来るのレビュー・感想・評価
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「……げんさ、く……と、ちが……つ……り」
あの中島哲也監督の4年ぶりの新作!(公式の予告編では「あの『告白』から8年」と、『渇き。』がなかったことにされていて笑いましたが。)個人的には2006年の『嫌われ松子の一生』が、生涯ベスト5に入るぐらい大好きな作品なので、否が応にも期待は高まります。
さらに、映画の公開に先立って原作小説の『ぼぎわんが、来る』を読んでみたら、これが大傑作! すぐにその圧倒的な面白さに引き込まれ、最後まで一気に読んでしまい、続編の『ずうのめ人形』も文庫版を購入しました。
つまり、映画鑑賞前のテンションとしては“今年ベスト級の特大ホームラン”を期待していたのです。……結果は、“ポテンヒット”程度の当たりでしたが。けっしてどうしようもない作品という訳ではないのですが、期待が大きかっただけに落胆が激しいです。一幕目、二幕目まではむしろ誉めるべき点も多く、評価は☆4.0相当。しかし、三幕目が全くダメで、☆2.5。総合的には、☆3.5の佳作といったところでしょうか。
本レビューでは、本作『来る』を、原作小説と比較しながら批評していきたいと思います。全編ネタバレ全開ですし、かなりの長文になりますが、よろしければ最後までお付き合いください。
1.秀樹の章:人物の二面性を浮かび上がらせる
本作には「ぼぎわん」という完全に超自然的な存在のバケモノが登場します。しかし、本作はバケモノが襲ってくるだけの単純なホラーではありません。その存在は、人間のおぞましい部分や心の闇とも深く結びついています。本作ではそれを、登場人物の二面性を描き出すことで巧みに浮かび上がらせています。
原作小説は三つの章から成り、第一章では秀樹の視点から、第二章では香奈の視点から、第三章では野崎の視点からというように、章ごとに視点人物が入れ換わっていきます。異なる視点から見ることで、主観と客観の大きなギャップが浮き彫りになり、後の章になると、登場人物の印象がガラッと変わるという仕掛けが施されているのです。その変化が一番顕著なのが、第一章の視点人物である秀樹です。第一章では育児に熱心な“イクメンパパ”として語られていたのが、第二章の香奈の視点からは全く違った印象で語られます。
映画では、この視点の切り換わりがよりゆるやかになり、一幕目の時点ですでに不穏な兆候がいくつも見え隠れしています。ふとした時に見える、香奈の困惑したような、疲れたような表情、一見幸せそうに見える結婚式やホームパーティーの場面で聞こえてくる陰口や、悪意のある発言、そして秀樹が綴るブログの内容と現実の家庭の様子とのあまりに大きなギャップ……。これらの描写は不気味な雰囲気を漂わせつつ、同時に(不謹慎ですが)笑いを誘います。
このように一幕目は、一つの場面に幸せな雰囲気と不穏な空気の両方を入れ込むという映画ならではの語り口で、登場人物の二面性を見事に描き出していると思います。
2.香奈の章:子供を手放してしまった者たち
香奈の視点を中心に描かれる二幕目に入ると、いくつかの人物設定などの面で、原作との違いがいよいよ明確になってきます。
まず大きな違いとして、原作では秀樹の死後、野崎と真琴は香奈の元に足繁く通うようになり、知紗とも交流を深めていくのに対し、映画では香奈たちとの交流が約一年間途絶えてしまっていることになっています。その結果、香奈が頼る相手は野崎たちから津田(原作では「唐草」)に変更されているのですが、津田との関係は香奈にとっては“逃避”に近いもので、ここでは香奈のダークな面が浮き彫りになっていきます。知紗との間の親子関係もしだいに崩壊していき、その果てに、香奈は真琴に「じゃあ、(知紗を)あげるよ。あなたに」なんてことまで言い出す始末です。
香奈と知紗が駅のトイレで「ぼぎわん」に襲われる時、原作では知紗がさらわれるだけでしたが、映画では香奈の命までもが奪われています。これは香奈が母親として娘の知紗を心の中で“手放してしまった”からなのでしょう。
もう一つ原作と大きく違う点として、野崎の人物設定があります。原作では、野崎は「無精子症」で、そもそも子供を作ることができないのですが、映画では、前に付き合っていた彼女との間にできた子供を中絶し、そのことが彼にとってのトラウマとなっている、という設定に変わっています。つまり、野崎もまた生まれた命を“手放してしまった”経験をもっているのです。
