運命は踊るのレビュー・感想・評価
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運命の理不尽さ
イメージで語るのが映像の醍醐味だが、本作はその醍醐味に溢れている。玄関に飾られた抽象絵画、繰り返しのデザインが印象的な床のタイル、検問所を悠々と通貨するラクダ、鳥の大群、車に大きく描かれた金髪の美女など、セリフや人物の行動とともにそれらのイメージが雄弁に作品のテーマを語る。
邦題『運命は踊る』とあるが、運命とは超然的な力だ。個人がよかれと思って行動したことが、予期せぬ結果に収束する。これが運命だ。息子を助けたい親の行動が、息子を追い詰める。世の中はそんな風にままならないことだらけで、人は運命に導かれ結局同じ悲劇を繰り返す。原題はフォックストロットというダンスの一種から取っているが、その繰り返す運命の比喩だという。
これはイスラエルの物語だが、観客に突きつけるものはイスラエルの問題ではない。人間の運命の理不尽さが的確に描かれている。
こんなにも不可思議な構成で運命を描き出した怪作
こんなタイプの映画は初めて観た。宣伝のチラシには本作が並外れた映画であることが記され、現にヴェネツィアでは審査員グランプリを獲得するほど激賞された作品だ。
正直言って、私にはこれが傑作なのかどうかは判断つきかねるところがある。むしろ、評価や満足などの「人の手によるラベリング」の域を超えて、不気味に体内へと侵食してくる映画のように思えてならなかった。
これまでにも「運命」というものを捉えた芸術作品は星の数ほどあったろう。しかしそれをこんなに特殊なカメラワークと構成、リズムとテンポ、語り口で描き出してしまうことに、胸の内側が静かに沸騰させられた。何よりも、眼前に生贄のごとく吊るされた運命を、これほど俯瞰して見つめた作品は他にないと思うのだ。近隣の国や地域と衝突を繰り返すイスラエル。だがこの映画は、宗教や政治、主義、主張、その全てを超えて、世界の共通言語として受け止められる。そう強く思った。
おもしろくはないです。が、
「人生」を正確に描いている。
『どこで』間違ったのか。『なにが』間違いだったか。そもそもヨナタンの死は、間違いではなく『当っていた(決まっていた)』のか。どこでどうなっていれば、『息子が生きている世界』だったのか。
もしかしたら、誤報と軍の態度に激怒した夫が息子を呼び戻さなければ、事故に合わなかったのかも、『息子が生きている世界』だったかもしれない。しかし、息子は息子で誤射で殺してしまった罪の意識に追込まれ、いずれは自殺していたかもしれない。
この、息子の方で起きた事件が、「if」と考えたときにも、同じような結末を迎えてたのかもしれない。どちらにしても『息子の生きている世界』はなかったようにも思える。
戦地に送った時点で、決まっていたのかもしれない。
飼い犬は、蹴られても主人に寄り添おうとする。それは、エサをもらうため、生きるための行動かもしれないが。自然界に生きるらくだにとって、人工的な道路はただの通り道の一つに過ぎない。登場人物すべてが人間らしく、身勝手で、無責任で、弱くて。
最後ヨナタンが描いた絵は、ただの事件の罪悪感の記録だった。軍は、個人ではなく集合体だから。ヨナタンはそれを口外する事は許されない。
そして、その絵を解釈する夫婦は、どこか滑稽で。軍関係者のテキトーさを忘れ、どんな意味があるかなど深追いをせず、ただ自己投影する。
「どうやって、なぜ」死んだかわからなかった最初の知らせとは違い、
「家に帰る途中、事故で」死んだとわかっていた2人は、無意識にどこかで納得している。
原題の『FOXTROT』は、4拍子の社交ダンスという劇中にも出てくるステップの意味だけど、『運命は踊る』の邦題もぴったり。
