何を残せるかという人間の背負った運命をも感じさせてくれた。
とてもよかった
3年我慢したら監督にしてやる、と希望を抱かせるところが憎い。そうは言ってもオレなら3年は無理な気がする。これこそ紛れもなく青春だ。団体行動を楽しんだり耐えられる根性があったらなあとつくづく思う。エンドロールで、ご本人登場で実物の写真を見せられたら泣いてしまった。まさか自殺なんてそりゃないよ、産めばいいのになあと思う。
何者になれない者
青春は難しい。何者かになりたくて、でもそれが何なのか分からなくて。
その青春の場に若松孝二が居たら。
名を知っている人間がバンバン登場する(そしてすごいダメ出しを食らったそうだ)実録青春ものは、抑制が効いている。爆発的なエナジーというか、盛り上がりはこの映画には正直、ない。そこにあるもの、あったことをひたすらに拾い繋げ、役者が生命を吹き込み蘇らせる。映画の中でも主人公のめぐみが言うが、どれだけ言葉を尽くしても映画のワンカットに敵わないのである。そういう意味で映画にすべき映画だったし、世に出て良かったなあと思う。
何者かになりたい主人公の叫びが伝わってきた。じーんとしてしまった。
井浦新は別の人になったみたいだった。というのは私はちゃんと若松孝二監督を見たことがないからだが、でもそこに確かに若松孝二というひとの存在を感じました。
主役めぐみ(門脇麦ちゃん)で正解だった
若松監督世代、学生運動生活ドンピシャの人に激アツオススメされて鑑賞。
同時代に青春を過ごした人は、そりゃもう、胸アツでしょう。
あの映画もあの事件も、あーー!!て感じだろうなーと、途中途中思いながら。
でも、だからこそ、若松孝二監督自体を主役にせず、若松組に加わった紅一点・めぐみさんを据えたのは、世代以外の観客に向けても、良かったと思う。
こうだったよなーと懐かしむ人、そうだったんだーと改めて知る人、それらまとめて、最後はなんか切なくなるはずなのです。
実在の人物だらけなので、その後の彼らがどうなったかを色々と調べるとまた、そこから今に至る色んなこと、カルチャー史の一端にも触れられる。
表現者たちに、まだ鬱屈したパワーのあった時代。
若松監督の映画はひとつも観ていない。キャタピラは、あまりにもエグすぎて途中で観るのをやめた。途中でやめるのはそうはない。
だからこの映画を観た理由は、音楽が曽我部恵一ということと、井浦新ほか役者陣に興味があったのと、そして、観ようと思っていた映画が満席で取れずにちょうど時間が合ったのがこの映画だった、ということ。
赤塚不二夫のほか、当時の文化人、業界人が何人も出てくるようだがよくわからなかった。その時代の映画界に携わった人たちにとってはおそらくノスタルジーを掻き立てられる映画なのだろうと思う。僕には「素敵なダイナマイトスキャンダル」に似た映画、という感覚しかない。たぶん、井浦新のデフォルメされたような演技を好きか嫌いかで、この映画の好みがわかれるんだろうなあ。
めぐみがああなるのは、ちょっと意外だった。あれは真実なのだろうから筋書きに異論はないが、めぐみは自分の人生を幸せだったと言えたのだろうか、とふと思た。
行き場のない若さ
強烈な残像を残す作品でした
若松映画の映画というメタシアター
門脇麦に尽きる。
ただし、破天荒な青春群像劇となり得たところが、門脇演じるめぐみをメインに据えたために、良くも悪くも物語が浄化されてしまったように思える。
だって、あの頃のポルノ映画の独立プロが、果たして、これほど「きれい」だっただろうか?
