判決、ふたつの希望のレビュー・感想・評価
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暴行しておいて無罪かよ
誰だよあの頭のおかしい法律考えたやつ。さっさと妥当な裁きをすればよかったのに胸糞悪い映画だった。問題を個別に考えられないのかと。暴言は悪い暴行も悪いと。法の元に平等とは聞いて呆れる。行為を裁くべきだし行為に至った過程や背景なんざ考慮に入れるべきじゃない。難民の野郎は勝手なクソ野郎としか思えなかったよ。
痛み
怒りっぽい二人。
でも最近巷を騒がせている、大人の形をした”キレ易い”自己中幼児ではない。
一本気で、頑固。
自分の仕事に誠実で、自信を持っている。
ー例え、相手がむかつく野郎でも、自分の専門分野での不具合を見つければ、直さずにはいられないほど、自分の仕事を愛している。
そして、その仕事への向き合い方は、周りからも認められている。
その仕事仲間・部下に対して、不器用ながらも、配慮しながら、仕事を回していく度量も持っている。
そんな、どちらも大人のふるまいができるはずの、似た者同士の諍い。
ちょっとした諍い?
電線が違法に張り巡らされ、中には切れて垂れさがっているものもある地域。
そこに、水をかぶった工員が間違って切れた電線に触ってしまったらどうなるのだろう。熟練工ならそんなことにならないようにするだろうが、未熟工なら?
単なる、「水をかけられて怒った」のレベルではないような気がするのは、私の考えすぎ?
だから、最初のヤーセルの怒りはごもっともだと思う。
だが、事態は雪だるま式にこじれていく。
何故? どう収拾するの?
そんな興味で話をぐいぐいと引っ張っていく脚本・演出・演技が見事。
弁護士って、顧客のために、顧客の意思に沿って動くのじゃないの?
映画は、法廷劇の形をとっているが、顧客を置き去りにして、顧客の意思に反した論争に発展していく。
それをさらにマスコミが煽り…と現代の縮図が描かれる。
そして、映画はある結末を迎える。
きっかけとなるのは、相手が知らなかったもう一方の相手の過去が法廷で明らかになること。
レバノンの歴史を知らない私にとっては、「ああそうだったのか」とカタルシスを得る展開で見事。
でも、レバノンの人々にとっては、キーワードは最初から出ていたから、また別の見方をするんだろうなあ。
歴史を共有できているかどうかで、目の前の事実に対する意味づけって変わるんだ。
知ろうとしなければ、理解しようとしなければ、偏見を持ち続けてしまう。
怒りの陰には、痛み・恐れが隠れている。
そのことに気づかなければ、怒りと破壊の応酬を繰り返すだけ。
悲しい連鎖。
自分自身の、大切な人の存在を否定されれば、怒りが出てくるのは当然。
その痛みをお互い抱えながらも、お互い傷つけあっている。
紛争している国・地域は、これに経済・政治・国際関係等幾つものファクターが絡んでいるから、一筋縄ではいかないけれど。
当事者たちは法廷の外でお互いの解決を見出す。
でも、この法廷がなければ泥仕合はまだ続いていただろう。
いろいろなことを考えさせられる。
何度でも繰り返し観るべき映画。
裁判物としても、実に見応えありました。
冒頭の「レバノン政府の考えではなく、あくまで制作者の考えです」とありました。
え?!。なんだかきな臭い話なのかも、と見始めました。
『工事中に排水管から水が落ちてくるから、と勝手に業者が排水管を付け直した』。
たったこの一行の事柄から、話がだんだん悪い方に進んでいきます。
そんなことで?。と最初は思ったけど。
謝るか、謝らざるべきか。
「今の時代は皆怒りっぽく、些細な誤解が大きくなる」
「あの街は、地区によって考え方が違う」
加害者の会社がいくら謝罪しても、なぜ許さず裁判にもっていったのか。
後半の裁判。お互いの弁護士の激しいやりとりなど。
その核心に迫っていく過程に、実にのめり込んでいきます。
もしかしたら、こうやって小さな火種が段々大きな闘いの火に、燃え盛るのかも。
そう感じずにいられませんでした。
とても考えさせられた1作。納得。
言葉の裏の怒り悲しみを知る
ののしったことで、暴力事件となり
裁判に発展していくが、それが人種、宗教、国際問題にまで
発展してしまうお話だ。
平和なお気楽日本人にはとうてい理解できない
複雑で悲しい物語がここにはある。
言葉や暴力が単純なことで起きたのではなく
長年のお互いの争いの中で悲しみ 苦しみ 怒りがあるなかでの
言葉や暴力なのである
観ていてやるせなくなる。
見どころは何と言っても裁判のシーンだろう
私も傍聴席の一人になった気分で
スクリーンに入り込んでしまった。
この作品を観て 争いはどちらも傷つき悲しみ互いに
恨みを持ってしまうのだと思った。
何故 許しあい受け入れることは難しいのだろうか?
