「美しさと得体のしれなさ」氷上の王、ジョン・カリー むらさきさんの映画レビュー(感想・評価)
美しさと得体のしれなさ
映画「氷上の王 ジョン・カリー」はフィギュアスケートの革命という観点から見たい人と、性的マイノリティーと社会という関心で興味を持つ人とがあると思う。しかし、私にはこの映画は親との不和や差別や偏見で心を損なわれた経験をもつ人がどう生きたのか、という記録でもあると感じられた。
現存するカリーのパフォーマンスの映像と映画のために再録されたという音楽との調和は鳥肌が立つほど美しかった。この美しさを生み出したのは強く高潔なだけの人物でなく、刹那的な享楽も求めてしまう人物であったというストーリー、それ自体は平凡なものだ。しかしそのパフォーマンスのもつエロス、同時にある清らかさと静謐さ見れば、それらまたカリーの中に混在した一面であったことは明らかであり、人間とはなんと複雑で得体がしれぬもので、同時に美しいものを内に秘めているのかと、安堵と悲しみの入り混じったような気持ちになる。
現役のプロスケーターであるジョニー・ウィアーが映画の冒頭と最後に登場する。彼も性的マイノリティーのフィギュアスケーターだ。ジョニーはありのままでいられる僕をカリーが作った、と語る。なぜか。
表向きにカリーの功績はフィギュアの芸術性を革命的に高めたことだ。しかしカリーは意図しなかったことであろうと思うが、彼が自分の信じる美を表現することを恐れなかったことで、彼に自分を重ねることのできる境遇や感性をもった人々が、彼のように自らをありのままに表現し生きることができるのだと希望をもてた。また、社会がそれを受け入れる素地を作った。
カリーの性的指向や生き方を理解できないと思う人もあっただろうし、今もあるだろう。しかし、それを受け入れることはできなくても、彼のパフォーマンスを美しいと思うことができる。それは、偏見を消すことはできないまでも、理解不能だと思う人の中に自分と同じ喜びと悲しみがあることを、芸術を通じ、リアリテイを持って知らせることだ。それもジョン・カリーがあとの世代に継いだ大きな功績だったのだと思う。
カリーが自分に死期が迫っていることを知ってから作った作品が、明るく人生を肯定するテーマであったことは幸いだ。あれはとても心にせまる美しさだった。暗い闇を経験してもそれでも最後に人間賛歌を送り出した。あれはカリーによる、芸術はなんのために存在するのかというテーマの最終回答だったのだろう。