チワワちゃんのレビュー・感想・評価
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刹那的で、鋭く激しく痛々しい
チワワちゃんの空虚感を埋めようとする振る舞いが眩しく痛々しい。料理を振る舞うシーンの会話から、彼女のキャラが家庭の事情に由来することを窺わせる。
吉田が哀れ過ぎる。身勝手なセッ◯ス、挙げ句の果てにはレイプ。女性をトロフィーか何かだと思っている様に見える。チワワちゃんがモデルとして活躍し始めたことは、彼のプライドを傷つける出来事だったのだろう。「就活ぐらいみんなするだろ」というセリフから、何者にもなれなかったと思い込んでいるコンプレックスを感じる。
原田とチワワちゃんがセ◯クスしまくってるシーンのモンタージュが印象に残る。激しく痛々しい生き方をする若者的要素がリズムよく詰め込まれてる。ジャンクフードを食べ、サッ◯スをし、シャワー浴びて用を足し、疲れたら寝る。起きたらまたセ◯クス。
視点人物のミキは間違いなくチワワちゃんに憧れ、嫉妬を感じていた。それを否定するプライドの高さが、この映画に出てくる若者的な感じがする。みんなで楽しい時間を作り出し、楽しい自分を演じる。ひどく消耗の激しい生き方に見える。ミュージックビデオ的な気取ったオシャレな編集が、そのまま彼女らの生き方にリンクする。
浅野忠信演じる挑発的で鼻につくカメラマンが良かった。目つきが怖いし、いかにも仕事の現場では周りから評価されてそうで、年上好きの若い女性にモテそう。
現実でこういうグループができる時って、永井くんみたいな子は本当にいるんだろうか?ナード的な彼は若干浮いていた気がする。「みんなの楽しい時間」の記録係だ。チワワちゃんに惚れていたから居たんだろうけど。
ミキがチワワちゃんについて聞いて回ってることを奇異な目で見る人物たちが出す、居心地の悪さよ。「何それ。何でそんな意味わかんないことやってんの?」とでも言いたげな。これに限らず、こういうグループには特有の居心地の悪さがある。映画で久々に体験できて良かった。
私たちは何を追悼したのか?
全然チワワちゃんが好きになれない ほんとに 何の魅力も感じない
低身長で 男友達が多くて 底抜けに頭が悪くて
個人的には 玉城ティナがチワワちゃんをやってくれたほうがどれだけよかったことか と思う
でも当たり前だけど チワワちゃんだってなりたくてそうなったわけじゃない
何気なくSNSを始めたのに いつの間にかトレンドの祭壇に供物として捧げられて 無数の人々に 見られ 犯され 褒められ 貶され ボロボロになるまで消費し尽くされ
そして死んだ
チワワちゃんは他の登場人物たちのありうべき幻影だったんじゃないか と私は思う
誰も彼もがチワワちゃんになっていたかもしれない という
別に才能なんかなくたって カリスマなんかなくたって大して問題じゃない ただちょっとだけプライドを捨ててしまえばそれでいい 自分が救いようのないバカであることを開き直れてしまえばそれでいい
どうせ内面など誰も見てないし 誰にも見えない それがSNSという時代なのだし
だから チワワちゃんは死んでしまったけれど その理由は誰にもわからない し わかれない
語り手のミキは 同じく"趣味の一環"で被写体を始めたチワワちゃんが 自分を押しのけみるみる頭角を現していくのを 困惑と嫉妬の入り混じった表情で回想した
ミキはどうしてチワワちゃんになれなかったのかといえば ミキにはプライドがあるから
ミキは殺害されたチワワちゃんの情報を集めるべく 彼女の元彼のヨシダと会う ヨシダはミキを犯そうとするけど ミキはそれを拒絶する
キスされ 触られ 脱がされはしても 最後の一線だけは絶対に譲らない ミキがチワワちゃんになれなかった理由はここにある
