「原作の大切な部分が省かれてしまった気が」人魚の眠る家 まりえさんの映画レビュー(感想・評価)
原作の大切な部分が省かれてしまった気が
発売当初に原作を読んでいたのであらすじが分かった上で映画館に足を運びました。
原作は原作、映画は映画、別物なのは理解していますが、
原作ではかなり大切な部分を占める娘の女教師とそれにまつわる出来事が一切なかったので薫子の葛藤が見えづらく、狂気の部分にのみスポットが当たった形になった気がします。
原作では日曜日だけ募金活動に現れる、臓器移植に対して意識の高い、女教師を名乗る謎の人物が誰なのかを読み手に想像だけで推理させる部分でもあったので、映像での表現は難しかったと思います。
また話が多方向に散らばるのをあえて避けたのかもしれません。
映画では和昌が偶然臓器移植について向き合い、募金をし、移植を待つ子供の父親とそれぞれの立場で話すという短い設定になっていました。
そして薫子はそれに対して和昌に抗議までしているので余計に薫子の苦悩が映画では表現されていなかったように感じました。
なのでそこからの展開が狂った母親一辺倒のようになったかと思うと娘の死をあっさり認めてしまったかのようなライトな感じになってしまったのは残念。
そして、ラストシーン。
二年前に原作を読んだ時からどちらなのだろうという答えが定まりませんが、最後お屋敷が空き地になってしまっている意味。
映画ではラスト直前で家族で娘が事故直前に話していた絵のハートに見える木を見つけます。
なので別居を解消し、新たな場所で心機一転夫婦として家族としてやり直したのかなとも伺えますが、迷うところです。
東野さんの本は好きで何冊か読んでいますが、これはまだ未読です。映画がなかなか良かったので原作は読むのをやめようと思っていました。原作の方が良いのは想像がつくので(今までの映画、ドラマほとんどが原作の方が面白い)読んでしまうと映画がつまらなく感じてしまうのも悲しいので。
でもまりえさんのレビューを読んで、やっぱり読みたくなりました。近いうちに読みます。
ラストについての蛇足。
原作ではプロローグで宗吾くんは部屋の中の薔薇を見ていますが、香りは嗅いでいません。けれどラストの空き地は何故か薔薇の香りに惹きつけられて辿り着いたかのように描かれています。嗅覚は人間の五感の中で最も古い時代に獲得した感覚であり、瑞穂ちゃんが心臓という臓器だけでなく、よりプリミティブな部分で息づいていることも表していました。映画では香りを表現するのが難しかったけれど、観る人それぞれにプリミティブな繋がりを想像して欲しかったのだと思います。でも出会ってはいけない人達なので、空き地にせざるを得なかった、という苦しい事情もあったのかもしれません。
琥珀さん
コメントありがとうございます。
そうですね。そんな場面ありました。
登場人物も極力絞っていますしね。
原作で読んだ薫子という女性の多面的な魅力を私は映画では知ることができませんでしたが、どこまで表現するかの限界もありますよね。
ラスト直前のハートの木を家族で見つけたことで恐らくは受験や介護のために離婚しない夫婦へ瑞穂からの今度こそは偽りではない夫婦再生のプレゼントだったのでしょう。
そのあたりも原作とは微妙に結末が違うかもしれないと今も迷いつつ(苦笑)。
Bacchusさん
そうですね。
原作にあまりにこだわりながら映画を観るのも野暮なのですが、推理という見せ場をまるまるカットしてしまったのが映画で薫子の心の動きが分かりづらく、周囲の本音もよく分からなくなってしまった一因かと思います。
ただ原作の推理は映像で持ってこられない部分なので、今はこれはこれで良かったのかなと。
ラスト直前に警察沙汰を経て親子4人でハートの木を見つけた、そこに瑞穂からの家族再生とも受け取れるプレゼントとも受け取れる場面があったのでそこから具体的なものは必要なかったかもしれませんよね。
レビューなので勝手なこと言い放題ですが(苦笑)。
コメントありがとうございます。
唐突と感じたのはそれまで誰も主人公に向き合わせようとする部分がみえず、本人にも葛藤がある様子すらなかったからかなと。
少しでもその感じがあれば違ったのかなと思います。
ラストは前向きでも後向きでもはっきり示すと安っぽかったり、がっかりだったり、あえて示さなくて良かったとはおもいますが…ドナーとレシピエントの距離感が引っ掛かりますし、どうせ委ねられるならこのシーンはまるまるいらないと思いました。
原作を読んだら又違うのかとも思いますが、やはり映画化するに際し省略と補完は難しいのでしょうね。
まりえ様
女教師の章がこの原作に凄味を持たせていると私も思っていますが、やはり2時間の中に収めるのが難しかったのだと思います。「後ろめたさを紛らすためでしょ!」的なニュアンスの抗議は薫子自身も実は罪悪感のようなものを抱えているからこそ出てくるのだということを表すための脚本の苦心の結果だと考えています。時間の経過もカレンダーでしか表現出来ない中では頑張ったほうかなと。
ラストは瑞穂ちゃんとのサヨナラ、そして生人くんや若葉ちゃんがトラウマを抱えないための区切りであり、前向きな選択(生人くんの転校も含めた引っ越し)の象徴だと私は捉えています。