これらの変更点は一概に悪い改変とも言い切れません。むしろ原作小説の終盤で明らかになる、「ぼぎわん」についての“ある秘密”とも結びつくため、物語に一層の深みを与えることもできたはずです。しかし、映画では、この“秘密”を描かなかった。「ぼぎわん」の正体も、なぜ田原家に「来る」のかも最後まで明らかにしていないのです。映画版『来る』の最大の問題点は三幕目にこそあると私は考えています。
※以下の3章では、原作小説でのみ明かされている、「ぼぎわん」の正体と田原家に“来る”理由について言及しています。原作を未読の方はご注意ください。ネタバレを読みたくないという方は、3章を飛ばして4章をお読みください。
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3.「ぼぎわん」の正体と田原家に来る理由
三幕目の中心は、本作のクライマックスにも当たる、「ぼぎわん」との対決の場面ですが、原作ではその前に、野崎と琴子が秀樹の両親の元や、祖父方の実家があるK──地方を訪ね、「ぼぎわん」の正体に迫っていくというパートが存在します。
ここで明らかになる真相は、非常に衝撃的なものです。
➀秀樹の祖父は、過去に子供を虐待死させている。祖母の志津はそのことをずっと怨みに思っており、“魔導符”を用いて田原家に「ぼぎわん」を呼び寄せた。
➁昔の村人たちは、子供を連れ去る「ぼぎわん」を利用し、“口減らし”のために「ぼぎわん」に子供を与えていた。かつて「ぼぎわん」と人は、ある種の“共存関係”にあった。
映画の序盤、居酒屋で秀樹と津田が「ぼぎわん」について話している場面でも、子供を連れ去る妖怪と“子捨て”との関連が示唆されていますが、その実態は“親の言い訳”どころの騒ぎではなかったということなのです。
そして、クライマックスの場面で「ぼぎわん」と直接対峙した琴子は、その姿から「ぼぎわん」の正体を見抜きます。
➂「ぼぎわん」は連れ去った子供を元にして、新たな「ぼぎわん」を作り出す。つまり「ぼぎわん」とは、かつては親に捨てられた子供の成れの果てである。
古来から近現代まで続く“口減らし”のための“子捨て”の風習、そして現代においても深刻な問題となっている虐待やネグレクト──「ぼぎわん」とは、このような「親が子供を捨てること」と密接に結びついたバケモノなのです。
だから、上記の「知紗を手放そうとした香奈」や「中絶を選択した野崎」の姿は、原作以上にこのテーマと深く結びついてくるだろうと期待していたのですが、映画では最後まで「ぼぎわん」の正体を明らかにしていないため、これらの改変が全く活かされていません。実にもったいないと思います。
4.野崎の章:派手な花火大会と地味な自問自答
「ぼぎわん」についての秘密を明らかにする代わりに映画で新たに付け加えられた要素が、全国の有力な霊能者たちを集めて行われる、大掛かりな祓いの儀式なのですが、残念ながらこれがクライマックスでの盛り上がりにそれほど貢献していないように感じます。
「ぼぎわん」が襲ってくる場面では、たしかに派手に物が壊れ、血が流れ、たくさんの人たちが次々に死んでいくのですが、ここでも「ぼぎわん」は実体を現しません。また、これらの破壊の様子から、「ぼぎわん」が“すごく強い”ということぐらいは分かるのですが、具体的にどのような力をもった、どんな大きさ・かたちのバケモノなのかはよく分からないままです。喩えるなら「明確なテーマがなく、何を表現しようとしているのか分からない、派手で大掛かりなだけの花火大会を見せられているような状況」なのです。
外で派手な破壊と殺戮が起こっていても、結局のところ「ぼぎわん」の本体を招き入れるのはマンションの一室です。アパートがマンションに変わっただけで、スケール感はそんなに原作と変わっていません。しかも、「ぼぎわん」との対決の場面では、野崎と琴子の行動に迷いが見られ、アクション的な(あるいは霊能力バトル的な)見せ場はほとんどありません。
原作では、「知紗を助けたい」という真琴の願いがこの対決の核になっていたと思います。いまいち真意の見えづらい琴子でさえ、実の妹である真琴から「知紗ちゃんを助けて」と直々に頼まれたことで、「知紗を取り戻す」という目的は最後まで一貫していました。しかし映画では、二幕目での真琴と知紗の交流の場面が大幅にカットされているため、そもそもの真琴の動機が薄まっており、琴子に知紗の救出を依頼する件りもなくなっています。だから映画での琴子は、あくまで霊媒師として「気の流れを正常に戻すため」に祓いをおこなっているに過ぎず、野崎に対して平然と「この子(知紗)は異界に戻します」と言い放ちます。
そして野崎は、堕胎についての設定が付け加わっているためか、知紗を助けるか否かでいつまでも踏ん切りがつかず、ぐじぐじと悩み続けます。過去にまつわるイメージや目の前の琴子と向き合いながら、自問自答のようなやりとりを延々とくり返すのです。肝心の「ぼぎわん」との対決は端に寄せられ、野崎の内面での葛藤がこの場面の中心になっています。
