「修復不可能なほど世界はねじれてしまったのか」ウトヤ島、7月22日 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
修復不可能なほど世界はねじれてしまったのか
2011年7月22日のノルウェー。
午後3時過ぎに首都オスロで政府庁舎爆破事件が起きる。
サマーキャンプ真っ只中のウトヤ島にもそのニュースは伝わり、参加した若い男女の間では童謡が広がっている。
そんな中、キャンプ場に銃声が響く。
オスロでの事件からおよそ2時間後の出来事だった・・・
というところからはじまる物語で、単独犯によるテロ事件としては史上最悪といえるレベルの事件の映画化。
映画は、はじめにオスロでの事件を当時の記録映像を中心に少し描いた後、ウトヤ島の事件へと突入します。
そして、その事件を、妹といっしょに参加した少女カヤに寄り添うようにカメラが捉え、事件の始まりから終結までの72分間をワンカットで撮っていきます。
オスロの事件のニュースを知って動揺を隠せないまま、乱射事件は起こり、カヤ同様、われわれも何が起こったのかわからないまま事件を応じ体験します。
遠くで鳴り響く銃声、今後の行動を巡っての仲間たちとの諍い、息を潜めての行動・・・
逸れた妹の行方を心配するカヤ・・・
と、これがフィクションならば、単なるサスペンスなのだけれど、そういうわけにはいかず、観ている方としても、「いま、どうするべきか・・・」とカヤとともに現場にいることとなります。
で、これはテロ事件なのだが、銃声が飛び交うなか、ということであれば、それはまさしく「戦場」。
現代の戦争。
暴力の極限としての行為にほかならず、そんなところには一秒たりとも身を置いておきたくない、というのが嘘偽りない気持ち。
そんな気持ちがあるので、「テロには、こちらも力をもって対抗すべし」なんて軽々しく言えない。
力=暴力、でしかないのは明白だから。
ではどうすれば・・・というのは、ただちには思いつかないし、また、この映画でも、その解決策を示しているわけではない。
ただ、映像が終わったあと、捕まえられた犯人が裁判にかけられた際のことが短く告げられうが、そこでは「テロ側は<敵>を認識している」と書かれている。
彼らにとって、被害者側のわれわれは「敵」なのだ・・・
観方は一面的ではない。
修復不可能なほど、世界はねじれてしまっているのだろうか・・・と暗い想いを抱いて、劇場を去らざるを得なかった。
なお、映画がどのように終わるのか・・・
それは、書かないこととします。