判決、ふたつの希望のレビュー・感想・評価
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最も困難な、三つ目の希望はあるか
観客は、レイシズム丸出しでパレスティナ難民のヤーセルを侮辱するレバノン人のトニーに、初めは反感を抱くだろう。しかし、トニーのパレスティナ人への憎悪には理由があることを見せられることになる。
トニーの出身地の村で起きた虐殺が、パレスティナ民兵の仕業ではないかとの疑いがあるからなのだ。イスラエルの迫害により難民となったパレスティナ人のヤーセル。生まれ故郷で忌まわしき虐殺が起こったトニー。そんなふたりだからこそ、法廷闘争の原告と被告でありながら、ミメーシスが生じる。ヤーセルの車のエンジンの調子を直してやるトニー。トニーに向かってわざと憎まれ口をたたいて、自分がやったのと同じように殴らせるヤーセル。立場の違い、民族の違い、宗教の違いを越えてミメーシス(感染的模倣)が起こったのだ。
トニーの弁護士は、虐殺に関する記録映像を法廷で見せ、こう言う。「私たちは、こうした映像に慣れてしまっている。何の衝撃もありません。普通のことです。しかし、被害者や家族にそう言えますか?」と。
そう、私たちは悲惨な報道に慣れきっている。残虐な映像に無感覚になっている。本作は、そんな観客である私たちに問いを発するのだ。判決は下り、トニーにもヤーセルにもそれぞれの希望が生まれた。ところで、傍観者であるあなたたちを誰がジャッジするのか、と。
うーん
冒頭の設定はすごい面白くなりそうだなと思いますよね。政治的宗教的乖離が明確でない日本でもご近所トラブルで人が死んだりする事件もあるし。どうなんのーと見てたら、あれ、なんだ?後半の昼メロドラマ感、観客泣かせれば勝ちみたいなここ数年の日本映画か?と思うような展開。中東の多民族間、しかも日本メディアで取り上げられることのないレバノン生まれのキリスト教徒とパレスチナ難民の間に横たわる事情を肌で知らないと、この映画の中の説明くらいで、おーそうなのかーとはちょっとなれない。
事実として知れたことはありがとうと思うけど映画の出来としては好きではありません。
歴史的背景を勉強してから
世界史に詳しい人には簡単かもしれない。パレスチナ問題を勉強してから観ればもっと理解が早く感動しただろう。個々人は良い人同士なのにね。歴史がそうさせてくれない。事態は出産にまで影響し難しくなる一方。
中国製品は信用でき無いw
「中国製品は信用でき無い」
この魔法の言葉を唱えるだけで世界中の人が笑顔になり、争いが無くなる、、、
冗談はさておき、今作の舞台は日産のゴーンが逃げ込んだ国で一躍有名になったレバノンw(何で有名になってんだw)
レバノンの歴史を全く理解しておらず鑑賞したが、ある程度の流れは理解できた。
一般の日本人にはなかなか周知されていない宗教観や人種問題、それはレバノンに限った事では無く中国・台湾・香港等でも今この時に争いは行われている。
この作品を観てどう感じるのかは本当に生きてきた中での感じ方が違ってくるだろう。
しかし僕は人間の持つ本質が描かれていたと感じた。
スタートから争いたいと思っている人はほぼいない。しかし自分の安全や家族の幸せを侵害される場合には戦わざるを得ない状況もある。
今作の主人公もレバノン人だが、パレスチナ人を憎んでいる。しかしささいな衝突の末に裁判を起こすが、求めているのは謝罪だけ。
文化や思想等もあるであろうが、個人的には衝撃であった。自分が見ず知らずの嫌いな韓国人と争って裁判を起こすなら謝罪はもちろん賠償金も請求する。
しかし主人公のレバノン人はただ非を認め、本人からの謝罪をしてほしい。とのこと。
まあこの後も徐々に内容は二転三転していくのだが、テンポや展開が非常に面白く、背景がわかりにくい自分にもなかなかわかりやすい内容であった。
弁護士の設定も親子(ありえるの?w)であり、ユーモアを混ぜ込んだ法廷モノとなっており、楽しかった。それぞれの当事者をのけ者にして進んでいく内容は「どうなのよ?」とも思ったけど。
ラストも希望に満ちた感覚が溢れてきて非常にすっきりとしました。
また主役の2人の寡黙であり、哀しみを含んだ表情はグッとくるものがあり。
「中国製品は信用でき無い」
このフレーズ非常に好きだわーww
言葉の裏の怒り悲しみを知る
ののしったことで、暴力事件となり
裁判に発展していくが、それが人種、宗教、国際問題にまで
発展してしまうお話だ。
平和なお気楽日本人にはとうてい理解できない
複雑で悲しい物語がここにはある。
言葉や暴力が単純なことで起きたのではなく
長年のお互いの争いの中で悲しみ 苦しみ 怒りがあるなかでの
言葉や暴力なのである
観ていてやるせなくなる。
見どころは何と言っても裁判のシーンだろう
私も傍聴席の一人になった気分で
スクリーンに入り込んでしまった。
この作品を観て 争いはどちらも傷つき悲しみ互いに
恨みを持ってしまうのだと思った。
何故 許しあい受け入れることは難しいのだろうか?