結果的に映画の三幕目は、大掛かりな祓いの舞台を用意したにもかかわらず、原作以上に盛り上がりに欠けるクライマックスになってしまったように感じます。
本作の一番の問題点は、そのタイトルに端的に表れていると思います。つまり、「ぼぎわん」を消してしまったということです。登場すれば大いに盛り上がったであろうクライマックスにさえ実体を現さず、その正体も明らかにされなかった「ぼぎわん」……。
本レビューでは、その無念を晴らすため、あえて“あれ”とか「●●●●」などと表記せず、「ぼぎわん」とはっきり表記しています。あしからず。
来る
2018年102本目の劇場鑑賞。 澤村伊智による第22回日本ホラー小説大賞受賞作「ぼぎわんが、来る」を中島哲也監督が豪華キャストの共演で映画化した戦慄のホラー・エンタテインメント。 謎の怪異に取り憑かれた一組の家族と、 その正体を突き止めるべく調査に乗り出したオカルトライターが、 民俗学者や霊媒師らの力を借りて想像を絶する最恐の敵に立ち向かっていくさまを鮮烈に描き出す。 原作は未読。 小松菜奈目当てで鑑賞。 タイトルの“来る”というのは、 原作小説のタイトルあるもので既に名前だけネタバレしてる。 劇中では三重県に伝わる妖怪だとちらっと言っただけ。 以降は“あれ”呼ばわり。 主人公が入れ替わる三章からなる構成。 気になる小松菜奈は、 ピンクの髪のギャバ嬢霊媒師を演じてたけどやっぱり可愛かった。 田原秀樹演じる妻夫木聡のクソっぷりも良かった。 “あれ”の正体は明確には明かされないものの、 物凄い力を持っているというのは伝わってきます。 沖縄から来たおばちゃん霊媒師たちは完全にコメディだった。 松たか子演じる比嘉琴子は最強な霊媒師で、 “あれ”の事も全てお見通しなわけで、 クライマック行われる大規模な除霊の儀式は、 ホラー映画とは思えないほどお金がかけられている感じで、 エンターテインメント性があって見応えあり。
小説を読んだ人には向かない
小説を読んでいたので、映像化に興味があり前売りまで購入して楽しみにしていました。
しかし全く別の物語だったので、ガッカリです。
それでも面白ければ物語にのめりこめたのですが、登場人物には共感も出来ず、自分が常に傍観してる立場なので、怖く感じられない為ハラハラドキドキなどせず。
また、映像化での一番の興味が、ぼぎわんをどう表現するがだったので、その失望もあります。
小説を読んだ人は、期待して観にいってはダメです。
うーーーーーんうんうーーーーん
原作の小説を読んでから映画を見ました。 小説が面白くて怖かったので映画の期待が大きかった分、ん?って思う部分が少々ありました。個人的には小説の方がお祓いのシーーンやラストシーーーンが好きでしたたた。小説を読んでいなかったら後味モヤモヤ系映画になるのかなと思います。そこがいいのでしょうかかかか。岡田くくんがかっこよかったので良かったです。6年間小説を読もうと思わなかったのですがこれは気になって3日で読めました。小説も合わせて読むことをおすすめします。
やっと出会えた最高の一本 絶対みて欲しい
面白すぎて公開3日目ですが既に二回観にいきました。凄すぎるほんとうに凄かった。オープニングからラストまでカッコいいカット、音楽、表現が多くてまず引き込まれる。さすが中島監督って感じ。前半で妻夫木家やそれを取り巻く人々の闇を描きつつ段々と本性が明らかになるところがゾクゾクさせられた。アレの恐怖もありますがやはり怖いのは人というのがすごく良かった。妻夫木君と黒木華の演技力の高さにグイグイ引き込まれて、もう怖い怖い。家庭と人が崩壊していく様子が辛かった、と同時に興奮した。後半はお祭り騒ぎでカッコいいしもう色々訳のわからない感情が湧き上がってきて『この映画凄い』と思わざるを得なかった。そしてあのオチには痺れさせられた。 カッコよさとか怖さだけじゃなくておそらく中島監督がテーマにしているであろう 命 についても考えさせられる作品だ。ただ、ジャパニーズホラーを求めてこれを観るのはカメラを止めるなをゾンビ映画と思って観るぐらい違う。この映画に対する批判をしてる人のほとんどがいわゆるお化け的な恐怖を求めていた人だ。この映画のテーマは人の怖さでありお化け的な何かではない(もちろん ぼぎわん も相当怖いが) 告白や渇き的な面白さなのでその二つを面白いと思った人にオススメ 割とグロくて重めなのでデートで行こうと思ってる人はやめたほうがいいです。
原作未読。だからかな?良かったです!