湾岸でのチワワちゃんの追悼式は もちろんチワワちゃんを追悼するためのものなんだけど それは登場人物たちによる青春の葬送だともいえる
俺/私たちは 色んなことをした キスをした セックスをした 恋をした 意味もなく 理由もなく でもそういう生き方を プライドのない生き方を 10年20年先も続けられるかといえば たぶんそれは無理 どこかで踏ん切りをつける必要があった
そのときチワワちゃんが死んだ 自分たちの生き方のある種の象徴が生を絶たれた
登場人物は東京湾に向かって花束を投げる そしてそれを眺めながら涙を流す 悲嘆に暮れる
誰もがチワワちゃんと深い親交があったわけじゃない 彼女と殴り合いの喧嘩をした子だっていた
それでも誰もが涙を流したり悲嘆に暮れたりできたのは やっぱりそれが自分自身の青春の葬送でもあるからなんじゃないかと思う
ちなみに追悼式にヨシダは参加していない 彼には今の自分を葬送できるだけの勇気もプライドもない
たぶん彼はこれから先もずっと今と同じような生き方をしていくんだろう 道行く女に「お前だけなんか違う」と声をかけ 我が物にし 飽きたら次に乗り換える
ヨシダはチワワちゃん唯一の美点ともいえる他者への優しささえ欠如している たぶん彼女よりひどい末路を辿ることになるんじゃないかと思う てかなれ
じっさい本編の中じゃ彼には死より重い制裁が待ち受けていた それは無視だ カメラによる徹底的な無視 ミキへのレイプ未遂シーン以降 彼は一度もカメラに映らない もちろんセリフもない
他者を引き受けられない者に何事も語る資格はない
概してステキ~な映画だったけど 劇中の言葉遣いにブレが大きいのがちょっと嫌だった
現代の若者っぽい喋り方と 原作の岡崎京子的なセリフ回しが噛み合ってないというか 浮遊してるというか よしんば若者たちの軽薄さを強調するためのトリックだとしても 不快感が勝っちゃってうまく腑に落ちなかった
若者の持つ毒
登場人物たちの軽薄さに憧れた。
一人一人みんなしてペラペラに見える。
自分の歳と大して変わらない彼女たちは別の生き物のように思えた。
出会いはナンパでぇ〜とかノリで泊めた女の子とセックスしまくる毎日〜とか、テキーライッキして走り出しちゃう感じ〜とか。
できない、なれない。でもなんかいいな空っぽでも楽しそうでさ。私はまともだと思っていたけど実は逆なのかもとさえ思わされる。若いってこういうことなんだろうって。
でもあんなにはしゃいで色んなモノを共有して一緒に生きていた友達や恋人も今どこで、あの時からなにをして、なにを見て、なにを感じて生きていたか分からなくなる日が来る。楽しいだけの時は一瞬で終わる。
いずれ馴染みの場所にも集まらなくなり、あのクラブも無くなる。大金に思えた600万もあっという間に無くなった。場所も、時間も、人間関係も
みんな自分の見ていたチワワちゃんの姿しか知らない。
自分の知らないチワワちゃんを知ろうとしても叶わない。
どんな言葉で書こうがまともなフリをしている大人たちから見たらチワワちゃんは空っぽの若者でしかない。
チワワちゃんがバラバラになったことも世間はすぐ忘れる。
テレビで流れるテロやデモも「やばいよね」くらいにしか思えない。
それでも彼女たちにとってはどこかの国で死んでいく何万人のことよりチワワちゃんのことの方が悲しい。そう思えることがある意味正常で擦れてなくて美しい感情とさえ思えた。
大人から見たら毒に見えるかもしれないが若者にとってはコレが生きるってことなんだ。チワワちゃんは生きてたんだ。強引に締めくくるとそんな感じ〜
夏に見たら走り出したくなっていたかもな。
昔あんなに仲の良かった、馬鹿ばっかりやって一生友達〜とか言いあったあの子たちには、やっぱり連絡しないでおこう……
やっぱ、そんなカッコつけるのか
すごく寂しい映画、元気が目減りするよな...