それが簡単なら今頃どの世界も平和に
暮らしているだろうが
裁判映画の大傑作!
宗教や人種に関係なく、どこでも起こりうる諍いがきっかけ
宗教や人種、国、そして内戦などの歴史からくる衝突
そういう問題を描いている作品なのだろうと思っていた
けれど、それももちろん描いているけれど、そこを通して、人と人も描いている秀作だった
事の発端は、住民と工事関係者のちょっとした衝突
正直、日本でだって普通に起こる日常の問題レベル
だったはずが、レバノン人の住民が、工事関係者がパレスチナ難民だと気づいてしまったことから、事はこじれ始める
正直、最初はレバノン人のトニーがすごいレイシストっぷりで見ていて頭に来る
そりゃ、パレスチナ難民のヤーセルも素直に謝罪する気にならんわ、というか、謝罪する必要なくない?という気持ちになるほど
そんなふたりは互いに自分は間違っていないと思っているので、相手を悪く言い、謝ろうとしない
これは、日常によくあること、誰しも多かれ少なかれ心当たりのある諍い
そうして、ふたりの諍いは、どんどん泥沼化してしまい、とうとう法廷で争うことになる
一審から、控訴審、そして国中が注目し、政府も関与する大事件になっていく
国を巻き込み、それぞれが背負っている忘れることの出来ない、そして変えることの出来ない過去も明かされていくことで、この裁判にどんな判決が?この映画にどんな結末が?と思うほど複雑になってくる
しかし、最後は、この映画を観てよかったとしみじみ思える
そこには、救いがあるし、こじれてしまっても、まだ道はあるのではという希望を感じる
そして、そこに持っていくまでの流れと伏線が本当に素晴らしい
ここからネタバレ
大統領だったと思うのだけれど、そこに呼ばれて、和解を呼びかけられた帰り、隣同士で止まるふたりの車、そして、エンジンのかからないヤーセルを置いて、トニーは行ってしまう
と見せかけて、トニーは戻ってきて、ちょちょいっとヤーセルの車を直してしまう
何も言わずに立ち去るトニーを見ながら、心の中で「ありがとうは?ありがとうでしょ?」と突っ込んでしまうんだけれど、トニーが立ち去った後のヤーセルの微笑みが何か希望を感じる瞬間だった
そして、トニーが言わずにいた過去の傷が法廷で明かされた後、トニーのもとを訪れたヤーセル
何をいうんだろう?と思って見ていたら、ろくに喋らなかったヤーセルがびっくりするほどの悪態をトニーにつき始める
そして、トニーからの一発
トニーの深く辛い傷を知って、それならば、自分がどうして手を出してしまったか理解するかもしれないと、あえてきつい方法でトニーに伝えようとしたのか、それともこれでおあいこだとでも言いたいのか
けれど、ヤーセルはそのことを表では明かさない
そうして判決が出た後、握手もしないし、お互いを見もしないで法廷を後にするのかと思いきや、最後の最後で見せるお互いへの赦しと理解を悟らせる微笑み合い
あれを見た瞬間の気持ちは、ちょっと忘れがたい
タイトルなし
いつでもどこでもある話
レバノンでキリスト教徒のレバノン人と、移民でイスラム教徒のパレスチナ人が喧嘩し、レバノン人が裁判所に訴える。
ささいなことが発端だが、弁護士やメディアが加わり、政治的な様相を強めていく。
人類が平和的に共存していくことの難しさが痛いほどわかり、とてもやるせない気分になる。
宗教、観念の違いから起きた齟齬を悩みながらも、徐々に修復していく二人の男の姿を丁寧に描く、秀作。
パレスチナ難民の一例
ジアド監督が日本のプロモーションをしたんですね。
ベイルートに住んでいるトニー(レバノンのクリスチャン)とパレスチナ人で難民で仕事も自由に選べない立場のヤセルとの口論がクリスチャンとパレスティナ(イスラム教)に発展し、それから裁判問題に発展し、それが、トニーの弁護士(レバノンのクリスチャン)がシオニズムだとまで批判され、最後に、大統領が二人と話すことになる。、
法廷の判決が出るまでに二人心のの問題は解決しているという話。トニーの求めているものはヤセルの謝罪だけだから。
個人的な感想ですが、どの国でもどの場所でも起きる可能性のある、ヘイトスピーチだ。ヘイトスピーチが国をあげての問題になった。ヘイトスピーチ(例:イスラエルの大統領が、パレスチナ人を滅ぼすことを望む)トニーがこういう言葉をヤセルに言ったから(?)ヤセルがトニーを殴った。しかしトニーの心にはダムール虐殺(モスリムがこの土地を略奪)で難民になって、レバノンにきたという過去がある。
自分に過去におけるいやな経験があり、それを克服できないでいると、それに似たようなことが起こると過去の経験に照らし合わせて考えてしまう。例えば、あるベトナム人に金を取られたとしよう。そうすると、他のベトナム人にあっても金を取られると思ってしまう。そして、ベトナム人は泥棒と考えてしまう。人と人とのつながりは大切な筈なのに、ネット社会で生きている我々はそのつながりが気薄になってきて、これから、こういう問題がもっと増えてくるだろうと感じた。
Insult
二本立て二本目。 頑固おやじ二人の些細な衝突が国を揺るがす大騒動に...