これホラーなの?って意見が散見されますが、リングや呪怨とは種類は違いますが、僕からしたら十分ホラーでした。 ホラー見慣れてる人からしたらさほど怖くないのでしょうか? みなさんおっしゃってますが、見る人によっては名作にも駄作にもなり得る映画なのかもしれませんね。 個人的には綺麗な映像と姿を見せない「アレ」の恐怖が伝わり十分怖かったです。 原作これから読んでみます!
ホラーと思って観に行くと肩透かし
リング系のジャパニーズホラーだと思って観に行った私は肩透かし喰らい、怖さは全くなし。「エンターテイメント」って宣伝されてたので看板に偽りなし。
話の展開は意外だったりするし、いろんな宗教・霊媒師がごちゃ混ぜで出てきたりで面白い要素は入ってますが、何も残らない感は他の方が書いてられるとおりかと。でも「エンタメ」ってそういうモンですよね。
批判の多いラストも、女の子が普通のかわいい子なんだと思わせてくれることと、バタバタ人が死んでく中で最後に明るさ出してくれることで、私は好きです。
ホラーエンターテイメント
湿っぽいホラーを期待すると肩透かしになりそうな感じで監督のアクの強さで人を選ぶと思いますが自分はかなり楽しめました。 終盤、とにかく倒す!という流れになるのでエンターテイメント性が強くホラーが苦手な人でも見れると思います。 ぽぎわんとの対決で日本最強の霊媒師松たか子に呼ばれた各地の霊能力者が集結して一斉除霊?は見ごたえあり、そこまでの準備はシン・ゴジラを少し思わせるモノがありました。 霊媒師の一人として出てくる柴田理恵はかなりカッコよかったです。
エンタメ期待する人は大人しく他の映画見ましょう。
正直、観ながらかなり戸惑ってしまいましたねぇ。 映像は邦画としては一級品で眼を見張るものがありますが、あまりにも説明不足な箇所が多すぎるというか…。 コクソンっぽいと聞いてたのでそっち方面の面白さも期待したのですが期待ハズレ…。コクソンは一見意味不明ながら、深読みしたくなる厚みを感じさせるのに対して、こちらはどうも薄っぺらく感じてしまって仕方がない…。 疲れたぁ。これは観る人選ぶだろうなぁ。
なぜホラーというジャンルだったのか・・・
ここでチケット予約する際、レビュー評価がエライ低くて『大丈夫かな?』って思ったんですが、観終わった後『あぁ、なるほどw』と思いました。
中島哲也監督作品にありがちな物語の構成の仕方や伝えたい(?)テーマを描くにあたって《ホラー》というジャンルを選んだこと、色々と裏目に捉えられてしまったのもあるかなー。
ターゲットは恐らく《いいパパ、いいママであろうとする幼児虐待予備軍》だと思うんですが、その辺りに無自覚に恐怖心を植え付けようとするならホラーというジャンルは選ばない方がよかったのかも・・・ 。
人は民間伝承だとか《いい伝え》を無意識に避けたりしますが、そういう意味合いで民間伝承とホラーを結びつけたのかもしれないですが、ホラーの時点で観る気がしなくなってしまうような気がします。
だからCMはザキヤマさん起用でホラー感を抑えたのかな??
呉監督の《きみはいい子》だとか是枝監督の《誰も知らない》とかの方があからさまに嫌悪感は感じるけど、その分ずっしりと心に残りましたが、あぁいうジャンルでも中島監督ならうまく描けたんじゃないかなーと思いました。
ただ中島監督作品好きな僕的にはそれなりに面白く観れました。
真琴と野崎のコンビは子供を失ったからこそ、二度と戻らない《それ》から逃げてはいけないということを知っている。だから優しくなれる。
香奈は気づくのが遅かった・・・ ということかな?