それが簡単なら今頃どの世界も平和に
暮らしているだろうが
宗教や人種に関係なく、どこでも起こりうる諍いがきっかけ
宗教や人種、国、そして内戦などの歴史からくる衝突
そういう問題を描いている作品なのだろうと思っていた
けれど、それももちろん描いているけれど、そこを通して、人と人も描いている秀作だった
事の発端は、住民と工事関係者のちょっとした衝突
正直、日本でだって普通に起こる日常の問題レベル
だったはずが、レバノン人の住民が、工事関係者がパレスチナ難民だと気づいてしまったことから、事はこじれ始める
正直、最初はレバノン人のトニーがすごいレイシストっぷりで見ていて頭に来る
そりゃ、パレスチナ難民のヤーセルも素直に謝罪する気にならんわ、というか、謝罪する必要なくない?という気持ちになるほど
そんなふたりは互いに自分は間違っていないと思っているので、相手を悪く言い、謝ろうとしない
これは、日常によくあること、誰しも多かれ少なかれ心当たりのある諍い
そうして、ふたりの諍いは、どんどん泥沼化してしまい、とうとう法廷で争うことになる
一審から、控訴審、そして国中が注目し、政府も関与する大事件になっていく
国を巻き込み、それぞれが背負っている忘れることの出来ない、そして変えることの出来ない過去も明かされていくことで、この裁判にどんな判決が?この映画にどんな結末が?と思うほど複雑になってくる
しかし、最後は、この映画を観てよかったとしみじみ思える
そこには、救いがあるし、こじれてしまっても、まだ道はあるのではという希望を感じる
そして、そこに持っていくまでの流れと伏線が本当に素晴らしい
ここからネタバレ
大統領だったと思うのだけれど、そこに呼ばれて、和解を呼びかけられた帰り、隣同士で止まるふたりの車、そして、エンジンのかからないヤーセルを置いて、トニーは行ってしまう
と見せかけて、トニーは戻ってきて、ちょちょいっとヤーセルの車を直してしまう
何も言わずに立ち去るトニーを見ながら、心の中で「ありがとうは?ありがとうでしょ?」と突っ込んでしまうんだけれど、トニーが立ち去った後のヤーセルの微笑みが何か希望を感じる瞬間だった
そして、トニーが言わずにいた過去の傷が法廷で明かされた後、トニーのもとを訪れたヤーセル
何をいうんだろう?と思って見ていたら、ろくに喋らなかったヤーセルがびっくりするほどの悪態をトニーにつき始める
そして、トニーからの一発
トニーの深く辛い傷を知って、それならば、自分がどうして手を出してしまったか理解するかもしれないと、あえてきつい方法でトニーに伝えようとしたのか、それともこれでおあいこだとでも言いたいのか
けれど、ヤーセルはそのことを表では明かさない
そうして判決が出た後、握手もしないし、お互いを見もしないで法廷を後にするのかと思いきや、最後の最後で見せるお互いへの赦しと理解を悟らせる微笑み合い
あれを見た瞬間の気持ちは、ちょっと忘れがたい
個人と個人のトラブルに非ず、二つの国の対立と未来への縮図
レバノンとパレスチナの複雑な現状についてはほとんど知らない。
政治、思想、宗教、内戦、歴史絡み、遠い異国の日本人にはピンと来ない。
それを、個人と個人の問題として描いているのが秀逸。
本当に些細な“ご近所トラブル”が発端だった。
とあるアパートの修復工事。
住人のトニー(キリスト教徒のレバノン人)が流した水が排水口から漏れ、工事中の現場監督のヤーセル(イスラム教徒でパレスチナ人)らにかかる。
ヤーセルは排水口の修復をするが、勝手にやられたのが気に障ったのか、それをトニーが叩き壊してしまう。
ヤーセルはつい、「クズ野郎!」と罵り…。
これにトニーが激怒…いや、憎悪と言っていいほど。直接の謝罪を求める。
謝罪するのを拒んでいたヤーセルだったが、雇い主に説得される。
再びトニーの元に赴くが…。
なかなか謝罪の言葉を切り出さないヤーセル。
その時トニーが、ヤーセルを貶めるような侮辱的な言葉を浴びせる。
逆上したヤーセルはトニーに暴行を加え…。
トニーは肋骨を骨折。裁判を起こす。
が、最初の裁判は、トニー側に非があるとされ、ヤーセル側に有利に。ヤーセルは釈放される。
不服のトニーは控訴。
個人と個人のトラブルが、周囲の人々や国をも巻き込む大裁判に発展していく…。
拗れに拗れ、どうしてここまで拗れたのか。
どちらが悪い?…なんて、簡単に白黒付けられない。
