志乃ちゃんは自分の名前が言えないのレビュー・感想・評価
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「ありがたくない個性」の話。
先に結論から言っておくと、良い映画だったと思う。
アバンタイトルでグッと掴まれて、序盤は泣きっぱなし。
海辺の町の夏の風景の懐かし美しい雰囲気もとても良かった。
でも最後までは乗り切ることができなかった。
これは僕が『ムーンライト』や『ワンダー 君は太陽』で感じた乗り切れなさなんだと思う。
映画の中で語られているのは、“ハンデ”なのか、“個性”なのかという話。
例えば、ムーンライトの主人公はゲイで黒人。それがハンデとして語られるなら、LGBT差別とか人種差別とかを考えさせられつつ、観客は道徳心でもって主人公に同情的な感情移入をする。
また例えばワンダーの主人公は顔が醜い。それをハンデとして語るなら、「人を見た目で判断しちゃダメ!」って道徳心で主人公の頑張りや成長に割増しで感動する。
でも、本当にそれらを差別しないんだったら、ゲイとか黒人とか顔が醜いとかドモリ症とかって「個性に過ぎないんじゃない?」って話になってくる。
「ありがたくない個性」なんて誰もが背負っている。そして多くの「ありがたくない個性」は“ハンデ”として同情されたり、免罪されたり、救いの手を差し伸べられたりしない。
体に障害がある人への差別は社会問題になるけど、例えば性格に障害がある人への差別は、ただ嫌われ者の自己責任になるだけだよね。
例えばセクシャルマイノリティとか身体障害者の日常生活と、
例えばフツーにブサイクで性格悪くて嫌われてしまう者の日常生活と、
どっちが同情されるべきだろうかみたいなことを考えちゃう。
僕にとって、登場人物が「ありがたくない個性」を乗り越えて成長していく話を観るのは大好きだけど、そこに“ハンデ”という要素があると、それが逃げ道になったり、無駄に感動を煽る大袈裟さに感じられてしまって苦手だったりする。
そのへんについて本作は、ちゃんと言及していてエラかったと思う。学校から一緒に帰る道の場面だったと思うけど、加代は志乃に「あんたはいいよね、吃音って障害というエクスキューズがあって」というような意味のことを言う。つまり志乃のドモリには吃音という“やむを得ないレッキとしたハンデ”があるけど、加代の音痴は障害でもなんでもないから、“ありがたくない個性を、純粋なコンプレックスとして背負わなきゃいけない”んだっていう話だよね。
「レッキとしたハンデを持つ弱者」からの視点で映画を観ると、「ちょっと迂闊な物言いをする先生」も、障害者に理解がなく無神経で独善的な、すげー悪役に見える。でも僕は「あぁ、この登場人物、観客にすげー悪役だと思われて可哀想だな」って思っちゃう。もちろん志乃という主人公が、この教師を悪役の位置に立たせてるわけじゃないし、この主人公もまっとうに可哀想なんだけど。
そういうひねくれた見方でこの映画を観る僕には、いちばん可哀想だったのは、この菊池という男子だった。単に僕にキャラが近いから不要に感情移入してるだけなのかもしれない。
「ウザいヤツだけど、悪いヤツではない。」でも、「悪いヤツではないけど、やっぱりウザい。」
物語が主人公に対してする救済みたいなものは、菊池には与えられない。それは「彼のウザさは自己責任であってハンデではない」からなのかもしれないし、ただ単に主人公じゃないからなのかもしれない。この映画に映る彼の最後の場面はとてもリアルで残酷だったと思う。その残酷さに多くの観客はたぶん見向きもしないだろうという残酷さ。
志乃と加代は、「しのかよ」としてまた一緒に音楽やるのかな?
やれたらいいなとも思うし、やらなくてももういいのかなとも思う。
そのどちらかを、正解として押し付けてこない。そこもこの作品のエラいところだと思う。だから良い映画だった。良い映画だったけどスッキリと泣けなかった。だからこそ良い映画だったんだと思う。
志乃です!加代です!しのかよです!
