劇場公開日 2019年5月31日

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「すごくおもしろそうだった」アナと世界の終わり 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.0すごくおもしろそうだった

2020年7月11日
PCから投稿

ララランドには功罪があって、素敵な映画だった一方で、のちのミュージカル映画の敷居を上げてしまった。生やさしく上がったのではなく、とんでもなく上げた。ララランドを見たならそれがどれだけ無理レベルかおわかりになるだろう──と思う。

それでも、ミュージカルは挑戦される。ただ、もはや大上段では挑まず、いささか自嘲ぎみに──柳の下の泥鰌なのは解ってますよの体でつくられる。
プロダクトとして、ララランドに挑むとか、そんな上等な場所を狙いたいわけではないですよ──ということが、解るようにしてある。

たとえばダンスウィズミーにしても、トレーラーからして冒頭に「そもそもミュージカルっておかしくない?さっきまでふつうにしゃべってたひとが急に歌い出したりしてさ」という台詞を聞かせる。

これは、多数の庶民からの同意が見込める(あざとい)意見だが、逆に言えば観客の構えを観る前から砕く効果がある。トレーラーは迂遠に「ララランドほどじゃないけど笑えるよ」と諧謔に落として誘っているわけなのだ。

案の定、ダンスウィズミーをとても見たくなった。
トレーラーは、すごく良かったのである。

アナと世界の終わりも同じ方法論で誘っている。
わたしはショーンオブザデッドミーツララランドの謳いであっさり釣られた。

それらの巧い口上の前に、映画ファンの期待がある。
たとえばわたしはミュージカルを見たいとは思わない。ただし、今どきミュージカルがつくられるなら、なぜミュージカルなのか、に興味はわく。
ミュージカルが見たいわけではなく、どうやってミュージカルを現代社会へ適応させているのか──を確認したいのである。

映画を見る人なら期待が適ったり損ねたりが、さほど意外な現象ではないことを知っている。それらはたんにレビュー用の常套句であって、たいてい想定の内側にあることだ。ララランドみたいなすげえ映画をそうそう見られるなんて思っちゃいないが、どの映画も各々がそこにProsを見いだせばいい。

難しいこと、かもしれないが、歌部分をトラックにしてしまうと安易になる。
「さっきまでふつうにしゃべっていたひと」が歌い出すのだから、当人がほんとにそこで歌い出したほうががつんとくる。それで観衆は、彼女または彼が歌えることを知る。踊れることも知る。それらが上手いとき、またがつんとくる。ララランドの躍動を担っていたのはそこだった。ただそれは予算やキャストに依存する。
これは、いやみのない映画ではあるものの、その制約は顕著だった。

ホラー映画のありがちなダイナミズムに、きれいな娘が流血や残虐にやたら耐性を持っている──がある。返り血を拭わない顔もお約束だが、Ella Huntはそのあたり申し分ないヒロインだった。
が、非ゾンビ側の混乱や愁嘆が要らない。そもそもこの映画、ときどきミュージカルパートが挟まるだけのゾンビ映画であって、クリスマス要素もアイデア不足補填の気配だった。

よく思うことだが、今更ゾンビ映画をやるなら、叙説をすっぽり省いてもいい。蔓延後や、もっと言うなら現われる前に終わってもいい。ゾンビをやるならましてやコメディならどこまでもふざけたほうがいい──と思う。

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津次郎