修復しなければ違反になるのに、それを叩き壊したトニーにも非がある。
手を出してしまったヤーセルにも非がある。
暴行を加えられたトニーにも同情の余地はある。
侮辱されたヤーセルにも同情の余地はある。
最初の内に何とか解決出来なかったのか。
当人たちもここまでの大事は望んでいなかった。
トニーはただ謝罪して欲しかっただけ。
ヤーセルも暴行を加えた事は認めている。
だけど、どうしても退けない。
和解の場を一度逃してしまえば、後はズルズルズルズルと。
トニーは妻とぎくしゃく。
ヤーセルは職を失う。
当人たちも苦しいが、周囲の人々こそ気の毒。
心労から、身重のトニーの妻は早産。さらに裁判で、過去に難度も流産した事まで明かされる。
収拾付かぬ泥仕合。
トニーとヤーセル、それぞれに付いた弁護士は、何と父娘。奮闘しているが、裁判は言ってみれば、父娘対決。
各々がレバノン人、パレスチナ人である事が重石に。
パレスチナ人であるヤーセルへ、傍聴席のレバノン人からは非難の嵐。
レバノン人のトニーが発した侮辱的な言葉は、パレスチナ人の反感/憎悪を買う。
トニーの今も悪夢に見るある過去…。
この対立は遂には暴動へ飛び火、大統領まで動き出す事に。
個人の問題が波紋を広げ、国を動かす事は時にあるが、燻っていた感情が爆発したようなこの大揉めは滑稽でもある。
もはや個人と個人の問題ではなくなったが、当人同士は…。
ある人物との会談を終えたトニーとヤーセル。
それぞれの車に乗って帰るが、ヤーセルの車がエンスト。困っていた所を、トニーが直してやる。
ある夜。ヤーセルがトニーの前に現れる。トニーに挑発的な言葉を投げ掛ける。実は、この真意は…。
そして、拗れに拗れ、揉めに揉めた裁判の行方。
判決は…。
下された時の双方の表情。
長い闘いが終わった安堵感というより、この結果を望んでいたかのように。
それはただ個人と個人の対立が解決しただけではなく、レバノンとパレスチナの複雑な現状だって、いつかはきっと…。
とても面白かった
不器用なおじさん二人が素直になれなかったために大変な騒動になっていた。特に若い方のおじさんは、タトゥーとか入れている割にお腹に1発パンチをもらっただけで悶絶してしまい、きっとそれがよほど悔しくて法廷闘争に持ち込んでしまったのだろう。しかしそんな彼が、エンジンがかからなくて困っている現場監督のおじさんの車を修理してあげる場面が感動的だった。不用意にむかっ腹を立てる割に、困っている人がいたら即助けてあげられる人だ。だから、現場監督のおじさんが弱った感じで配管工事させてくれと言ってたら何も問題は起こらなかっただろう。現場監督のおじさんが、自動車工場を訪ねて、無駄に挑発して殴らせる場面も素晴らしかった。出会うのが別のタイミングであれば、すごく仲良くなれていたかもしれない。そんな二人の佇まいが人間臭くてとてもよかった。
ただ、バーレーンの事情がよく分からなかったので、事前に勉強していたらもっと楽しかったと悔やまれた。
感情の背景
些細なことで主人公と相手が揉める。やがて、社会的・歴史的な背景も相まって、訴訟問題に発展していく。
法廷の中で、二人がなぜそのような発言や行動を取ったのか、徐々に明らかになっていく。
特に感じたのは、自分が取る行動・発言には、自身でも制御出来ない自分達のバックボーンがあって、その場の問題だけではないということ。
過去を振り返らずに、関係ないのだから、前を向こうというけれど、容易なことではないと感じた。
それでも、物語を通して、変わっていった、二人に感動した。
自分は日本人で、そういった負のバックボーンを直面せずに生きて来たのだと思わされた。
傑作!我が事として考えさせられる重厚なドラマ
これは傑作だった。レバノンとパレスチナ難民の対立や差別意識などを重点に置いて描かれているドラマであるものの、そこに映し出される光景は、今現在世界中の至るところで観られるものであり、どこかで見覚えのあるあるいは身に覚えのあるような出来事に思えたりする。単一民族国家と言われる日本であっても、こういう対立や差別のようなものは確かに存在しているし、国は違えど、この映画に描かれた問題と人々の痛みや苦しみや叫びを、世界中の人々が我が事として見つめたのではないかと思う。