登場人物がことごとく浮遊、感受性を麻痺させてて、それは自己防衛なのでしょうが、愛が無い。でもみんな愛をもらいたくって、くれる人を探してる。それを素直に言えるのはチワワちゃんだけなのですが。みんな「友達未満、知り合い以上」、こんな付き合いは心を病みそうだ。チワワちゃんをどこか羨んで妬ましく思ったり、蔑んで呆れたり見下したり。なのに不安定かつ器用に、そんな関係を乗りこなす。イマドキの承認欲求病に登場人物「ほぼ」全員が罹患しているかのような。ですが、映画撮ろうとしてたナガイクン、プールでチワワちゃんをあやしてくれてたユミチャンは、違いました。現実世界でもナガイクン、ユミチャンが、全人口の何%かはいることを信じて、どうにか生きていこうと思いましたよ。
でないと、悲しすぎます。
少しはマシな世の中にしていくのは、誰か人がしてくれるわけじゃないものね。
麦さん演じるミキちゃんが「チワワちゃん、何がしたかったんだろ」って。おいおい、それ訊くなら、まず自分に言わないとね。って思ってたら、凌さん演じるヨシダくんもそう思ったんでしょうか、まあ最低のやり方で彼女にそれを示してましたね。と次の瞬間、ヨシダくんも「オレ何がしたかったんだろ」的状態。もはや無限連鎖...
どいつもこいつもいのちの実感がない。浮遊しつつ、踏みつけて、粗末にしまくって。でも、関わってはいない。
もうわかったわかった、みんな傷つきやすいからだよね、どうしたらいいかよくわかんないからだよね、でもさ、そんなんしちゃったら、いのちって、壊れちゃうよ!脆くて、壊れやすい、みな同じなんだから。
監督様、酷い現実を描くだけなら、現実の方がリアル。だから映画は、そのリアルの酷さを生き抜くくらいの、いのちの実感と元気を取り戻せる心の栄養であって欲しい!
でないと、高いお金と労力をかけて作る意味がないのでは?「生きる屍」は、歳の行った人でなく、いまやここに出てくるぴちぴちの若者がそうなのか?アンチテーゼかもしれない、でも監督様、救いがなくて、私には辛すぎました。
原作を読んでみます。でも次回は、生きる屍のような若者に、いのちの温度を宿してくれるような、そんな作品期待してます。
さようなら、チワワちゃん… そして、ありがとう!
故人の残影を追った巡礼の物語。
わたしは、以前お世話になったヒトが
よく足を運んだと生前におっしゃっていたお店や
お気に入りだったという場所を巡って
歩き渡ったことがありました。
巡っていくにつれ、故人への愛情や感謝の念が
より強くなっていくのを感じましたし
いっそう身近に思い、そして再度
涙したりもしました…
さて、本作『チワワちゃん』は
《千脇 “チワワちゃん” 良子》と接点のあった
知人の述懐を、ひとつ、ひとつ、〈数珠繋ぎ〉していく
【対話による巡礼】のお話でした。
自分がまだ、
「何者であるか?何者になろうとしているのか?」
判らない若者たち…
「時間はあるが、やりたいことは見つからない…」
でも体力だけは有り余っているもんだから夜毎
その鬱屈した思いを込めて力いっぱい
バカ騒ぎを繰り返してしまう…
門脇 麦さん演じるミキはそんな最中に
身を置きながらも、俯瞰してどこか冷めた様子で
眺めていました。そうしてストーリーテイラーであり
インタビュアーでもある“ミキ”の視点で物語が進みます。
この作品は、そんな若者たちのエモーショナル表現を
近年よく言い回わされる【プロモーションビデオみたい】な
奇抜でケレン味のある映像で
(そこがこの作品の評価が分かれるポイントかな?)
終始、飽きさせない構成でなされていますが
急にストンと静寂が訪れる…
そのメリハリが、わたしには心地良く
観賞に浸れました。
「結局犯人、分かる思たら分からへんのかーいっ!」
とモヤっとされた鑑賞者もいると思いますが
本作の主題はそこではありません。
劇中の冒頭と末尾での印象的な【モノローグ】。。。
その【モノローグ】がすでに主題を述べている訳で
あとはそれをなぞっていくだけの
実に、潔いよい作りでした。
それは何よりルック(画作り)に
自信があったからなのでしょう。
それで副題と言いますか
この作品にメッセージを見出すならば
《バラバラ殺人事件》
《シンガポール爆破事件》が象徴するような…
テロや内戦、自然災害から殺人に至るまで
昨今起こる様々な出来事…
それをわたしたちは、どこか遠い場所で起こる
よもや 《 自分たちには関係ない事 》 と冷めた
視点で傍観者になってしまってはいないだろうか?
