教誨師のレビュー・感想・評価
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惜しい俳優が亡くなったもんだ
内容も素晴らしいし言うことないよ。
2019/05/29追記
相模原連続殺傷事件の犯人らしき若者が表現されていてそこでの討論が印象的でした。
漣さんの表情が頭から離れない
漣さんの最後の主演作という情報だけで観ました。
教誨師になってまだ半年という設定。
6人の死刑囚と向き合い、話に耳を傾け、心を安らげるはずが。
教誨師より死刑囚方が何枚も上手で。
その発言に喜怒哀楽する表情が、さすが「300の顔を持つ男」の漣さんです。
8割以上が面会室を舞台にしているのも興味深い。
限られた空間や時間の中で、話が進んでいくので。
教誨師と死刑囚の会話で、どんな罪を犯したのかなどを想像していくだけなのが、シンプル。
6人の死刑囚役の俳優さんたちが、実に個性的で渋い。
音楽もほとんどない。そういうのは最近少ないかも。
神の御心をもってして、人間は変われるのだろうか。
いやきっと変わることはできなくても、安らかな心を保てるよう。
一生懸命接しているのが、何とも複雑な気持ち。
ラストも「??!!」でびっくり。
いろんな場面での漣さんの表情が、頭から離れない作品でした。
最後の対話
死後に公開された大杉漣最後の主演作。
全編ほとんど密室での会話劇。
派手な展開は皆無で、地味で淡々とした小品。
大杉漣が企画を気に入り、プロデュースまで兼ねてくれなければ、完成はもっと困難だっただろう。
しかし大杉漣の名演としっかりとした内容で、上質の人間ドラマとなっている。
死刑囚と対話し、彼らの心に寄り添い、救済と改心へと導く牧師、“教誨師”。
教誨師である佐伯は、拘置所にある“教誨室”にて、月に2度、6人の死刑囚と対話する。
6人の死刑囚は性格も性別も年齢も何もかもそれぞれ。
心を開かない無口な男。
気前のいいヤクザ。
お喋りな関西中年女。
老ホームレス。
家族思いの父親。
自己中心的な若者。
各々癖があり、対話する側も大変。
無口な男と父親は静か過ぎて対話がなかなか進まない。
ヤクザは逆に馴れ馴れしい。
関西女もそのタイプかと思いきや、突然情緒不安定に。
最も面倒なのは、自己チュー若者。博識ある事を盾にして、世の中全てを見下すような物言い。
見てると、本当に死刑囚なのか?…と思えてくる人物も。
全く反省の色ナシの自己チュー若者は例外として、家族思いの父親もさることながら、老ホームレス。
子供のような性格で、読み書き出来ず、佐伯に読み書きを習う。キリスト教信者へなりたいと申し出る。
彼らがどんな人間で、どんな罪を犯したのか、回想形式で語られたりはしない。
その必要は無いからだ。
見る側も佐伯と一緒になり、彼らがどんな人間でどんな罪を犯したのかより、今の彼らと向き合う。
その対話を通して、彼ら一人一人の人間性や背景、内面を浮かび上がらせる。
それどころか、本心まで考察させられる。
普段はどんと構えていたり、卑屈なのに、いざとなると、やはりそうであった。
次は自分の番じゃないかと恐怖し、遂にある一人の死刑が執行される事になり、これまでの強気な性格が嘘かのように激しく動揺する。
そこに、ザマアミロ、という感情は無い。初めて、本当は弱く脆い内面を見た。
その一方…。
まともに思えたある人物の本心。
罪を悔いてるように見えて、実は自分が罰せられる事に疑問を呈している。
一筋縄ではいかない人間各々の姿。玉置玲央、烏丸せつこ、五頭岳夫、小川登、古舘寛治、光石研、個性的な彼らの賜物。
対話する事で相手の心を開く事が出来たと思えた。
が、対話だけでは全てを分かりかねない。
では、何故対話を…?
対話を通して人を救済する事が出来るのか…?
