「感動に水を差すようでゴメンナサイ。少々、辛口です。」洗骨 マツドンさんの映画レビュー(感想・評価)
感動に水を差すようでゴメンナサイ。少々、辛口です。
普通、死者は遠ざけられ隠されるもので、土に埋めたり、火で焼いたりして決別するものですが、風葬でしかも4年後に骨を洗う、というのはちょっとビックリ。
洗骨はかつて沖縄本島を含む多くの島で行われていたようで、しかし1970年頃には、ほとんど行われなくなったようです。照屋監督が、粟国島を舞台に選んだのは、洗骨の風習が最近まで残っていた島、という事なのでしょうか。
では、なぜ、こうした風葬なのか。勝手に想像するに、こんな事ではないでしょうか。
・小さな離島で森林が少ないため、火葬に使えるほど木材が潤沢ではない。
・屈葬のような形で小さな棺桶にすることで、木材の使用を最小限にしている。
・強烈なにおいを避けるため、島の西側をあの世として人里から遠ざけている。
・墓の入口を石組みにすることで通気性を保ち、においがこもらないようにしている。
・大型の肉食動物がいないため、死体が荒らされることはない。
で、4年もたてば腐敗は完全に終わるのでしょう。その時に、洗うことで生きていた時の痕跡(例えば髪とか)をすべて剥ぎ取り、ただの骨にするのです。個人を特定できる諸々を失った骨は、この世との関係を断ち、あの世へと完全に移り住むことができる、と残された者は感じるのかもしれません。儀式とは、区切りです。
映画としては、どうか。死と生を結び付け、命の賛歌として感動的ではあり、重くなり過ぎないようジョークを織り交ぜる意図は分かるのですが、ちょっと吉本流に走りすぎた感があります。そして、「これが答えです」的なエンディングは、かなり頂けない。
そもそも、洗骨は女の仕事、特に長男の嫁の仕事とされ、戦後、女性解放や衛生面の意識向上から、洗骨廃止運動もあったという歴史を知ると(「洗骨 女性」のキーワードで、そんな内容のホームページにたどり着く、と家の奥様に教えてもらいました)、洗骨を感動的に描くことはどうなのか、という気持ちになります。
映画を成立させるために、歴史や文化を一面的かつ都合よく題材にする。実際に洗骨や廃止運動にかかわった人からは、どんな風に見えるのでしょうか。