若者が集まって騒いでいるダンスシーンは
【現実のなかの非現実】である象徴の現われであり
「現実で起こっている問題は、
地続きで自分たちにも繋がっているんだぞッ!」
「いつまでも無関係でいられる訳じゃぁないんだよッ!」
という警鐘の音が…
わたしには聞こえたような気がしました。
成田 凌さん、最ッ低!そして最ッ高!
村上虹郎さん、今回わたし一番注目して観てた!
劇中でかぶってた帽子が欲しい!(似たの買いました♪)
浅野忠信さんの存在感たるや!
いっぺんに空気が変わった!
しかも作品におけるキラーワードを口にしてました。
門脇 麦さん、前主演作『止め俺』の役柄と同じく、
繊細な表現で、揺れ動く女性の心情を見事に
演じていました。タバコ吸う所作、前から好きよ!
そしてなにより吉田志織さん!
チワワちゃんさながら天真爛漫な彼女の今後に期待!
評価が別れそうな作品は、星☆を多めに献上しがち…
それはわたしの自意識 ≒ 美意識がそうさせるのですが、
今回は、元より原作者《岡崎京子センセイ》信者であり
(麦さん、センセイに似てる!?)
そして同じくお慕いしている
「性と暴力そして革命」のスローガンを掲げた
《故・若松孝二 監督》に畏敬の念を捧げると共に
そしてなにより、この両雄を、わたしの中で融合し
結びつけてくれた門脇 麦さん、二宮 監督に
感謝の意を込めまして…
よって、“ R指定 ”も必要悪の範囲内!
文句無し!新年早々わたしの中でのベスト級!
星☆5つを捧げます!!
いろんなサブカル作品を自分の中で関連付け
〈数珠繋ぎ〉していく作業は楽しいものです!
そして【新コーナー】
チワワちゃん名言プレイバック!!
「男同士は価値観を共有する。
男と女は距離感を共有する」
「女同士は気を使って疲れる。
男といるのは楽だけど何かを消耗する」
チワワちゃんの主役の子よかった。 こんな女がフラッと現れた日には女...
チワワちゃんの主役の子よかった。
こんな女がフラッと現れた日には女子として絶対に敵わないなと思う。
天然でかわいい女を嫌味なく上手に演じられてた。
天然、明るい、かわいい、みんなに好かれて常に注目あびてて巨乳で料理上手なのになのになのに彼氏に浮気されて。。
あの年頃の男子ってみんな獣だから、そういう性なだけってもう少し大人になったらすんなり理解できるのだけど。
あの年頃の女子もまた浮気されてまるで世界の終わりみたいな気持ちになるのよね必要以上に傷ついたりして。。わかるわ。若いわ。
残酷さこそ若さよね。。
そして成田凌がまたもやクズ演じて自分の中では俳優としての好感度あがりまくりです。
今回も素晴らしきクズシーンありがとうございます。
いやぁ素晴らしかった。
いやがる麦ちゃん無理やり襲ったあげくダメダメグダグタかっこわるい情けないエロシーンってなんの誰の得にもならん。
麦ちゃんも何割減でだいぶブスに映ってるし、また成田も然り。
こういうのを敢えて入れてくるこの監督と麦ちゃんと成田に私はスーを差し上げたいと思います。
オッサレーに仕上げてなんぼの現代においてこんなリアルなかなか描かれないよ。
でも現実ってほんとはこんなもんだよね。
本気で素晴らしい❗️こういうのがみたいんだよね。
若者が身近な人の死をどう理解し、乗り越えるかについての話
演劇オタクなので成河さん(バーテンダーのゲイお兄さんシマ役)目当てで観に行った。私は知ってるんだ、若者の生死の対比を描いた青春映画は大体良作だって…
・チワワちゃんにおいて誰があの子を殺したか?何故彼女は死んだのか?は重要ではない。整合性ある脚本を求める人はそこが気になるかもしれないけど、そこに意味はない。だってきっと、「彼女は実はこんな素顔が…のっぴきならない理由が…」みたいな立派な理由はない。なにも社会派で重厚な筋が通った映画だけが素晴らしいわけではない。(普段はそういうのが好きだけど)
・若者のあまりに危うい青春、刹那的な衝動、生の隣にある死を描いた作品としては「ロミオとジュリエット(原作)」「夜空はいつでも最高密度の青色だ」「香港製造」あたりの青春物語に近い味わいだった。あまり映画見らんから詳しくないけど。