それはただの自己満足なのか…?
佐伯にはある過去が。
ズバリ言うと、罪を背負っている。
自分が犯した訳ではないが、自分のせいで…。
そしてその時、大事な人を救えなかった。
人を救うなんて口では容易く言えるが、実際は難しい。
罪滅ぼしなんかでもない。
もし、人が人を必要としている時、対話を通じ、傍に居て、寄り添ってやる事が出来れば…。
相手を救うなんて大層な事は言わない。
微力ながら、せめてもの何らかの、助けになる事が出来るかもしれない。
映画を観るという事は、その作品や携わった人々、登場人物や演者と対話していると言っても過言ではない。
最後の主演作でこんなにも、大杉漣さんと対話出来た事を光栄に思う。
健康相談員は見習ってね
受刑者に道徳心の育成や心の救済に努める職業:教誨師。6人の受刑者に接する教誨師のお話。
殆ど留置所内での2人の会話。
会話の内容に面白味を感じなければ、つまらなさ爆発だろう。
私にもちょっと荷が重過ぎました。
理由は、
私、神様を信じていない。
私、相談を主とする職業人が大嫌い。だから。
神様や死刑などの件は書きません。それは人間が考えた事だから。
相談員が嫌いな理由として、最近特に健康の事がうるさくなった世の中なので、健康相談員と言う人間がやたら存在する。
健康相談員も嫌い。その理由は最終的に行き着く先が決まっているから。
肝臓悪ければ、酒辞めなさい。
太っていれば、運動しなさい。
タバコ吸っているなら健康害するので辞めなさい。
決まり文句が決まってるし、早く決まり文句も出る為、親身になって相談役になっていないのも分かるし。
相手の立場を分かり、相談方法を考え、色々な方向性を考えるのが相談員ではないのか?
この映画は教誨師だけの話では無く、相談に関係する全ての人間に関連する映画だと感じた。
人に語りかけるとは何か?親身になるとは何か?
理由も色々あり、人の心を引き出すとは何か?
人によっては長い時間かけて接しなければならない。
相談に乗る自らも裸にならなければならない時もある。
ここは見習うものがあった。
大杉蓮さん最後の演技、しっかり拝見させて頂きました。
いろいろな見方ができる
気になっていた作品。
1つのシチュエーションで会話だけで成り立っている。舞台のような作り方。
面接室での時系列はカレンダーとスーツやネクタイでのみ分かる。同じものであれば同日の話である。
6人のうち4人はある程度罪状が話の中で分かってくる。
教戒をホントに望んでいるのだろうか。話し相手が欲しいだけなのか。そういう人もいれば、教戒によって洗礼受けるまでに(宗教的)回心する人もいれば、食って掛かる挑戦的な人もいる。
教戒にはこれという正解はないのがよく分かる。
自分より弱い立場の17人を殺していた青年は教戒という立場を諦めた時点から変化していく。執行日には立ち上がれないほどの恐怖におののいているのを見ると、強がっているのをまとった弱い人間であるのが露わになる。プロセスはいろいろあるにせよ、露わになってそれを自覚していくのが教戒であろう。
文盲の人は冤罪の可能性も秘めて終わった。文字を学習ことで何かを訴えかけたかったのだろう。
父親が教誨師しているが、普段は守秘義務がある内容だけに詳細は聞かないが、こういうことをやっているのか、と垣間見たような気分である。
罪は何によって償うことができるのか
重かった。それは予想通りでしたが、「安直に死刑制度に対する疑問を投げかける映画」じゃ無かった。もう、ホントに真面目に考え始めると気が滅入ってしまう内容。登場人物が自分の口で語ってくれるのでリアルに訴えかけるものがあり、映像化する意義はあると思う。
宗教の役割と意味。現実の契約社会における罰と赦し。その狭間に自ら望んで身を置く教誨師。重い話だろうなとは思っていたけど、ここまでフェアに問題提起している映画だとは思っていませんでした。