きっかけは些細ともいえる個人同士の問題だった。工事が喧しいとか、水やりの水がかかったとか、その程度のことだった筈が、一方がレバノン市民で一方がパレスチナ難民であったこと、またそれぞれに事情と過去があること、それらはどちらも社会が生んだ悲劇であったこと、個人の問題の根底には社会問題が根を張って居たりすること・・・そういったことが解決の糸を複雑に絡ませてしまい、裁判にまで発展した時点で、あくまで個人同士として始まったはずの問題は民族同士の問題や社会問題に膨れ上がってしまった。この映画は、問題提起として何かを強く訴えようということとして以上に、個人の問題の礎が社会の問題であるということと、一方で社会の問題は個人の問題の蓄積であるということ、そしてまた個人の問題を社会の問題として扱うことの恐怖やその逆もまた然りであることなんかを強く気づかされる内容で、「個人」と「社会」という概念が複雑に重なり合っていくドラマティックさに重厚なサスペンスとメッセージを感じて、終始感嘆しきりだった。
分かりやすいシーンだとは思ったけれど、車のエンストのシーンはやっぱり巧いと思った。社会問題として考えればパレスチナ人を許すことはできない。でも個人問題として考えればエンストして困っている人は助けずにいられない。このシーンのように、人間の矛盾しているからこそ共感できる描写が多数存在して、その都度感心させられた。最後の不思議な和解のシーンも巧かった。
私は日本人という立場でこの映画を「外国映画」として見たわけで、作中の表現を借用すれば「観光客のように」作品を観たことになる。私の立場で観ればとても面白い映画だった。でも私が自国の当事者だったら、この映画をどうやって見てどうやって感想を抱けばよいかは、見当もつかないなと思った。それほど生々しく真に迫るものを感じたからだ。それでも私は☆5より下には出来ないなと思った。
この映画は、傑作だった。
ちゃんと話し合えば1時間もあれば解決できたはず
おじちゃん達の意地の張り合いでこじれまくって国まで巻き込む大事に。ざっくり言うと、水道管から水が漏れてて下の人にかかるから水道管を直したら、叩き壊されてクソ野郎と言ったら訴えられた☆っていう話。
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もちろん問題はもっと複雑で民族、難民、歴史、、とか色々絡んでるんだけど、どうしても叩き壊さんでもと思った(笑)無料で直してくれたのに(笑).
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ちょっとネタバレなのですが、.
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この映画ヤーセルの謝り方が上手いなあと思った。相手に自分の気持ちをわからせた上でさらに殴らせて、そして謝るっていう。さすがのトニーも1本取られたんじゃないですかね。
エンジニア魂
いかにもミニシアター系の映画なのでとっくに終わって見逃したと思っていたらなんとTOHOシネマズ。まだやっていた。
馴染みのない国。背景をつかむのが難しい。
まず、アラビア語(?)で「クズ野郎」がどれだけのinsultなのか。もし、日本語に訳された語感からすると、それを言われて謝罪を求めるだろうか?毛嫌いしている難民だとわかったら、「謝りに来い」というよりはもう「見たくない、かかわるな」というのが普通ではないか?謝りに来て和解する気などさらさらなさそうに見えたが。字幕の難しさと謝罪に対する文化的違いがあるのか?まあ、最初はトニーの暴走、という認識で間違いではなさそうだが。
もう一つは中東情勢。イスラエルのユダヤ人とアラブ人との争いくらいにしか思っていなかった。なんと、アラブ人同士、パレスチナ難民とヨルダン人との間で内戦になるなんて。ヨルダンにはキリスト教徒もいるというから知らないことばかりであった。
だから「シャロンに抹殺されていればな」を一審でトニーもヤーセルもなぜ隠そうとしたくらいの言葉なのか、理解できなかった。私がイメージできる難民は外国に保護してもらっているのだから、現地民から今までそんな挑発はいくらでもあったような気がするのだが、どうなのだろう。増して難民でありながら、受け入れた国と内戦になってまで争ったのに、なぜ彼らは追い出されず受け入れられているのか、パンフレットを読んだことからだけでは想像もできない。元の国民から毛嫌いされて当然のようにも思える。
