「社会が思い描く「妻」という幻像。」天才作家の妻 40年目の真実 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
社会が思い描く「妻」という幻像。
描かれるのはノーベル賞の授賞の報せを待つ真夜中から授賞式を終える帰りの便までの数日。しかしその数日だけで「女の一代記」ともいえるほどジョーン・キャッスルマンという女性の人生を感じさせられた。現代より更に女性の社会進出が困難だった時代に野心を抱いた女がいかにして生きたのかや、何を諦め何を犠牲にして何を手に入れたか、逆に何を手に入れ何を失ったかが克明に語られ、ホテルの一室で交わすやり取りだけで夫婦の長い歴史と女の人生が浮き彫りになる。ミステリーのようでもあり、サスペンスのようでもあり、やっぱり女の一代記だと思う。
ジョーンは“ジョー・キャッスルマン”として出版してきた自分の著作とそのキャリアがノーベル文学賞を与えされたことに素直には喜んでいただろうと思う。祝福の言葉が夫に投げかけられるのだとしても。それでも自分の存在が「糟糠の妻」やら「内助の功」なんていう決まり文句で片付けられてしまうことに嫌気もさしていたのではないか。何か名声を手に入れた男を見れば、よく知りもせずにその妻を「内助の功」と呼び、世間はまるでそれが誉め言葉であるかのように考えてさえいたりする。
とは言え“ジョー・キャッスルマン”の著作は紛れもなくジョーとジョーンの二人で書かれたものだろう。才能の多くはジョーンから注がれているのだとしても、しかしそこにジョーが存在しなければ書くことのできなかったものだ。それは彼の浮気癖という不名誉なインスピレーションという意味だけでなく、実際にジョーの筆の感性も作品には注がれているから。それに夫ジョーを紛れもなく愛しているし、尊敬もしている。だからこそ余計に嫌気がさす瞬間があるのかもしれないと思う。ノーベル賞は"ジョーン・キャッスルマン"の名前では決して手に入れられなかった栄誉であり、夫ジョーの名前と才能とそれこそ「内助の功」なくしては成し遂げられなかった名誉だと思い知るから。
この映画に見所は多々あるが、この社会において、男であること女であること夫であること妻であること父であること母であることなどといった概念がいかに人を縛っているのかを痛感させられた。社会は、男には男であることを期待するし、女には女であることを期待する。父は父らしくあれと期待するし、作家の妻は作家の妻らしくあれと無意識に期待する。でもそれって一体何なんだろう?と思う。この映画から極めて社会的な問いかけを強く感じた。
そういう観点からすると個人的には「天才作家の妻」という邦題は意味がぶれるように思う(観客をミスリードさせる効果はあるが)。シンプルに「妻」とだけ記した原題の方が寧ろ言い得て妙。主人公ジョーンを意味するだけでなく、その奥に社会が期待する「妻」という幻像まで浮かび上がるようで。
いろいろ書きすぎてグレン・クローズのことを書き忘れた。決して派手な演技を見せているわけではない。この映画でクローズが見せる演技は「ACT」というより「REACT」が多い。特に前半はクローズをある種蚊帳の外にしながら出来事が起こり、クローズはそれにリアクトする。そんな中で妻ジョーンの心が動く瞬間にカメラがぐっとクローズのアップを捉えじっくりと見つめる。そしてクローズは物言わず表情だけでジョーンの思いの変化を語る。こういう演技はやっぱり実力者でなければできない。キャリアの長く実力も申し分ないクローズならばもう間違いない。監督もそう思ってクローズのアップに全てを委ねたのかもしれないし、まさに英断。クローズがアップになっている間、息が止まるような思いになる。
どこかヨーロッパの映画を観ているような佇まいもあり、とても知的な大人の映画体験だった。この物語は演劇に作り替えても面白いかも知れない。いっそ高級ホテルの寝室のみを舞台にした一幕物で、登場人物も夫と妻の二人だけ・・・なんて空想を膨らませてみたりして。