吃音によりコミュニケーションがとれないことはよくある話。ところが音楽というツールによって発声がスムーズになる。どこかで聞いたことのあるような設定ですが、生活をすべてミュージカルにしちゃえばいいじゃん♪などと催眠術を勧める母親を見て思った。あ、でも踊りだすのはやっぱり変だな・・・
スキャットマン・ジョン(1942~1999)がメジャーデビューしたのが52歳の時。自身の障害である吃音症を逆手に取ったスキャットソングで、いきなりのミリオンセラーを記録した。彼は日本の吃音者団体である全国言友会に寄付した。意味を持たない言葉だったら自由に喋ることができるということ、当時はかなり話題になったものだ。その代表曲「スキャットマン」を初めて聴いたときには愛川欽也のパック・イン・ミュージックのジングルを思い出したものですが、コピーするのも難しく、何十回も聴いたことをも思い出しました。
で、この作品は音楽映画であるのか?「あの素晴らしい愛をもう一度」や「翼をください」といった懐かしのフォークソングを歌うあたり、またしても『ダンスウィズミー』と世代的に同じところを狙っているような気がする。しかし、加代ちゃんがとても下手だったり、歌よりも加代志乃の百合っぽい映像に惹かれてしまう。文化祭のコンサートの「魔法」というオリジナルは下手すぎて歌詞にばかり気を取られてしまうほど。
彼女の心の中は誰にも伝わらない。加代ちゃんだって孤独な少女なので、作詞によって思いを伝えることしかできないのだ。空気を読めずにずけずけと彼女たちに割り込んでくる菊地が緩衝材となってるところもいい。それがなければ二人の絆はただ楽しいだけの関係になっていたのだろうから・・・とにかく壊れやすい乙女心。俺も昔はわかってなかったな・・・・
思春期の心の距離
吃音(きつおん)にコンプレックスを抱える少女が、音痴コンプレックスを抱えている少女と出会い、成長していく物語。
吃音であるが故に、うまく人間関係が結べない少女。
自らの心が若いが故に彼女の心にづけづけと侵入する同級生。
私は大人だから分かってると勘違いして接してくる先生。
そんな中、1人の少女と出会い、映画は徐々に心の狭さ、豊かさを観る側に与えてくれる。
路上ライブにて唄う姿はザッツ青春。
挫折理由もあるある。
最後も好きよ私。みんなハッピーエンドにするよりかは、これからが始まりって感じで。
完全に泣かせにくる映画よりかは、この様な心の距離を描く映画の方が好きだ。人と人の距離感も上手く映像で表現。
別映画「聲の形」にも似たような感覚。
この作品も私は若い人達に観て頂きたい。
どんな頭が良くても、心が養えていない大人は多い。
心が養える映画。
「あの、素晴らしい愛をもう一度〜♫」
こんな映画が増えて欲しい。
今、学校では道徳性のある映画観賞など実施しないのかねぇ…
有名俳優出ずしも、良い作品は創れる。
おすすめします。
苦手だが好きなシーンも多い
クソ映画(これは映画とは呼びたくない)
かよちゃんがイケメンで良かった
違和感
すべてがいい
「人間」が詰まった作品
言葉を紡ぎ出すことに苦しむ貴方のための映画
人気漫画の安直な実写映画化が批判を浴びている昨今だが、本作はそのようなものは一線を画する、本気で作られた映画である。
そもそも原作は人気漫画といっても作者の実体験をベースとした私小説的なものであり、よく言えば文学性の高い、悪く言えば地味な作品である。漫画実写化が流行っているといっても、そのような種類の漫画が映画化されることはそう多くない。
映画は原作を丁寧に再現しており、改変部分についても納得がいくものであると思う。(賛否両論あると思われる結末の改変は、自分としては正解というか必然ではないかと思う。理由はネタバレになるため省略。)パンフレット代わりに発売されたオフィシャルブックを見ると、原作者との密な連携のもとに映画化が進められたことが伺える。
オーディションで選ばれたという主演の南沙良と蒔田彩珠は、すでにいくつかの作品で優れた演技をしており、報道によれば今後の出演作も多数決まっているようだが、現時点での知名度は低く、所謂「客を呼べる役者」ではない。撮影当時14歳と役よりも若い年齢であったと聞いて驚いたが、このキャスティング一つとっても、この映画が本気で作られていることが伺える。