ヤーセルは仕事で現場のリーダーを長年勤めていたようだ。そんなキャラクターは大抵冷静で、差別的挑発に乗らないものだし、実際、その言葉と解雇以外はそんな役柄だった。「シャロンに抹殺されていれば」がなぜ地雷なのか、理解はできなかった。ただ、地雷なんだろうな、くらいにしか。こんな反応はワールドカップでジダンが退場になった事件を思い出させる。
周りがヒートアップしていくなか、当事者たちはお互いの心の傷に気がつき始め理解していく。駐車場でヤーセルの車のエンジンがかからなくなったとき、トニーは引き返してきて修理する。恩を売ろうとしたわけではなく、エンジニアとして、壊れた車は直そうとする性からだろう。お互いが「中国製はだめだ、ドイツ製なら確かだ(日本製でないのが残念)」という価値観も共有している。生業は憎悪を超越するというのは洋の東西を問わないとつくづく感じた。
まるでその恩返しをするように、ヤーセルはトニーを一人で尋ねて悪態をつき、殴らせ、トニーの憎悪を解放してやる。傷ついたもの同士がこれで和解した。
判決は無罪。だが裁判に負けた人はいなかった。トニーも、トニーの弁護士も、実に晴れ晴れとしていた。無罪だったのはヤーヌスの暴力だけではなく、トニーの暴言も、傷つけあったもの同士、みんな無罪だと宣言したかのようだった。
こんなにわけがわからないのに、最後胸が熱くなるとはすごい映画だと思った。
ここでも女性は正しい。トニーの妻はこの家から引っ越したいと言うし、ヤーセルの妻もノルウェーに引っ越そうと提案する。この2人の言うとおりにしていればこんなことにはならなかったのに(映画にはならないが)。
男は殴り合って理解し合うのだから馬鹿だよね。まあ、それも悪くないけれど。ただ、戦争までしてしまうと、こんなふうに悲劇の連鎖なんだとつくづく感じた。
ちょっと残念だったのは、はじめてのヨルダン映画だったので、ヨルダンの特徴、みたいなものを感じたかった。社会情勢ではなく、文化、風俗など。フランスも共同制作だし、世界は狭くなっているのでそんなものは期待してはいけないのかな。なんだかBGMとか、都市のドローン(ヘリコプター?)映像とか、欧米の映画と変わり栄えなかったので。
ちょっとしたこと
トニーとヤーセルのちょっとした口論が、周囲を巻き込んでおおごとになっていく。よくある話かもしれませんが、それが個人的なものではなく国家や民族問題になった時の悲惨さは、皆が良く知ることだと思います。
当事者達よりも、話を膨らませ問題を拗らせていく弁護士がまるで中東における先進諸国の介入の様に感じてしまいました。ラストでヤーセルは裁判官から無罪判決を受けますが、大国が犯している罪の判決は未だに出ていません。
対立
見なきゃいけない映画だと思うし、観るべき価値もあった。
対岸の火事ではなく、誰もが抱えるであろう火種の話でもあった。
アカデミー作品賞を撮って欲しいとさえ思う。
肩に水がかかった。
そんな些細な事柄が国家を巻き込む民族闘争にまで燃え広がる。
そんなありえない展開を納得させる程の背景がレバノンって国にはあった。
実にスムーズに、スピーディに燃え広がる。
1人1人に燻り続ける火種があるからこそではある。
恐ろしいし、馬鹿げてると思うのは集団心理の扇動のされ方だ。
どちらの側も正当性を譲らない。
その譲らない正当性に付加されていくものがあり、和解どころか負けられない闘争になっていく。付加されるものは「愛国心」であったり「犠牲者の魂」「魂の尊厳」であったり否定するには忍びない事柄ばかりだ。
だからこそ世論を巻き込み、燃え広がる。
1番の戦犯は、その火に薪を盛大にぶち込んだ弁護人たちであり、当人たちの利益などは二の次だ。この事例を前例にやりたい事が山程あるのだろう。「口は災いの元」とは良く言ったものだ…。
そして最大の戦犯は政治家だ。
国を統治する為に使う文言の数々で、それらは国の為ではなく、議席や権力が底にある。
勿論、それらに簡単に騙され、煽られる俺たちも共犯だ。
そんな構成が際立つ脚本だった。
本人たちの邂逅の仕方も秀逸だった。
相手の車を直してやるシーンなどは見事なシーンだった。
自分の後悔も反省も、性格や生き様、信念まで色濃く反映されてたシーンで、対立しあってた2人が、交錯するとてもいいシーンだった。
その後、対峙した夜を経て法廷で再会した彼らにはもう憎しみはないように思えた。
対話がなくては溝はなくならない。
条件付きの対話などは愚の骨頂で、双方の為にこそ対話が必要不可欠なのだ。