殺人の法定刑は死刑ですが、実際には、おそらく二人以上の人命を奪わない限り裁判により死刑を宣告されることはありません。よって、ここに登場する人物は、複数人の命を奪うか、複数回に亘り奪おうとした事実があり、極刑を言い渡された、社会的に観れば極悪人である訳です。
犯した罪がうかがい知れるのは、6人中4人。
*家族三人を撲殺した小川
*17人を殺害した高宮
*リンチ殺人を首謀した野口
*ストーカー殺人で女性とその家族を殺害した鈴木
「罪と向きあい自分が奪ってしまった命に対する贖罪」と言う点において、教誨師の佐伯の目には、この6人はどう映っていたのか。
小川は死刑を、おそらく受け容れていますが、それは単に「家族の前から姿を消してしまいたい。いっそ死んでしまいたい」と言う気持ちからだと思われ。他の4人は極刑を宣告されるカギとなる「矯正不能と判断される」のも致し方無しな人格です。鈴木に至っては、身の毛がよだつ。
文盲の進藤は、「刑法上の赦し」と「宗教上の魂の赦し」を混同している様にも見えますが、これが主題につながります。
佐伯は、少なくとも死刑を否定していません。疑問も持っていないでしょう。神父ではなく、牧師という立場の設定は、それをうかがわせるものなのでしょう。ただ、死刑の執行の前に「神の赦し」を得て「魂を救いたい」と言う一心。ここに、「自分の代わりに殺人を犯した優しかった兄」の姿が被り、物語をより一層複雑に、かつ深く重いものにしています。
立場と状況次第では、誰もが罪を犯す可能性がある。だが犯した罪は償わなければならない。洗礼を受けることになった進藤のメモに、佐伯は絶望します。「あなたがたの罪のために、わたしはいのちを捨てます。だからあなたがたも救いという主のゆずりの地を受け継ぎなさい。」と言うキリストの言葉は、現代の契約社会における「殺人」と言う罪の贖罪になりうるのか?と言う問いかけ。
宗教から一旦身を引いて高宮と向き合った佐伯は、高宮が心の底から後悔をし始めたことを察しますが、彼は死刑台に上ることになります。「矯正不可能の判断」が誤りだったことをうかがわせる件なのですが、ここで観る者が何を思うのか。
死刑制度への疑問・否定、と言う立場に立たず、宗教と非宗教の両側面から「何によって罪を償わなければならないのか」を問う、すっごく深い、正解など無いテーマを投げかける、ある意味、どえらく迷惑な秀作でした。問題提起のカギになっているのは、高宮と進藤の二人です。
2019年の2本目。もたれてます、かなり。ちょっと、明日、口直しに行って来る。。。。。
拘置所の中の群像劇
星🌟🌟🌟🌟大杉漣さん最後の主演作品だと言うので観たのですが… 前半はまったりしていてちょっとつまらなかったのですが後半大杉漣さん演じる主役の過去が明かされた所からストーリーも急展開で進んでいきラストまで釘付けでみてしまいました❗みんな登場人物が心に闇を持っている人たちで皆さん演技が上手くて全体的にみれば面白かったです❗前半つまらなかったのは教誨師と言うことでキリスト教の型にはまったことしか言わなかったからでたぶん後半への伏線になってたと思います❗あと死刑囚の高宮役で玉置玲央さんが出てましたがラスト間近凄くいい演技されてました❗舞台では黒木華さんと共演されてたりして有名だそうですが大杉漣さん見る目がいいですね❗これから映画やTVでも活躍しそうな俳優さんでした❗
生命の意義に深く切り込む
終わりゆく平成の時代を代表する名優、大杉漣さんの遺作。『生』と『死』、人間が最も深く対峙するテーマに対して望まない死がカウントダウンされた死刑囚と向き合う『教誨師』という役柄を選んだことが重くまた深い。ちまたによくある陳腐な死刑制度の非を問うものではなく、生命の意義に深く切り込むところに共感。