個人と個人のトラブルに非ず、二つの国の対立と未来への縮図
レバノンとパレスチナの複雑な現状についてはほとんど知らない。
政治、思想、宗教、内戦、歴史絡み、遠い異国の日本人にはピンと来ない。
それを、個人と個人の問題として描いているのが秀逸。
本当に些細な“ご近所トラブル”が発端だった。
とあるアパートの修復工事。
住人のトニー(キリスト教徒のレバノン人)が流した水が排水口から漏れ、工事中の現場監督のヤーセル(イスラム教徒でパレスチナ人)らにかかる。
ヤーセルは排水口の修復をするが、勝手にやられたのが気に障ったのか、それをトニーが叩き壊してしまう。
ヤーセルはつい、「クズ野郎!」と罵り…。
これにトニーが激怒…いや、憎悪と言っていいほど。直接の謝罪を求める。
謝罪するのを拒んでいたヤーセルだったが、雇い主に説得される。
再びトニーの元に赴くが…。
なかなか謝罪の言葉を切り出さないヤーセル。
その時トニーが、ヤーセルを貶めるような侮辱的な言葉を浴びせる。
逆上したヤーセルはトニーに暴行を加え…。
トニーは肋骨を骨折。裁判を起こす。
が、最初の裁判は、トニー側に非があるとされ、ヤーセル側に有利に。ヤーセルは釈放される。
不服のトニーは控訴。
個人と個人のトラブルが、周囲の人々や国をも巻き込む大裁判に発展していく…。
拗れに拗れ、どうしてここまで拗れたのか。
どちらが悪い?…なんて、簡単に白黒付けられない。
修復しなければ違反になるのに、それを叩き壊したトニーにも非がある。
手を出してしまったヤーセルにも非がある。
暴行を加えられたトニーにも同情の余地はある。
侮辱されたヤーセルにも同情の余地はある。
最初の内に何とか解決出来なかったのか。
当人たちもここまでの大事は望んでいなかった。
トニーはただ謝罪して欲しかっただけ。
ヤーセルも暴行を加えた事は認めている。
だけど、どうしても退けない。
和解の場を一度逃してしまえば、後はズルズルズルズルと。
トニーは妻とぎくしゃく。
ヤーセルは職を失う。
当人たちも苦しいが、周囲の人々こそ気の毒。
心労から、身重のトニーの妻は早産。さらに裁判で、過去に難度も流産した事まで明かされる。
収拾付かぬ泥仕合。
トニーとヤーセル、それぞれに付いた弁護士は、何と父娘。奮闘しているが、裁判は言ってみれば、父娘対決。
各々がレバノン人、パレスチナ人である事が重石に。
パレスチナ人であるヤーセルへ、傍聴席のレバノン人からは非難の嵐。
レバノン人のトニーが発した侮辱的な言葉は、パレスチナ人の反感/憎悪を買う。
トニーの今も悪夢に見るある過去…。
この対立は遂には暴動へ飛び火、大統領まで動き出す事に。
個人の問題が波紋を広げ、国を動かす事は時にあるが、燻っていた感情が爆発したようなこの大揉めは滑稽でもある。
もはや個人と個人の問題ではなくなったが、当人同士は…。
ある人物との会談を終えたトニーとヤーセル。
それぞれの車に乗って帰るが、ヤーセルの車がエンスト。困っていた所を、トニーが直してやる。
ある夜。ヤーセルがトニーの前に現れる。トニーに挑発的な言葉を投げ掛ける。実は、この真意は…。
そして、拗れに拗れ、揉めに揉めた裁判の行方。
判決は…。
下された時の双方の表情。
長い闘いが終わった安堵感というより、この結果を望んでいたかのように。
それはただ個人と個人の対立が解決しただけではなく、レバノンとパレスチナの複雑な現状だって、いつかはきっと…。
判決 二つの希望
原題は「侮辱」なんだって
忘れずに前に進む……て難しいよ
と、こういうの見るといつも思う。
直接の加害者ならもちろん、こういう歴史的な確執の場合は、表面的には語れない…からこそ、表面的には争わずに済ましていこう、とてこなんだろうが。
こうやって、ふとした弾みで出てきてしまう。
出てきた「それ」を、またどうやって宥めていくのか、いけるのか、いくしかないのか、いくしかないよね、いけるよね、と段階を踏みつつ、前に進むしかない、んだろうな。
映画の中では、二人のラストにわずかな希望をみせて終わり、それしかないよね、と思わせる。
登場人物が全員、興奮している映画。
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