言葉を交わすだけが対話でもないと思えた。
「謝罪は敗北でなく、相手を尊重する為に使う言葉だ」
この言葉を実践していきたいとも思うが、これは中々難しい…。
大きな集団であるなら尚更だ。
でも、心の何処かにはずっと掲げていたい旗印のようにも思えた。
昨今の世界情勢を考えても、非常に意義のある作品に出会えた。
それでも私たちは前にすすまなければならない
予告を見た段階では、レバノンの対立と内戦の怨恨が社会に落とす翳を描いたもんだと。地勢的にも歴史的にも、あまりにも複雑すぎる「マイノリティの集合体を聖地の隣に作ってしまった不幸」を考えると、こんなラストとメッセージなど予想なんてできっこなかったです。思ってたよりも10の4乗倍も深かった。
今年の一番です。しかもダントツ。
脚本、役者さん、撮影、素晴らしかった。
ヤーセルは判決も近づいた日の夜ハンナの元を訪れます。およそ、知性と道徳心を置き忘れてきた、これまでの紳士的な元PLOの解放戦士とは思えない言葉を並べたて、ハンナの心を傷つけます。
低い右フックがヤーセルのストマックを捉える
すまなかった。ヤーセルの、謝罪の言葉を口にするきっかけの作り方は、あまりにも不器用すぎましたが、ハンナの要求してきた謝罪は、この瞬間に完了しました。
判決は、純粋に暴言と暴力の因果関係にのみ判断を下し、ヤーセルに無罪を言い渡します。国を分けた議論のきっかけを作った二人は、共に晴れやかな表情で建物を後にします。お互いに目配せしながら。
ダフードがベイルートから車でたった20分の距離であることや、難民キャンプからも一見普通に仕事に出かけていく生活なんて、知らなかった。シャティーラの虐殺も忘れるなよと、弁護士は釘をさします。あれは、小さくないけどね。
レバノン軍の党首がTVを通じてハンナに呼びかけた言葉がこの映画の主題です。
「それでも我々は、前に進まなければならない」
全員が加害者であり、全員が被害者の歴史を持つレバノンの未来は、恩讐の彼方にある。必ずしも、皆が手に手を取りあう必要はない。ただ全員が、それを乗り越えなければならない。
そんな映画。
劇としても良くできていたし、主題にも感動した。
この名作が埋もれてしまいそうになっていることを恐れています。少しだけ中東の歴史と情勢を知ってもらえれば、この作品の意義もわかると思う。単純な宗教対立なんかじゃないんです。レイシズムなど問題の表層に過ぎない。もっともっと深い傷を、双方が双方に残してきた歴史が、この映画の土台にはあります。もっと、多くの人に見て欲しいって心の底から思う映画です。
原題、侮辱の意味するところは、内戦に負け歴史の負の遺産を背負わされたことであり、武装勢力に家族同胞が殺害されたにもかかわらず、近隣国と欧米の介入圧力でそれらが有耶無耶にされていること。それらがレバノン人民の心底に沈殿し堆積していること、それ自体を指す。2人の男の間の話だけじゃ無いんだと思うですが、まぁ日本人には伝わらないんですね、思った以上に。
私達全員が、この侮辱を乗り越えなければならない。と言う主題も伝わってねぇーーー、びっくりするほど。
自尊心
良い映画でした。
DVDなら観ない類なので、あえて映画館で
思い観てきました。
中東のこと分からないですが、
見入りました。(深く理解してないけど)
皆さんのレビュー読んで
なるほど。ああそーやなぁ。うん。うん。
車のエンコを直してあげた辺りから
グッとくるものがありました。
言葉の暴力って心をえぐり傷つけてるんですね。
ラスト良かった。
複雑な背景、シンプルな理由
見てよかった。
中東系の宗教とか民俗とか思想って平和ぼけしている日本に住んでる私には何処の話ですか?って感じで始まった。
レバノン人のおじさんが、パレスチナ人がわざわざ作ってくれた排水溝を壊して、(人の親切を顧みずに暴言を吐く)で、パレスチナ人も暴言を吐いて。殴っちゃうって話なのに。
裁判がはじまっていく当人達が想像しない流れに話が膨らんで、政治抗争や第三者からの攻撃とか。
二人の過去の話とか、何故そこまで憎むのかとか。
色々納得いくところに落ち着いて行くという。
ストーリーと観客の心を同時進行で進めていく。
悪奴じゃない、人間だものっていう描写が泣ける。
車修理。
謝罪。
あぁ観てよかった!
見なかったら知らない話理解できない話で終わってた。
理解できなくても知ろうという思いが湧いてくる!