劇中、ステップを踏みながら『どこへ行こうと必ずおなじ場所に戻ってくる』と泣き崩れるシーンは、戦地に送り出した時点で『息子が生きている世界』はなかったことを示唆している。どう選択しようと、そうなったいたんだろうなと。
ラストシーン、引きで見せる交通事故のシーンは、なんとも滑稽であっけなくて。でも運命を感じる。おもしろくはないです。が、素晴らしい映画。だと思う。
必ず同じ場所に帰るダンス
どういう道程であろうが運命には逆らえない、というテーマが裏でずっと流れてる。ある。作中、誤ってヨルタンが殺したあの4人が車ごと埋められたことについて「戦争はなんでも起こり得る」と上官が言った。が、戦争だけではなく人生の廻り合わせはなんでも起こりうる。で、同じ場所に戻る。ゼロ地点に。
「人生の」みたいな大きな枠組みで物語を捉えたくなる映画でした。
【戦争による死が日常生活の中にある恐ろしさ。戦争の愚かさを戦時場面一切なしにシニカルに描き出すイスラエル映画。】
ー 三幕構成の映画。ー
<第一幕の印象的な場面>
・ミハエルとダフナ夫婦に息子ヨナタンの戦死が突然軍役人から告げられる。呆然とするミハエルと失神するダフナ
・葬儀段取りを事務的に説明する従軍ラビ
・ミハエルの兄、アヴィクトルの訃報の文を推敲する姿
・ミハエルが施設で暮らす母に息子の死を告げに行った際、フォックストロットのステップで踊る男女達
・ヨナタンの死が誤報だったと告げられ、激高するミハエルと落ち着きを取り戻す妻、ダフナ
<第二幕の印象的な場面>
・イスラエル国境付近ののどかな検問所前をゆっくりと歩むラクダ。暇を持て余すヨナタン達若き兵士
・夜中、検問中にある小さな出来事がきっかけで起こる惨事。それを”戦時中には何でもありうる、何もなかったことにする”という上官
<第三幕の印象的な場面>
・冒頭のミハエルと妻ダフナの遣り取りで、ヨナタンの死が仄めかされる。誤報ではなかったのか? そして、真相を語る淡々とした映像
<戦争に起因する死が日常の中にあるイスラエルの現状が、静かなトーンで語られる反戦映画の秀作。>
ミハエルを演じるリオール・アシュケナージー(テルアビブ生まれ)とダフナ演じるサラ・アドナー(パリ生まれのイスラエル人)の演技も印象的であった。
追記:サラ・アドナーはこの作品の少し後に公開された「彼が愛したケーキ職人」でも拝見した。少し、シャルロット・ゲーンズブールを想起させるアンニュイな雰囲気が印象的な素敵な女優さんである。
<2018年9月29日 劇場にて鑑賞>
自主映画こじらせテイスト
イスラエル映画ってこうなのかしら?
軽くこじらせてらっしゃる。
嫌いじゃないけども、深読みしたくなるような捻り方ではないです。キレイだし、面白くもあるのだけど…。
見ながら家族の誰かが死んだら…など考えにふけったことは
まぁ、よい時間ではあったかな。
「運命は踊る」と言うより「因果は巡る」
あらー、期待してたのに。映画になっとらんこと無い?な、1stパート。ヨナタンで盛り返し、鈴木家の嘘を思い浮かべてしまう展開へ。
何かが違う感が、結局最後まで抜けなくて、入り込めまへんでした、御免なさい、好演のお母さん!
どこにも行けない
極めてシンプルだが、運命とは何か、只の偶然と言えたら良かったはずのできごとがこんなにも連鎖してしまうことの残酷さを見せつけられた。
あそこであの出来事がなかったなら...そういうことを殊更に、ある種執拗に、この映画は攻めてくる。最初は意味が分からなかった台詞やシーンも完全に落とし込んでくる。ある種曖昧さを許さない。
どれだけステップを踏んでも元の場所に戻ってきてしまう...タイトルのその意味を考えたとき、本当に悲しくなる。
画が綺麗なのと、身近なところで痛みを感じる描き方が圧巻だなと思った。火傷とか、ひび割れとか。ちょっとした(けれど確実に経験がある)痛みがひどく心を動揺させる。
突然に訪れた悲劇的な状況に翻弄される家族。 緊迫感が滑稽でシュール...