そして、南沙良の演技が凄い。難発性の吃音症という非常に難しい役を完璧に演じているだけでなく、モデル出身の美少女でありながら鼻水を垂らして顔をぐちゃぐちゃにして泣く演技を2度も行っており、その熱量にただただ圧倒された。南沙良自身が原作のファンだったそうで、並々ならぬ覚悟で役作りに取り組んだに違いない。今年の映画賞では新人女優賞を多数受賞してほしいと思う。
以上、褒めてばかりいたが、この映画には問題点もある。時代考証が行き届いていないので80年代後半に青春を送った私にすらいつの時代の物語なのかわからなかった、とか、吃音症の表現をリアルにしたあまり物語のテンポが悪く大方の人には退屈な映画なのではないか、という点である。
だが、私から見れば、この映画を退屈に感じる人は、人とのコミュニケーションに苦労していない幸せな人なのかなあ、と思ってしまう。私は吃音症ではないけれど、人に話しかけるときにストレスを感じたり、一人ではすらすら言葉が出てくるのに人前では言葉に詰まったりするので、吃音に苦しみながら必死で言葉を紡ぎ出す志乃ちゃんの姿が他人とは思えず、ああ、こうなんだ、こうなんだよと思い、何気ない場面でも何度も泣きそうになってしまった。
少なくとも私にとっては、長く心に残り続ける映画になると思う。他の映画と比べて今年度ベストワンとかいう映画ではなく、自分のためだけに作られたオンリーワンの特別な一本である。
(2018/11/29追記)
南沙良と蒔田彩珠が第43回報知映画賞新人賞を受賞とのニュース。本当に嬉しい。長い報知映画賞の歴史の中でも、同一作品から女優2名が新人賞に選出されるのは初めてとのこと。
みんなコンプレックスを抱えてる
大人になって汚れきった心をキレイに洗い流してくれるような、繊細で美しい清涼感のある映画だった
高校に入学したばかりの志乃は、吃音がひどくて、同級生と上手に会話することができない
しかし、ある時、クラスメイトの加代と友達になり、一緒に過ごすようになる
そして志乃は、加代から一緒にバンドをやろうと声をかけられ…
志乃は、とても繊細で、感受性の強い子だ。
周りにいる人たちの感情の波動を人並み以上に受信して、人並み以上に飲み込んでしまう
だから、上手に話せば話そうとするほど、吃音が酷くなってしまう
それに比べて、加代はとてもクールな子だ。
周りで起きていることを「適当に受け流す」というスキルを持っている。
そんな加代でも、大好きな音楽のことで笑われると耐えられない。
その辺は、まだまだ高校生なのだ。
そんな、プラスとマイナスのふたりだからこそ気が合ったんだろうと思う
しかし、そこから、そんな2人の間にもう1人入ったら、2人の関係はどう変化していくのかが描かれている
私が、この映画で良いなと思ったのは、その吃音という悩みを抱える志乃を特別扱いしないところだった。
誰もが、人には言えないコンプレックスを抱えていて、みんな「心から話し合える友達が欲しい」と思っている
志乃だけが特別な存在ではないのだ
その中で、志乃はどうやって生きていくのか
どうやって、周りの人たちと付き合っていくのか
決して甘やかさず、距離を置いて自立を見守る
その志乃との距離感が良いと思った
なせなら、まさにそれが現実だからだ
自分がブスだと思ってコンプレックスを抱えて生きていても
誰も助けてくれない
どこかで、そんな自分を受け入れるか、整形手術を受けるかして、コンプレックスを克服していく
それは志乃も同じだ
吃音を治すことができないなら、そのコンプレックスをどこかで受け入れて生きていかなければいけない
しかし、いきなりコミュニケーションの達人にはなれないし、コンプレックスがゼロになるわけでもない
少しずつ自分の内側にあるコンプレックスを壊して、少しずつ前進していく
その歩幅とスピードが良いと思った
そして、二年生になった時の文化祭では、あの体育館に奇跡が起きているのではと思った
志乃の助けとなるのが、音楽というのが良かった
音楽には人を救う力があると、私は本気で信じている
青春のほろ苦さ
精神的に辛い作品、だがそれが良い
やっと見つけた居場所なのに
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