最後号泣。
原題のまま「侮辱」を邦題に
どんなに腹を立てていても言ってはいけない言葉というのがある。
相手が生きているその根幹に関わることで、その人が人であるための尊厳に触れるような言葉。それを言ってしまったら文字通り「おしまい」なので、致命的な言葉を間違って吐いてしまったら、言葉を取り消すことができないし、後戻りも出来ない。
それをテーマにした映画を観た。
ストーリーは、
レバノンに住むキリスト教徒のレバノン人、トニーは自動車修理工で、妻と二人でアパートに住む。妊娠中の妻は、子供を育てるならいま自分達が住む都会の小さなアパートではなく、都会の喧騒や混雑から離れた、夫の家がまだ残っている田舎で暮らしたいと思っている。しかし夫は頑なにその案を拒否している。
アパートのベランダで洗濯した水は、配管のない2階のベランダから直接外に流れ落ちる。狭いアパート下の路面で工事を始めた工事責任者のヤセルは、洗濯の汚水を浴びて腹を立ててベランダから突き出たパイプを切り落とす。この工事責任者のヤセルは、パレスチナ人で寡黙で優秀な技術者だが、モスリムで難民出身だ。ヤセルはベランダから切り落としたパイプから新しい配水管をつけて水が外に漏れないようにする。しかし怒り収まらないトニーは、その新しい排水管を叩き割る。
トニーはヤセルに、勝手にパイプを切り落としたことで「謝罪」を求める。工事が止まって困った市の職員は、ヤセルに謝罪させて、この場をまるく収めて早く工事を再開させたい。トニーの妻も、怒っているトニーの方が水を垂れ流して悪かったので、妥協するように懇願するがトニーは聞かない。市の職員に連れられてきたヤセルは、トニーに謝罪しようとするが、トニーはパレスチナ出身者に言ってはならない言葉「このやろう自分の国にとっとと帰れ」という侮辱の言葉を言ってしまう。怒ったヤセルはトニーを殴って、ろっ骨骨折の負傷を追わせる。その後トニーは骨折した体で、自動車修理の仕事を続けて、職場で倒れ、それを抱き起して病院に送った妊娠中の妻まで、早産で未熟児を出産するという不幸が重なった。
トニーを負傷させ逮捕されたヤセルは、頑なに沈黙を守り、何が起きたのかを言おうとしない。トニーにはレバノンのキリスト教側のサポートが付き、ベテランの弁護士が付いて裁判が起こされる。裁判では圧倒的にトニーが有利な状況だ。たった1本のバルコニーの排水管をめぐって怒り狂うトニーと、静かに黙し、どんな罪も受け入れると、自己弁護を一切せず沈黙を守るヤセル。孤立するヤセルに人権問題を専門とする優秀な女性弁護士が現れる。何とそれはトニーの弁護士の娘だった。父娘の裁判所での対決はそれでなくても注目を浴びた。
トニーとヤセルの裁判は、大きな問題として報道され、レバノンのキリスト教支持者と、モスリムの支持者とに分かれ、互いの支持グループがデモでぶつかり合うような社会問題にまで発展した。
レバノンの自動車修理工がパレスチナ難民出身者を侮辱したために殴られた。殴ったヤセルが謝罪すれば済むことだったのに、それが民族問題、宗教問題に発展してしまった。裁判の途中で、トニーの弁護士は、なぜトニーがこれほどにパレスチナ難民を憎むのか、調べるうちにトニーが生まれ育った国境近くの村が、トニーが6歳のときに、モスリム勢力に占領され、大規模な住民虐殺の起きた村だったことを突き止めた。トニーは幸せだった田舎での生活を奪われ、家族親族を虐殺され、難民となって都市に流れて来た体験が、ムスリムへの憎悪、難民への侮蔑に向かっていたのだった。トニーの弁護士は法廷でそれを明らかにする。
トニー自身が認めようとしなかった根強いモスリムへの差別意識の根源が、衆人の前にさらされ、6歳のころから閉ざして思い出そうとしなかった自身の過去に、トニーは対峙することになる。自身の過去に、心の整理をつけなければならない。6歳で去ってから30年近く、訪れることのなかった故郷にトニーは初めて帰る。家は荒れ果てていたが、当時そのままだった。かつての果樹園は林になっていた。その大地に身を投げ出して、初めてトニーは自分では抑えきれなかった「怒り」を「赦し」の心に変えることができた。
というお話。
この映画のみどころは、トニーの顔の変化だろう。トニーは都会の小さなアパートで妊娠中の妻と暮らし、妻の話を聴こうとしないし、平気で妻を傷つける。仕事熱心だが幸せそうではない。何をしていても、何をしてもらっていても、いつも怒っている。平気で難民を侮辱して、絶対に人の言うことを聞こうとしない。妻や役所の職員や裁判官がどんなに説得しても耳を貸さない。そんな幸せでない、世界の不幸を一身に背負ったように見える男が、裁判の過程で裸にされて、初めて自分自身の姿に気が付いて、傷跡を再生させていく。映画のはじめからトニーの怒った顔が、最後の最後になって、まったく別人のような柔らかな顔になる。その大きな変化、それだけのためにこの映画が作られたと言っても良い。