突然に訪れた悲劇的な状況に翻弄される家族。
緊迫感が滑稽でシュールな状況を巻き起こし、妙な映像と間をもたらしていている様はナンセンスで面白い。
一つの悲劇から崩れて行く家族、
美しい映像に妙な静寂。
運命という大きな波にのまれ最初に戻る様な、深い悲しみの中にスッキリとした気分を味わった。
言いたいことは…
全体が3部に分かれている。まず、ある夫婦が
兵役中の二十歳位の息子が死んだと知らされて、数日後それが間違いだったという知らせを受ける。役人に「今すぐに息子を返せ!」とたいそう怒る夫と、なだめる妻。
一方その頃息子は国境で3人の同僚と警備に就いているが、缶詰めを食べ、漫画を描き、意外にのほほんと過ごす毎日。こんな状況で戦死する筈もない。そんな中、同世代で女の子達と楽しそうにドライブする車が通り、検問の際にちょっとした手違いで大変なアクシデントを起こし、仲間と揉み消す。その後に自分だけ自宅に呼び戻さる。
彼が描いていた漫画が動画になる。
再度、夫婦の自宅で、息子を失って夫婦関係がうまくいかなくなり、離婚寸前の状態。息子は呼び戻した筈なのに。今度は妻が激しく感情をぶつけ、夫は言われるがままになっている。しかし悲しみをぶつける中で、何かが蘇り、何かに気づく。
最初と最後のシーンが、息子を迎えに来た車だった。
何を言いたいのか明確に描かれておらず、それほど重い作品ではない。しかしどのシーンも何かを訴えるものがあり、観客はそれぞれ何かを受け取った感じ。
運命は踊る、されど進まず
手のしわとしわを合わせて、しあわせ。手の節と節を合わせて、ふしあわせ。では、手の傷と傷を合わせたら…?。
私は貝になりたいどころか、私はラクダになりたくなるような話ですね。皮肉な宿命、ちょっと受け入れるのは、しんどい。それでも生きていく。それでも一歩踏み出す。たとえ元の場所に戻ってくるとしても。
中島みゆきの「糸」ではありませんが、縦の傷はあなた 横の傷は私 織り成す想いは いつか誰かの…で、あってほしいものです。
不覚にも寝てしまったが‥‥
不覚にも途中寝てしまった!
ぜったい面白いに違いないと思って、期待して見たのに、何たること。
言い訳すると、面白くなかったから寝たんじゃなくて、死んだと思われていた息子が国境警備の任務についてるシーンが、ホントに退屈な任務で、見てるこっちも寝ちゃうくらい退屈だったのだ。
邦題の「運命は踊る」の言葉からくる印象と違い、物語は淡々としている。
息子の死を知らされたら普通は泣き叫ぶであろう母親は、言葉も発することなく早々に気絶してしまったので、父親が淡々と悲しみを引き受けていく。
人生はどんなに波乱万丈であろうが、淡々としていようが、原題の「Foxtrot」というダンスのステップのように、本来の位置(道筋)に戻るものなんだと、生死という最大の皮肉を込めて映画は私たちに教えてくれる。
つまり、生き死には誰のせいでもない、ということか?
戦争がなくても、若くして死んでいたか?