ラストのオチのシニカルな描写は『中島監督らしいなーw』と思いました。
ひとつとても気になった点は物語に決着をつけるためとはいえ、野崎が琴子登場以降、頼りない情けない感じに急激にキャラ変したところ。
除霊中にトイレに行くくだりとか、かつてない異常事態に戸惑うというレベルではないキャラ変具合が違和感ハンパでなかったです。
とにかく上手い。作りが上手い。
ホラー監督 が ホラー映画 を撮るのとは違い、 恐れ多くも 中島哲也 監督は 狂気の天才 であり、 狂気監督 がホラーを撮ったので ホラールールが破壊された トラウマに凄い空間から出られない映画 が、出来てしまった。 なので自分の感想は恐怖を超え 『 全てが凄え 」 という身体放心状態。
まあこの位の作品だと思ってたが?
話が前後してテーマは現代にありがちなとで良かったのだが死んだ人が何度も登場したり結局何だったか解明されないままで長過ぎ!松たか子は警察も動かせるほどの人物であれは警察組織も承諾して出動する程の大事なのに結局解明されぬまま半端に終わり?
怖くて面白くて怖い
虐待とか母子家庭とかいろな社会問題、とか、心の闇、とか、そういう枠にちまちまと囚われずに、思い切り好き放題やったって感じですね。 面白くて怖かった。 「ホラー」というラベルのせいで見ない人が多そうだし、逆に、ホラーのファンはこんなのホラーじゃないと言いそうだし、ラベル貼りが損になってそうでもったいない。もしどうしてもラベルが要るなら「中島哲也」でしょう。
来ないで
こわかったですふつうに、、、 中島監督作品見たさで、自分はホラーが苦手なことを忘れて不覚にも見に行ってしまいました。ひたすらビビリなので怖すぎて泣きそうになってました。 でもやっぱり映像、演出、エンターテイメント性が好きです。繊細に描かれたホラー描写から突然のポップな局長、映像。butterfly流しちゃうとことか大好きです。 内容に関しては、登場人物の背景がそれぞれしっかりしすぎて、結局来たのはなんだったのか、何しに来たのか、妻夫木聡の地元の山がメインなのか現代家族の闇がメインなのか、情報量多すぎて追いつかなかったです。 あ
ほんとうに怖いのは、人間のエゴ
豪華キャスティングのホラー映画ということで公開前から話題。原作は"第22回日本ホラー大賞"に輝いた澤村伊智の小説「ぼぎわんが、来る」。
岡田准一が主演かというと、そうでもない。中島哲也監督のもとに、揃いも揃った黒木華、小松菜奈、松たか子、妻夫木聡それぞれが、きっちりとエピソードを持った役柄を演じているので、見どころたっぷりのオールスター映画である。
ホラー馴れしていないと怖いかもしれないが、ホラー好きには見慣れたシーンを組み合わせただけの、"あるあるホラー"。むしろ笑える。多くの名作ホラーの要素を踏襲し、"悪魔祓い"は、宗教こそ違えど「エクソシスト」(1973)だし、各種スプラッター系のグロテスクさや、滝のように流れる大量の鮮血など、オーソドックスなホラー博物館である。
"B級ホラー"という言葉がある。それは低予算セットやVFXだけではなく、出演者の演技に起因していることもままある。アイドルの初出演するホラーは、"キャーキャー"と悲鳴を上げてれば、ヘタな演技をさせるよりツブシが効く、という理由だったりする。
もちろん本作はB級ではなく、実にソツのない優等生である。そういう"B級"とは一線を画する演技力。一流がホラーをやると、こうなるのね。妻夫木聡は何をやっても上手いね。
顔にキズ跡のある、松たか子のナンバーワン霊媒師。その妹の霊媒師を演じる小松菜奈は、髪をバッサリとショートにしてオレンジ色に染め上げた。
一方で、本作は厳密にはホラー映画ではなく、メッセージ性あるヒューマンドラマだ。この作品でほんとうに怖がらせたいのは、"人間のエゴ"。
自分を守るためにつく嘘。自分を正当化するために否定する、相手の行動。誰もがやっている"本音とタテマエ"。世間体のために取り繕うことを"ぼぎわん"は、襲ってくる。観終わってからじわじわとくる、"怖いのは、人間”。
(2018/12/7/ユナイテッドシネマ豊洲/シネスコ)
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