「心が楽んなるのはあんただろ?」
俳優大杉漣のプロデュースとして遺作となった本作、本人の並々ならぬ力は充分、スクリーンに表現されていた。
拘置所内でのシーンがそのストーリーの殆どで、これをスタンダードの画角で撮影されている。そしてラストのシーンで初めてビスタサイズに変わるところも、閉鎖と開放のメタファーなのかもしれない。
経験が浅い教誨師と、6人もの一筋縄ではいかない死刑囚達との或る意味“攻防戦”が戦い毎にシーンが切り替わるように進んでいく。わざと死刑を遅らせるようにでっち上げの殺人事件を話たり、自分でもホントか嘘か分らないまま幻を話す女、これ又ストーカー殺人を思い違いしている男や、屁理屈ばかりの大量殺人魔、そして、人の良い男と、無学故に人につけ込まれた老人・・・
ある人間は自身の正統性を、又ある人間はその犯罪に対する無自覚等々、確かにまともでは自分の置かれている立場を受け止められない程の重大な事実を引き起こしたその罪と罰をまったくもって昇華できぬまま最期の時を待つ“モラトリアム”をこの新米教誨師にぶつけ続ける。その日々の中で、教誨師もまた、幼い頃の兄への罪悪感故の迷いが影を落とす。
映画作品なのである程度のオチが必要であり、着地点を設けようと考えたのだろうが、良く言えば他の作品のオマージュ的要素、又、唐突なホラー的要素や、霊的表現等々、盛り込みすぎたことが悩ましい。なるべく一人の死刑囚のケースに固執しないように散らすことで、人間が人間を殺すというその原罪に広く一般的なテーマを持たせたいと思ったのだろう。しかし、やはり、その老人のもしかしたら神の生まれ変わり?的想像力の持たせ方とか、どうしても表現過多が否めないのである。
6人の中ではやはり屁理屈をこね回す青年との対峙が一番迫真を得ていると思うので、ここを掘り下げる作りでもよかったのではないだろうか。
いずれにせよ、ラストシーンの意味合い、これは、自分では正直不勉強故、理解困難であった。鑑賞後にネットでのネタバレ記事で理解出来た位、今作品、非常に鑑賞するのに疲れる。過剰なドラマティックさはなく、複雑な心理描写が次々と小波レベルで襲ってくるので、整理できぬまま、時間が過ぎていくのだ。あのホームレスの老人は、教誨師に渡したグラビアページに書いた平仮名『あなたがたのうち、だれがわたしにつみがあるとせめうるのか』をどう解釈させようと思ったのか、その究極の問題に対しての答えは一生掛かっても出ないのであろうが、もう少し整理された構成ならば腑に落ちたかも知れない。大変難解で哲学性たっぷりの作品である。
故人のご冥福お祈り申し上げます。
魂のぶつかり合い
寄り添うっていうのは、分からなくても理解できなくても、魂でぶつかって行くことで相手の魂を揺さぶることなんだよな。
昨今の「寄り添います」と言って自分たちの都合や考え方を押し付けるのとは違うんだよな。
対話で紡ぐ物語、対話で導く真理
全編を通してほぼ、密室で繰り広げられる会話場面。
観た人の中には退屈だと思われた方もいらっしゃると思います。
ですがわたしはむしろ、「もの凄いものを観た」と思うほど、
演者たちの一挙手一投足に集中して観ることができました。
『ソクラテス式問答法』という対話法があります。
〈 対話によって相手の矛盾・無知を自覚させつつ、より高次の
認識、真理へと導いていく手法 〉の事を指すんだそうです。
対話によって、死刑囚たちの心の闇に、わずかでも一筋のひかりを灯せる事ができたなら、執行され魂となった彼らは等しく安らぎを得る事ができるだろうか?
そのことに尽力した牧師・佐伯(大杉漣さん)がそんな彼らの闇を見つめながら実は、佐伯自身が一番心に闇を抱えている事を認識し受け止めていったのではないのでしょうか?