・この映画は、若者が身近な人の死をどう理解し、乗り越えるかについての話。飢えや病気、戦争なんかに生命を脅かされる可能性が最も少ないであろう現代になっても、変わらず「死」は唐突に身近に現れる。日常の延長線上にある死。
特に若者は肉体的には死に最も遠い存在。彼らが他人の死に出会う瞬間があるとすれば、テレビの中。殺人事件や災害、テロ事件等が遠い世界の出来事のように報じられる。(爆破テロの映像がテレビで流れてたよね)
・でも若者だって死について考える。考えざるをえない。チワワちゃんが死んで彼女に関わった人たちは、きっと大なり小なりモヤモヤした感情を覚えただろう。この気持ちをどうしたらいいのか持て余していただろう。彼女の死とその複雑な感情に向き合うために、チワワちゃんとの思い出を語るという行為が、きっと彼ら彼女らには必要だったんだ。その思い出は美しいものばかりではないけど、彼女は確かに生きていた。そして今はいない。
それを確認するための物語だから、「彼女の真実は…」みたいなカタルシスはこの作品に必要ない。事実は存在せず、解釈だけが存在する。
・だからこそ、ラストで海に花束を投げるシーンが泣ける。冒頭の近親者の葬式(千脇良子用)とは異なる、残された友人たちなりの“チワワちゃん”の葬式であり送別。「またみんなに会いたいな」と言っていた彼女のための。
これも若者たちがチワワちゃんの死を乗り越え、明日を生きるために必要なことだったんだ。皆、青春そのものであるチワワちゃんを内包・同化しながら、大人になっていく。過去には戻れないけど、きっと彼ら彼女らの側を、あの日の、財布を盗んだチワワちゃんが全速力で駆け抜けていく。(一緒に並走しているイメージ。)泣くしかない。
(海に花束を投げるという儀式は、津波被災地の遺族も行ってるよね。あと、身近な人の死を理解するという文脈では、「永い言い訳」「若おかみは小学生!」「風の電話~残された人々の声~」とかを思い出した。)
・チワワという少女は青春・自由・死・東京の象徴なんだ....と思ったけど、この考え方は彼女を実態ある人間扱いしてないね。うだつの上がらないミキの憧れや嫉妬心はよく分かるんだけど、チワワの価値観が自分とあまりに違いすぎて、彼女を自分と同じ人間と思ってないみたいなとこある。
・チワワちゃん、激しく移り変わる若者文化の、2018年時点の結晶の保存って感じ。ファッションもメイクも音楽も話し方も、他人との距離感や死生観、空気感も含めて。きっと100年後にはファッション史、コミュニケーション言語学等において貴重な資料になっていることでしょう。と博物館課程出身者は思った。あの生々しい空気感や会話は、ある種の小劇場の雰囲気に似てる。たまらん。
・この映画で描かれるのは理想的な恋愛ではない。健気に愛し合う恋人たちもいない。皆、不完全な生身の少年少女たちだから。ふとしたきっかけで繋がったりちょっとしたことで離れたりという緩やかな連帯。そのリアルな距離感がいいなあ。私はあんな青春は送ってないので、半分ファンタジーとして見ていたけど、同行したパリピ先輩によると「クラブの雰囲気や、ああいう人間関係はあるあるやで」とのこと。
・千脇良子ではなく「チワワちゃん」というアイコンありきの人間関係。本当の自分とは違う「幸せで充実している魅力的な自分」の仮面。だから本当のチワワちゃんは誰も知らない。パリピではない自分もそれは同じだし、Twitterには付き合いは長いけど本名すらあやふやな友達は沢山いる。SNS世代の人格形成。
・チワワちゃんは時代のアイコンでもあるよね。若い女の子がここまで自由に、誰にも指図されること無く好きなように生きている。今までの抑圧された女性像ではなく、ああいう風に振る舞う女の子はきっとこの時代では普通にいるはず。そういう意味で「チワワちゃん」は、自立した格好いい女性ではないが、まごうとなき現代の女の子。
・チワワがAVに出ていたこと、乱交パーティをしていたことも否定的に描かなかったのがすごく好感度高かった。「不純だ」と眉をひそめる大人もいるかもしれないけど、チワワは立派な20歳の女性なのだから、彼女が自分の身体をどう使うかは彼女の自由。
・関係ないけど、映画見終わって外に出たら、雨の中に街のネオンが輝き、濡れた道路にその光が乱反射していて、隣には綺麗な女先輩がいて、映画と地続きの世界にいるようで、ウワーーーッ東京!20代の思い出!!青春!!!エモ!!!!という謎興奮に包まれたのでチワワちゃんはシャブ。