一方のパレスチナ難民ヤセルの寡黙で、達観した姿は、キリストのようだ。好きで難民になったわけではない。自分で選んでレバノンで技術者になってレバノンに住んでいるわけではない。両親が生まれた土地で暮らしていければそれに越したことはない。レバノンで少数民族として生きなければならないパレスチナ人にとって差別は、常に付きまとう。
人には誰にも誇りというものがあり、人の尊厳に関わる言葉を吐いたもの、侮辱したものは、差別禁止法によって裁かれ、罰を受けなければならない。
原題の「INSULT」(侮辱)という言葉はとても強い言葉だ。普通の日常会話には出てこない言葉で、直接に告発とか、訴訟、犯罪に関わる言葉だ。侮辱する方も、侮辱される側の方も傷つく。その意味で、邦題を「判決、ふたつの希望」としたのは、まったく映画の内容に合っていない。はじめから裁判が和解のためにあったようなイメージを与えて、本来の映画とはかけ離れた題名になってしまったように思う。
2018年アカデミー賞外国映画賞候補作。オーストラリアシドニー映画祭観客賞、ベネチア国際映画祭男優賞受賞作品。
世界を救う映画だと思える
頑固者二人の些細な争いがレバノンの抱える問題を浮き彫りにし、国を巻き込む大騒動へ。
これは遠い国の遠い話ではなく、私たち自身の話だと感じた。
この映画があれば世界は救われるんじゃないかと本気で思わずにいられない。
序盤からトニーの極右思考に辟易とさせられるが、国は違えど私の中にも彼のような感情が無いとは言えないし理解できる。
同時にヤーセルの境遇と感情も痛いほど理解できて、もしあんな屈辱的な言葉をぶつけられたら私も殴りかかるだろうと思う。
起きた出来事を見れば同情を誘うのはヤーセルの方だし私も正しいと思うけれど、後に明かされる昔の苦悩が無くともトニーをどうしても完全に否定出来る気がしない自分がいることに気付いた。
弁護士が付いて裁判が再始動してからの、当人達の意図を超えた範囲まで話が広がり周りがどんどんヒートアップしていく様が非常にスリリング。
深掘りに深掘りを重ねて二人の過去と思惑の真相が紐解かれて見えてくると、新たな発見もあり新たに苦しむ人が現れて。
これに収集付けるのは不可能なんじゃないかと思えてくる。
判決ひとつで国の状況までもがガラッと変わりそうな事態、さてどんな複雑で深い判決の言葉が聞けるのだろうと身構えていたら「被告は無罪」という簡潔な判決の言葉に一瞬だけ拍子抜けした。
トニー側の周りの人間が怒るんじゃないかと、右思考の民衆が暴動を起こすんじゃないかと思ってしまったけど、判決を聞いた皆の反応を見てこれで良かったんだと思うことができた。
トニーがヤーセルの車を修理した時点、ヤーセルがトニーを煽り殴られた時点で二人の間では既に答えが出ていた。
極右思考のジジイだったワハビー弁護士が2ヶ月の裁判の中で二人の背景とレバノンの歴史を再度洗い直し、思考に変化が生じていた。
色々な人が色々な成長をしていて、双方が互いに望んでいた結果だったんだと気付いた。
観ている私も忘れていたけど、そういえばこれ元々個人同士の諍いの裁判だった。
最後に二人が目を合わせた時の表情がすごく良くかった。
好きなシーン、忘れられないシーンが沢山ある。
特に一番好きなのが、トニーがヤーセルの車を修理するシーン。二人の動作を対にした一連の動きでまず鳥肌が立ったし、その後のトニーの引き返しには涙が止まらなかった。
出頭前にヤーセルが職場仲間の人達に心配される場面も好き。あの一コマで彼の人柄をすぐに把握できる。
ヤーセルが「中国製の工具は使えない」と発言したとき「お前分かってるな」的にトニーがチラッと見る所も大好き。
レバノンの歴史、宗教や内戦、難民問題を特に調べないまま観た。
最初は下調べしておけば良かったと思ったけど、映画内で要点はしっかり把握できた。変に説明的にならず話の流れからすんなり入ってくる分かりやすい構造だった。
観ているうちに出てくる疑問にきちんと答えを示してくれるのも良かった。
どちらが正しいなんて答えの無いデリケートで難しい問題をここまでエンターテイメントに落としこんでくれているので、法廷劇とドラマを楽しみつつ自分の生き方や考え方を改めて見つめ直すことが出来る、非常に面白い映画だった。
日本でも世界中のどこでも起こり得る事件で、舞台はレバノンだけど終始かなり近くに感じていた。
あの後も国の状態がどうなるか分からないけれど、たしかにふたつの小さな希望を見つけられて良かった。
関係ないけど裁判官や弁護士たちの服装がお洒落で好き。
間違いなく名作、だけど、、、
なんだろう、感動までは至らず。
歴史的な背景がわかると、
もっとぐっと入り込めたのかな。
中東の歴史は悲しい、悲しすぎる。
歴史は変わらない。
新しい時代へ。
でも、感情は残り、
それが争いを生む。
最後の終わり方は、
個人的にあまり好きではなかったのが残念。
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