わたしが今年観た映画のなかで一番、あとからじわっときました。
大杉漣さんが最期に私たちに出した『人生の宿題』みたいな
作品だと思いました。
見終わってキャッチコピーを見て、「んっ?」と。
斬り込んだ映画でした。
大杉さんがもう「死の側」にいらっしゃることで、また新たな意味合いが生まれてしまっているとも思います。いや、悪く言っているわけではありません。
大杉さん、なぜこの映画を作りたかったのでしょうか。本人からぜひ聞きたいのですが……。
ただ…、あのスペースだけの映画でここまで思わせることがあるとは、と感じていたのですが、キャッチコピーを見て、何を考えていたか忘れてしまったというのが本音。
「『なぜ生きるのか』という問題提起の解答を本文から探してね」という中学生の国語のテストの一問のようなものがメインテーマではないような気がします。強烈な生の物語……?
これは大杉さんの本望なのか………?
まぁいいや。
強烈な会話劇。ここから我々が何かを感じとるのです。
追伸:光石研さんのお気持ちを考えたら、開始早々涙が……ということで「泣ける」
大杉漣さんの辞世の句…のような映画
まず,“教誨師”という言葉を初めて知った。
『おくりびと』を観た時に,“納棺師”という言葉を知ったのに似ている。
死刑囚が,悔い改めて,心穏やかに,死刑執行の日を迎えられるように面談を行うのが,その役割だが,囚人の経緯も様々であれば,現在の心境も色々,宗教だって,一般の日本人だとすれば,仏教,あるいは神道,キリスト教位で,無宗教だというものもいるだろう。
主人公の教誨師はプロテスタントの牧師であり,ミスマッチも多いと考えられる。
“死”,“死刑”を前にした人に,聖職者であれ,向き合うことは,とても難しいことだと思う。
犯罪を犯し,死刑を前にして,いかに死に向き合うかというのは,簡単に答えの出るものではない。
そのように促すことは,自分自身の罪悪感(原罪)の記憶を呼び覚ます。
有限の存在としての人間,死刑制度,人間の業,深く考える間もなく映画は終わったが,答えは見つからない。
ところで,映像の中でよく倒れる卓上カレンダー,ここ数年,自宅で使っているものとそっくりでびっくりした。Quo Vadis製かと思ったが,自宅のものと比べると少し横長だったので,違うものだったかもしれない。
でも,大杉さん,良い役者だ。
ご冥福をお祈りいたします🙏
深み
簡単に感想なんて書けない。
ずしっと考えさせられる。
達観した人でありそうな佐伯の弱さがあらわになり、その向き合う姿がすてきだった。
意味なんてない。でも生きる。
老人の書いたメッセージも、そのとおりで。死刑ってどうなんだろうか、と久しぶりに考えさせられた。
最後の大杉さんの表情が映画の深さにと同じだった。
6人との会話から問う、死刑制度の是非
教誨師。"きょうかいし"と読む。今年2月に急逝した大杉漣さんの"最後の主演作品"にして、初めてエグゼクティブ・プロデューサーも務めている。まさに思い入れある作品が遺作となってしまった。
"教誨師(きょうかいし)"とは、受刑者に対して、徳を教え諭し、心の救済へと導く宗教家のこと。国内では、刑事収容施設法に基づいて法的に規定されているが、ボランディアである。宗教もさまざまで1,000人以上の教誨師がいる。
大杉漣が演じる佐伯は、半年前から死刑囚の教誨師を務めているキリスト教の牧師。佐伯が出会う6人の死刑囚との対話が、拘置所内の同じ接見室を舞台に展開される。
原案・脚本も務める佐向大(さこう だい)監督の綿密に作られた設定が秀逸だ。6人それぞれの死刑囚の人生と、佐伯牧師自身の不幸な過去が浮き彫りにされていく。ひとりの牧師をホストとした、接見室を舞台にした群像劇のようだ。
