「最期まで紳士であったジャック」アリー スター誕生 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
最期まで紳士であったジャック
イーストウッド監督の「アメリカン・スナイパー」は戦争という理不尽のために人を殺した凄腕のスナイパーのその後のトラウマを描いた作品である。人を殺してはならないという禁忌が染みついている文明人にとって、権力者の大義名分で人を殺すことがどれほど深く魂を傷つけることであるかを、主人公を演じたブラッドリー・クーパーが見事に表現していた。この人はとても器用な俳優さんで、少し前に出演した映画「ハング・オーバー」ではコメディの才能も披露している。
本作では監督・主演で脚本も担当。鑑賞した1月5日は彼の44回目の誕生日ということもあり、「アメリカン・スナイパー」の名演技を思い出しつつの鑑賞となった。
まず驚いたのは、クーパーが歌が大変に上手であることだ。日本の俳優でもディーン・フジオカや菅田将暉など、歌が上手な人がいるが、そういうレベルではなく、プロの歌手が裸足で逃げ出すほどの上手さである。このくらい上手でなければレディ・ガガの相手は務まらないのだろうと妙に納得した。
ストーリーは1937年の「スタア誕生」及び1976年の「スター誕生」を踏襲していて、上り坂のスターと下り坂のスターの人生が混じり合う人間模様を描いている。しかし本作は過去の作品と一線を画しているところがあって、クーパー演じるジャックが、自分のためというよりも人のために歌っていることだ。承認欲求や嫉妬がテーマとはなっていない。
歌える人間は歌って伝える役を果たさなければならないとジャックは考える。スターになったアリーに向かって「魂がこもった歌を歌わないとすぐにファンは離れていく」と彼は言う。嫌味でも嫉妬でもなく、そう言わなければならない役割であった。彼はこれまでずっと、与えられた役を果たしてきたのだ。
そして自分が「魂のこもった歌」が歌えなくなると、彼は自分の役割が変わりつつあることに気がつく。その現実と折り合いがつけられずにアルコールとドラッグに走ってしまうが、アリーと出会った日のことを思い出し、最期に自分の役割を果たす。主人公ジャックは最初から最期まで紳士であった。