「響の暴力は自己正当化を図る者への鉄槌だと思う」響 HIBIKI 琥珀さんの映画レビュー(感想・評価)
響の暴力は自己正当化を図る者への鉄槌だと思う
自分自身が響に思い切り飛び蹴りされたと思うほど、喝を入れられました。何に対しての喝か?
小難しく言えば『主体をすり替えることで自分の責任を免れようとする狡猾な人間』にいつのまにか自分がなっていることに対してです。
会議などでこんなような言い方を聞くことがあります。
『今期の営業目標が未達で終わることは許されません』
スポーツの試合などで、『これ以上の失点は許されません』という言い方は、勝ち負けを争う上で客観的な状況や事実が〝許さない〟のは明白です。ところが、『営業目標の未達』については、許さない主体が不明確です。会社が許さない、会社として許されない、という言い方をされると、なんとなく納得してしまいそうになりますが、よくよく考えたら、会社や組織に意思はないし、営業目標の未達で困ると意識するのはその部署の責任者がボーナスや人事評価の査定上、プラス点が貰えないということであって、目標未達を許さないのは、往々にして発言している本人なのです。
日頃から、その目標を達成することの意義や部下のモチベーションアップなどを図れているリーダーはそんな言い方はしません。それが出来ないリーダーに限って、あたかも会社とか組織とか、自分以外の〝権威ある何物か〟が許してくれないのだ、というように主体をすり替えて従わせようとしているのです。
受賞記者会見で質問した記者は個人的な感情を世間や社会が許さないということにすり替えているし、芥川賞作家は個人的なジェラシーを親の七光りの問題にすり替えて正当化しようとしている。新人賞同時受賞の作家は、すり替えどころか、ただのやっかみを他人へぶつけることを正当化しようとした。
つまり、響が暴力的になる時、その相手は必ず自分のやましさを自己正当化しているのです。
文芸部での指折り事件は、その後の暴力シーンに唐突感がないように見せるための伏線なのだと思います。
鮎喰響は人間の悪意に触れた時、暴力的手段で響くのです。