創作なのであたりまえだが、登場する6人の死刑囚は年齢・性別や性格が異なるばかりでなく、各々の罪状もダイナミックに異なる。具体的な罪名や犯罪経緯には一切言及せず、死刑囚と代わる代わる対峙する佐伯が、6人と交わす会話の中から徐々にそれらを読み解く面白さがある。
佐伯は死刑囚と、"また2週間後に"と話したり、"神父様じゃなくて牧師です"と正したりしているので、プロテスタント系の牧師で、隔週で拘置所に通っていることがわかる。
本作には6人の死刑囚のほかに、佐向監督の面白い仕掛けがいくつかある。
まずは、映画がスタンダードサイズ(4対3=1.33:1)で作られていることだ。横幅の狭い画面は、外界から隔たれた拘置所内の閉塞感や息苦しさを感じさせ、それがエンディングで佐伯牧師が拘置所を出ると、ビスタサイズ(1.85:1)に一気に拡大される。
漫然と観ていると画面の変化は気づかないかもしれないが、なんとなくエンディングでホッとする。これは潜在的に心を開放する効果をもたらしている。
また、時間の経過を細かく演出している。殺風景な接見室のシーンが延々と続く本作で、時間の経過を表現するのは難しい。安易にテロップで、"〇〇日目"や"〇月〇日"と表示してしまう手法もあるが、それでは芸がない。
そのひとつが卓上カレンダーだ。死刑囚との面談中、霊的な現象のごとく、ときどきパタンと倒れる。そのとき、"ハテ?"と月表示を見てしまうことになる。また、佐伯は一貫して黒系のスーツだが、ネクタイが変わる。同じネクタイの日が同じ接見日であることがわかる。
本作は、強烈に死刑制度を問うテーマを抱えている。会話の中から死刑廃止論について考えさせられるエピソードがいくつも提示されている。
また、初めて知るトリビアが多く紹介されていて、知識欲も満足させる。不謹慎だが、死刑あるある話にもなっている。
最後にひらがなを教えた、文盲だった死刑囚が残したメモが、佐伯に問う。
"あなたがたのうち、"
"だれがわたしに"
"つみがあると"
"きめうるのか"
(2018/10/18/スバル座/スタンダード(一部ビスタ)
教誨室の外側へ
この映画のキーワードを挙げるならば「霊性」だろう。
6人の死刑囚たちと、大杉漣演じる教誨師の佐伯との密室の会話劇。
ほぼ全編で本作の舞台となる教誨室には霊の気配が漂う。
大杉漣(エグゼクティブ・プロデューサーとしても名を連ねる)が急逝した、ということも相まって、なのは事実だけど。それを差し引いても、本作には、いまはもうこの世にいない死者の存在が強く感じられるのだ。
死刑囚ということは、全員が人を殺している(はず。厳密には死刑となる犯罪は内乱罪などもある)。
誰かを殺したから、彼らはそこにいる。
そして佐伯にも事情があった。彼もまた、その事情により牧師を職業に選び、ここに来ている。
死者たちに招かれ、出逢った死刑囚と教誨師。
そこに死者の気配が漂うのは必然であろう。
そして、この映画に登場する教誨室は不自然な形をしている。なぜか長い三角形をしているのだ。そのため、佐伯を捉えるカメラの背後には、いつも暗がりが映る。奥行きのある暗い空間が、何かの存在を思わせる演出が効いている。
そして本作は、「国家による殺人」とも言える死刑制度についても、大いに考えさせられる。
物語のスタートでは密室劇だった本作だが、やがて少しずつ「部屋の外」が映画に登場してくる。
始めは外の天気。やがて、佐伯の過去。そして死者たちが、スクリーンを侵食してくる。
それとともに、教誨師を務める佐伯の言動も、徐々に制度や枠組みの中だけでは抑えきれなくなる。
ラストに、ようやくカメラは教誨室、そして拘置所さえも出て、外の景色を捉える。
命という人間の根源と、法という国家の基盤が交差するのは、拘置所の中だけではない。私たちの日常とも繋がっていると感じさせるラストである。
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