・【成河さん】
チワワちゃんにはふたりの大人が出てくる。片方が悪い大人(カメラマン)、もう片方が良い大人(シマくん)。成河シマさんは主役のティーンズ達を付かず離れず見守るポジション。これから大人になり社会へ出て行く若者たちを食いつぶす大人もいれば、見守り支えてくれる大人もいる。社会の良い側面の象徴。
麦ちゃん目当てではあるのだけれど……
吉田志織があれだけの汚れ役を見事に演じて主役でないのはちょっと気の毒。麦ちゃんは、はっちゃけるキャラクターには見えないし、一人チワワの足取りを調べている、情が残った昭和的なひと。退廃的な若者になるにはちょっと設定に無理が。まあ、自宅生だったり、大学生の集まりとしては現実感がないのは映画だから大目に見るけど。
その点、成田凌はロクデナシの男にピッタリだった。最後にチワワのことをなんと麦ちゃんに言ったのか、大事なセリフを聞き落として大失敗した。あの男、男の友達がいることが不思議。
「青春の自爆テロ」いい言葉だと思った。でも、シンガポールのテロのニュースの件、必要だろうか?
「みんな偲んだ?」ありえないセリフ。
「クマ」なんで急に話に出てきたんだろう。
ともかく、若さはじけて、かわいい女子のビキニ姿が舞って、さぞかしたのしい撮影現場だったことでしょう。
世界は今日から君のも、みたいにハッピーになる麦ちゃんの映画できないかな?あんなにエキセントリックな役でなくて等身大の麦ちゃんで。
しつこいけど、日本映画、煙草吸いすぎ。
Television Romance
スマホやテレビや雑誌やポスターに沢山溢れている、可愛くて華やかでキラキラして見える女の子たちの中のとある一人のほんの一面。
自分とはジャンルが違いすぎて何考えているのか、何を求めているのか、何がそんなに楽しいのか、全然分からない。
ただ男に寄って意味もなくゲラゲラ笑うチワワちゃんに若干引きつつ、猛烈に羨ましくて妬ましかった。
すごく空っぽに見えても必ず中身はあるもので、満たされたり傷ついたりしてなぜかこうなってしまったんだろうなとボンヤリ思う。
結局彼女に何が起こったのか全然分からないのがもどかしいんだけど。気になって仕方ないな。
ラストシーンの全力疾走はチワワちゃんのイメージに合っていて好き。
人と人の関係って案外希薄なもので、彼女がどんな人間だったのか話を繋ぎ合わせても謎が謎を呼んでピンと来ない。
ただ色々な人の話を聞いているだけで「イマドキの軽薄な若者」だったチワワちゃんの意外な面が知れたり、逆に彼女と関わった人の新たな面も見えたりするのが面白い。
どれだけ人と繋がってもたまに空虚な気持ちになるのはチワワちゃんだけじゃなく誰にも当てはまることなのでは。
カツオだのキキだのとずっとニックネームで呼ばれて何かのアイコンのように動いていた登場人物たち、最後に本名と出身地とエピソードを語るムービー撮影のシーンが非常に良かった。
一人の人間としてようやく姿を見せてくれたような気がして少し心が軽くなり、なぜか泣いてしまった。
もし自分が死んだら友達や知り合いの中で誰がどう私のことを話すのか、もし友達が死んだらその人のことを私はどう話すのかなんて考えてみたり。
想像もつかないけどそれまでに少しだけ破天荒なことをしてみたい気もするな。
「お前だけなんか違う」なんて喧騒の中言われたら100%惚れてしまうわそんなの。
ガンガン鳴り響く音楽にネオンにダンス、フィルム映像にアダムとイブ、サイケデリックでハイな演出がとても好き。
体感として最高に楽しくストーリーとして最高に虚しい映画だった。
薄いといえば薄いし、これが若者のリアルと言われても困ってしまうけどなかなか楽しかった。
役者の芝居はいいんだかどなー
全然有名じゃない地下アイドルが
事件を起こしただけで、ニュースになる
今のマスコミなのに、
看板広告まで出てるインフルエンサーが
バラバラ殺人事件になって
あんな地味なニュースのワケないだろって
ところから「んんー??」ってなった。
結局、麦ちゃん以外、
誰もチワワちゃんの事、どうでも良かったって
話なのに(ラストの花束すら、小さい花じゃねーし)
変に感情入れたり、どっちなんかなー?