と、こちらも突っ込みたいところだが、これは戦争の是非を問う映画ではなさそうなので、この物語の不条理を不条理にかみしめます。
懐かしいような新しいような、
不条理な物語。いや、これ実話を元にしてるのか。…だとしたら「映画化」とはこういうことだよねーが全部詰まったような作品。ストーリー、伏線のはりかた、音楽、カメラワーク、美術、どれもこれも凝っていて良くできているなぁー。タイトルからして深い。
短大時代に映画概論という授業があった。その授業は1本の作品をまるまる鑑賞して、見終わった直後に、もう一度頭から教授の解説付きで作品を見直すという、いろんな意味でたまらない授業でしたが、この作品は間違いなくその題材になるだろうな。
そしてヨナタンなにげにダンスうまい。印象に残るシーンがめちゃくちゃ多い作品です!
もう少し詰めればピりっとしたように思うが
ある日、兵役中の息子ヨナタン(ヨナタン・シレイ)が任務中に戦死したという報せが届く・・・
というところからはじまる物語で、動揺する夫妻を描いた後、息子の死の報せは誤報だったことがわかる。
誤報ならば、息子をすぐに帰還させろと息巻く父ミハエルが映し出された後、映画は、ヨナタンが任務に就いている辺鄙な検問所のエピソードへと切り替わる。
むふふ、なるほど、両親のエピソーの前に起こった息子のエピソードを描くわけね。
と、納得し、とすると、その後は、帰還した息子のエピソードが描かれるのだろう、と、まぁそのあたりは想像に難くないし、それに近い展開となる。
悪くはないし、タイトルどおり、踊る運命も描かれ、それを象徴するダンスステップのフォックストロット(原題)の説明も入るので、懇切丁寧な感がなきにしもあらず。
エピソードごとに登場人物たちの心情も丁寧に描いていて、緊張と緩和のバランスも巧みなのだけれど、どうも、俯瞰ショット(さらに丁寧に移動までする)の多さは、ちょっとやりすぎ感があって、興ざめ。
俯瞰=ひとと異なる視点、であり、神の視点、運命の視点というところなのだろうが、多用しすぎで、効果が減じられているような感じ。
割けたはずの運命が、再びやってくることを、同じところをぐるぐる回るだけのフォックストロットに喩えているのだから、そのステップの足跡をみせて、俯瞰シーンはもう少し削れなかったか。
それほど捻ったストーリーでもないし、三幕物のピリッとした小品ならば、あと15分ばかしは削れるんじゃないかしらん、などと思った次第。
おかしな国
なんとも皮肉な運命のいたずらを描いている。話の筋としてはそれだけなのだ。後になってから、余計なことをしなければよかったと思うことは、人生の中でままあることだ。
それだけの話を映画がどのように表現しているのかをじっくりと味わいたい作品である。
多用される垂直方向からの俯瞰のショット。懐かしさを掻き立てる音楽。兵士たちの休憩小屋の傾きなどの、寡言にして雄弁な演出。陰陽的な照明。
いつも被写体となっている人物のあずかり知らぬところで、重要な事態が進行する。
そして、いつしか観客はイスラエルという国の滑稽さに辿り着く。事態は当事者にとっては深刻なものだが、それらを引き起こした原因は非常におかしなもので、おそらく世界にこのような国は他にはないだろうと思わせる。
なぜ義務教育で「中東情勢」を教えないのか?