しかも監督は、「彼女がその名を知らない鳥たち」(傑作)で、あれほど汚い人たちを描き、観る者の心揺さぶった白石和彌。
おそらくはノスタルジー、そして死者を悪くは描けない、ということか。
若松孝二に私淑していた曽我部恵一が音楽を担当。彼の柔らかな声は映像にはなじむが、実際、当時聴かれていた音楽は反体制のメッセージを込めた、もっと鋭いものだったはず。こうした点を鑑みても、現実の「あの頃」との差異を感じる。
父を知らない娘(めぐみ)が、若松孝二の父性に憧れ、父の面影に惹かれて男に抱かれる。
そして彼女は映画を生むことも、子供を産むことも出来ず死を選んだ。
当時はいま以上に職業と性差の考え方がはっきりしていた。映画を生むのは男性という暗黙のルールがあったのだ。
しかも、母になれば絶対に映画は生めない。せっかく、ここ(助監督のチーフ)まで来たのに、積み上げてきたものは無になる。彼女は映画と我が子と“2人の子”を選べなかったのだ。
さて、本作は「映画の映画」である。劇中、はしばしに映画への愛が溢れている。
従って、この作品がメタシアター的になるのは当然だろう。
そもそも本作は劇中でめぐみの死を悼みながらも、と同時に作品として若松孝二へ追悼を捧げるという二重構造を持っている。
また、本作は、映画作りそのものが、「若松孝二的」だ。
映画を撮影しているシーンで、助監督のめぐみが「背景に関係ない人が映ってしまった」と指摘するシーンがあるが、若松孝二は「そんなの誰も見てねえよ」と一蹴する。
なるほど。劇中、町を歩くシーンで、どう考えても当時にはないものが映り込んでいるところがあるのだが、それは若松組の映画作りなのだな、と合点がいった。
また、何かのインタビューで井浦新が、本作の撮影期間は2週間だったと言っていたのだが、やはり、めぐみが仕切って撮影日数を短くしたというやりとりが出てくる。
本作が若松プロの再出発となるとのこと。そのことにふさわしい映画作りを志向したのだろう。
面白かった
若松プロの疾走に引き込まれる
女性に観てもらいたい
言いたいことはいっぱいありますが個人的には、門脇 麦さんの演じる女性の心の揺れ動く描写に終始見入ってしまいました。
子供をおろすのはセックスに負けた事であり、子供を産むこともまためぐみにとっては負けることになるから結局『死』という悲しい選択をしてしまったのでしょうが…
その行為は浅はかではありますが死ぬことによって彼女のクリエイターとしての最期の自己主張たる『作品』として完結したのでしょう。
そう、文学者・三島由紀夫 氏のように…
19’ 11月1日 ミニシアターにて鑑賞
ぽっかり空いた穴に落ちる
門脇麦は存在感のある女優である。何を考えているのかわからない女、本当は何を考えているのか教えてほしいようなほしくないような、知りたいような知りたくないような女がいる。そういう女を演じるとピカイチだ。本作品の主人公はまさにそういう女で、自分でもよくわかっていないところにリアリティがある。
めぐみは、何をしたいのかよくわからないままに生きている。若松孝二という圧倒的なバイタリティに引きづられるように毎日を過ごすが、自分がどうしたいのか、何が出来るのかは、闇の中だ。闇は心にぽっかり空いた穴を埋め尽くし、やがて現実ににじみ出て、めぐみを苦しめる。周囲の男たちの言葉によって小さな幸せを感じたり、または怒りに顫えたりしながら、彼女なりの精一杯の青春を生きていた。門脇麦の渾身の演技である。
観ていてかなりしんどい映画だった。若い映画人がそれぞれに鬱屈を抱えつつ、殺人的なスケジュールをこなしていく。ときに飲みつぶれながら、ときに激しく議論しながら、それでも作品を作り続けるエネルギーが伝わってきて、観ている方も体力がいる。井浦新の若松孝二は映画監督というには少しスマートすぎる感があったが、反権力、反体制の人であり、感性の人であるという特徴はよく出ていたと思う。好演である。
映画が終わって外に出ると、日曜日の正午すぎの新宿三丁目は、微妙に怪しい雰囲気である。休みの店や準備中の店、営業しているのかわからない店がそこかしこにあって、気だるそうに道を往く東南アジア系の観光客、急停車した車から降りて走り出す黒人、腕組みをしてこちらを睨む女装の人、大声で電話をしているチンピラなど、凡そ日曜日の午後らしくない人々が闊歩している。なかなかいい感じである。
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