ってまま、終わりました。
役者の芝居はいいんだけどなー!
インスタ映え
まるで他人のインスタグラムを長時間見せつけられたような画面の連続。
若いエネルギーと感情が入り乱れたバカ騒ぎが終始流れていく。
インスタの画面は華やかだけど、そこには映っていない本当の真実が明かされていくような感じ。
今の自分をSNSで他人にアピールしても新鮮で楽しい期間はほんの一瞬でしかなく
あっという間に忘れられ記憶にも残らない。
人の記憶も感情も時間の経過とともにどんどん変化していく。
結局ヨシダにとってのチワワもその程度の存在だったんだ。
この映画もそんな感じがする。
それにしても成田凌のあのシーンはよくもあそこまで醜態をさらけ出せるなと感心しつつ、
同じ男としてあんな状況は経験したことはないけれど、情けないというか惨めというか最悪というか。
こんなシーン観たくはないのだけれど正直スクリーンから目を離すことができなかった。
全体を通してこのシーンだけが一番人間臭い。これがこの映画の答えなのか。
門脇麦のあの表情といいこの二人の演技力に感心してしまいました。
また浅野忠信と松本穂香のシーンはこの映画の雰囲気と流れからしてかなり違和感があった。
無くても良かったような。でもこの二人のシーンがなかったらこの作品自体の印象が
かなり物足りないものになっている、ような気もしました。
どうしても同じ岡崎京子原作映画と比較してしまう…
同じ岡崎京子原作の実写映画、「ヘルタースケルター」「リバーズ・エッジ」が面白い映画だったので、比べてしまうと申し訳ないですが物足りなさ感が半端ない…。
この映画も、蜷川実花や行定勲監督が撮ってたら…と考えてしまいました。
門脇麦と成田凌と村上虹郎見たさに観に行きました。キャストの演技は良かった。女の子の顔面偏差値もやたら高い。
映像は、東佳苗や大森靖子、ミスiD、あと中島哲也や蜷川実花の世界観を真似てる感じがしてしまい、MVぽいシーンを映画内に入れるのが好きな監督はたまにいますが、新鮮味が無い感じがしてしまった…。全体的にはクラブ・水着女子・ちょっとエロいシーン・六本木感がぐるぐるしている感じでした。
心が空っぽ
恐らくほとんどの人が生きていく上で、心の奥底に感じていたものを人差し指でつつかれたような感覚。
付き合いの長さや体の関係、恋人同士とか関係なく、相手の本質なんて一生分からないし、常に変化していくもの。
だからこそ、本質なんて知ろうともしないし、無くなってしまっても何事も無かったかのように世界は回り続ける。
それが当たり前で、尊重されるべき世界なのかもしれないけど、チワワは本質を知りたくて、ずっともがいていたのかと思う。
そんなチワワの、失われて初めて不変になった本質を、断片的にかき集める話だと思った。
失われて初めて知ることができる本質は、ほとんどが価値をなくしてしまうし、いくらでもラクガキできる。だからこそ、本質が価値を持つうちに、誰かを知りたいし自分を知ってほしい。
大なり小なり、死ぬまでその葛藤を繰り返して生きていくのかなと感じさせられた。
タイプじゃなかった
バラバラ殺人にあったチワワちゃんということだけしか知らなかったので、グロとか怖いのを期待して見にきたら、全然そういうのじゃなかった。青春時代の感覚や人間関係も自分とはかけ離れていて、共感するところはほとんどなかった。ちょっとしたことで疎遠になる関係性は共感するポイントだったけど、映画全体を面白く感じることはなかった。
単に好みとは違った、というだけです。
役者、特に門脇麦の演技力は目を見張った。
90→10年代になっても。