本作品は、4か国合作の作品である。
私の世代には、難しすぎる作品だというのが感想だ。
この作品の惹句
「人は、運命を避けようとしてとった道で、しばしば運命に
出会う。」⇔「フォックストロットに尽きる。
「イスラエル国」が参加していること点を注視しなくてはいけなかった。私自身、あろうことか5分遅れて着席してしまった。
映像がどこの国の場面が映し出されているのか全く判らなかった。結局、主人公のフェルドマンは、どこに住んでいる人間?かも判らなかった。その息子もどこに徴兵にとられているのかも皆目見当がつかなかった。見始めて「ヤバイ、難しい映画かも…。」という不安が頭をよぎった。だいたいの「あらすじ」は、パンフレットで知りつつも、今回も「中東情勢」絡みかぁと思った。
前半部「息子の戦死」を知らされるフェルドマンが驚愕する。
一人にしてほしいところ、運悪く色々な人が、自宅にやってくる。亡くなった兵士用の聖職者が葬儀のスケジュールを話し続けるに場面には笑った。今度は、「息子の無事」を知らされることになるが。そこから、作品の流れが大きく変わる。画面に「フォックストロット」という文字。「?」
中盤から、息子が兵役に就いている「とある検問所」ここでの4人の兵士の自堕落な生活が続く。そんな生活が続いるうち
或ることが起きてしまう。
終盤、息子ヨナタンが家に帰宅する命令が下る。そこから、徴兵にとられている最中、暇つぶしで描いていた「絵」が、テルアビブに住むフェルドマンの言動や行動とリンクしていく。
最近、宗教的にも地理的にも複雑な中東を扱った作品が多い。私にとっては、ユダヤとアラブ、今もって紛争の絶えない中東情勢。義務教育で教授されない問題は、正直判りづらい。
ドイツで起こった「ホローコースト」を目の当たりにした、
現実に目にしたユダヤ人は減ってきているという「監督の言葉」が、一番心に沁みた作品であった。
人は踊らされるが
運命は踊っていない。
運命を前にして人にできるのは、引き受ける事だけ。
因果応報は人が考える受け入れるためのストーリーだ。
荒野でのダンス、ラクダがフリーパスで通る検問所、夜の検問シーンの恐怖、見応えあるシーンと演技だった。
不思議な映画
むしろ、驚くほど感情は揺さぶられなかった。登場人物の誰に対しても、感情移入できない。生死の血生臭さをなかったことにする、スタイリッシュで無機質な生活の色。怒りと人間の生への不信感で精神疾患にのまれる人々と、無関心な周囲の人間の白々しく芝居がかった同情。タブレットと泥まみれの住居。生死のコントラストは明確に描かれているが、それは"希望"と絶望ではない。抜け殻しか映っていない。人間未満の肉体しか、この映画には映っていない。悲劇をこじらせ、沼に足を奪われたまま、抜け道を見いだせない家族の、人としての在り方に疑問、違和感。ブルドーザーを強さの象徴として描き、「本当はこう生きたかった。」というメッセージを残すも、おそらくは自らの罪の意識に殺され、人間の生を証明できなかった一生。おかしくないか?ここまで人間を客観的に描けるものだろうか?、、、、、、、、、
と、ここまできて、この作品の特異さがわかった。客観性だ。はっきりいって、テキトーな評論家気取りの飾り立てた文章の賞賛には、へどがでるが、"客観性をもってして全てを観るものにゆだねる"方向性は、貴重だと感じた。
悲しみのステップを踏む
いまこの瞬間に、世界のどこで戦争が起きているだろうか。どれくらいの戦場があって、いくつの戦闘が繰り広げられているだろうか。
本作品はある家族のことを描いているように見えるが、実は立派な反戦映画である。戦場がコミカルに描写され、将校たちは見るからに愚かしいのがその証拠である。
日本国憲法の前文の一節に「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」とある。つまり政治家は戦争が起きないようにするのが仕事なのである。軍備を増強し、日本を再び戦争のできる国にしようとしている現政権は、トチ狂っているとしか思えない。そして本作品にも見られるように、他の国の政治家も、トチ狂っていて、意味なく若者を戦場に送る。
世の中では、親の愛情は人の命の大切さとともに、無条件に肯定される。しかし必ずしもすべての親に子供への愛情があるとは限らない。そして子供は 必ずしも親を尊敬しているとは限らない。というより、子供は意外に親を客観的に見ているものだ。
邦題の「運命は踊る」の意味がよくわからない。原題の「Foxtrot」は踊りの一種で、スロー、スロー、クイック、クイックのステップはあまりにも有名だ。父と息子でこのステップを共有しているところが、この父子の関係性を暗示している。運命というよりも、戦争に翻弄された被害者としての体験を共有しているといった方がいい。戦争体験の闇を抱えながら、父は悲しみのステップを踏むのだ。
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