「『教えられることは◯◯◯くらいしかなかった』という寂しさの衝撃」万引き家族 ヤスさんの映画レビュー(感想・評価)
『教えられることは◯◯◯くらいしかなかった』という寂しさの衝撃
難解なイメージもありますが、問題提起と回答は明確な作品だと感じました。「万引き家族」というキーワードの前半「万引き」が目立つので貧困や犯罪や日本社会にも思いを巡らせましたが、メインの問題提起は「家族」の方かなと思いました。この家族の大人は収入がありますので、本当の貧困だから万引きをするわけではないのだと思います。コロッケは普通に買っているし。
これは万引き(もしくは他にも明らかになる犯罪)によってつながっていた家族の物語です。
【問題提起】
家族の絆とは何か?何によって人と人はつながるのか?
【回答】
お互いが家族であることを確認しあうことで家族はつながれる、というメッセージなのだと私は読み取りました。
この映画を見ていると様々なパターンのつながりが示されています。
血のつながり、
金のつながり、
身体のつながり(男女関係だけでなく子供をぎゅっと抱きしめるスキンシップも含まれる)、
一緒に食事したり海に出かけたりという時間を共有するつながり、
助け合うことによるつながり、
教える/教えられるのつながり
そして犯罪を共有するというつながり。
「万引き家族」というタイトルそのものかもしれないけど、万引き以外にも過去に犯罪を共有しているという衝撃、そんなつながりもあるのか、と、驚いた。
しかし、血以外では全てつながっている治(リリー・フランキー)と祥太は、最後まで家族になりきれなかった、と、私は読み取りました。でも、その理由は血がつながっていなかったからではありません。
「お父さん」と呼んでほしい治も、わざと見つかるように万引きをして警察から家に連絡させる祥太も、お互いが家族であることを確認しあいたいのだと思うのです。
駄菓子屋(柄本明)の言葉に動揺する祥太は、悪いことだから万引きを辞めたいのではなく、治に父親として世の中のことを教えてほしいのだと思います。「お店に売っているものは、まだ誰のものでもないから万引きしても良い」という理屈と同じように、車上荒らしをやっても良い理屈を治から教えてもらうことで、祥太は安心したかったはずです。ですが、きちんと祥太と向き合わない治。
治は寂しい人だな。取調室での「教えられることは万引きくらいしかなかった」と発言するシーンで、私は最も寂しさを感じました。祥太を置いての夜逃げも、最後に「お父さんからおじさんに戻る」という告白も、バスに乗る前に引き止めるのでなく発車した後に追いかけるところも、寂し過ぎる。苦しい。辛い。
こうしてお互いを確認しあえなくて崩壊した家族は、この家族だけではなさそうです。貧困ではなく血もつながっているであろう、ゆりの家族も、亜紀(松岡茉優)の家族も、きっと同じ。どうやら、お互いが家族であることを確認しあえない原因は、貧困とは別のところにありそうです。
原因は、「教えられることは万引きくらいしかなかった」という言葉の奥にある治の自信の無さなのでしょうね。寒い日に外で凍えているゆりに気付いて手を差し伸べる温かさもある、遅くまで帰ってこない祥太を探しに行く優しさもある、しかも怪我をすれば(善悪は別として)高額なルアー万引きのような新しい稼ぎを思いついたり遺体を床下に埋めたりといった行動力もある頼れるおじさんだとも思いますが、きっと自分に自信が無い。
『でも、他にも教えられることはいくらでもあったでしょう?』って、治に言いたくなりました。そして、『祥太の不安を受け止めてやってよ!』とも。
いや、でも、あれだけ自分自身が寂し過ぎる治には受け止めきれないか。。。この自信の無さや寂しさを解消するには、やはり家族のつながりは必要なんだろうか。これでは理屈は堂々巡りだけど、そうなんだろうな。自信が無いから家族であることを確認しあえない、家族であることを確認しあえないから自信が無い。いつまでも寂しさのループから抜け出せない。そして、お互いが家族であることを確認しあえなければ、血がつながっていても、裕福であっても、家族は崩壊する。辛いな。
寂しさのループを抜け出したいのならば、まずは、お互いが家族であることを確認するところから始めていくのだろうな。
決して後味が良い映画とは思いませんが、いろいろ考えさせてくれる良い映画ですね。松岡茉優さんは、いつも通りカワイイです。