「若さはいつも素っ裸、見苦しいほどひとりぼっち」
昔、このように歌うミュージシャンがいましたが、まさにこんな感情を少し思い出させてくれた気がします。
原作は90年代後半。約四半世紀後の10年代にそれを表現するにあたって、SNSの要素を盛り込んでも大きく内容が変わることがなかったことから、今も昔も若者たちの本質は変わらないんだなぁ、と改めて思いました。
時代と媒体が変わっても、若者たちが求めているものは一緒なんだ、と。
全体通して画や音楽の力が強くて内容や言葉が入ってきづらいのも事実です。内容もあってないようなものなんです。でも、これらも含めて"若者"というものを表現したかったのかな、と思うと合点がいきました。
画や音楽のパワープレイ的なとこがあるので、好き嫌いはっきり分かれると思いますが、観終わっていろいろ思い返すと自分にもそんな節があったなぁ、なんて思い出したりすると不思議な気持ちに包まれてきてまた見返したくなる。そんな後味の面白い作品だと思います。
(´- `).oO(画といえば、作中の携帯のディスプレイの表現の仕方がなかなか新鮮でさすが20代の若い監督だなぁと思いました。冒頭とエンドロールにも凝ってるので並々ならぬ画へのこだわりを感じました。今後が楽しみです。)
『私達の青春の自爆テロ』
観ていて何かに似ているとずーっと感じていたが、何のことはない以前上映の『リミット・オブ・スリーピング ビューティ』を撮った監督である。そりゃあの映像効果や編集そのままで、或る意味“ルック”が同じな訳である。原作が岡崎京子ということで益々親和性が強くなったと思う。
で、評価はというと、何一つも響いてこない、本当に空虚な作品である。多分、それを狙っているのだろうし、そもそも原作者自体の冷静でシニカルな目線での馬鹿騒ぎを俯瞰で観る世界を語る話なのだろうから当然なのかもしれない。原作未読なので映画との相違は不明だが、やはり同じ原作者でも『リバーズエッジ』の方が断然深みが感じられる。
“新しく仲間になった華がある女の子を寄ってたかって食い物にする”といっては語弊があるし、本人自身の性格も影響があるから被害者でもない。嫉妬、羨望、裏切り等々、まぁ若い頃というか人間として生きていれば、しかもあれだけの親密なサークルがあるならば、それだけその負の側面も大きいだろうと容易に想像につく関係性である。勿論、平成8年から平成31年に時代を変えているのだからああいう“パーリーピーポー”、“リア充”なんてものを過剰に演出させて、水着で騒ぐ映像は華やかさ、馬鹿馬鹿しさ、若者ならではの堕落さが、スタイリッシュな映像効果で見せるのは今風だ。で、結局それ以上の観客への訴求がなんなのかが汲み取れない。それは、門脇麦を以てしてもかなり過酷だ。
では、テーマはなんなのか?軽い青春の懺悔なのか、それとも、今後事務所が売り出したい新進気鋭の俳優達の顔見世興行なのか、それは誰にも分らない、空を掴む話なのである。
いずれにせよ、水着なんていうサービスは地上波でも出来るのだから、片っ端から出演者は“脱げ!!”と訴えたい。スクリーンに叫びたいのはそれだけである。
追伸:映像演出で、スマホが掛かってきた時やラインがあったときに、人物の横に寄り添うにように同じ大きさで画面が現われ、階段を下る際も人間と同じような動きで降りていくというシーンは、今後のドラマでの演出として非常に斬新さを感じ、多分これが一番リアリティを感じられて、尚且つスマホ画面も鮮明に見える方法であると感心したことを付け加えておく。
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