「Somewhere over the rainbow」フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法 masakingさんの映画レビュー(感想・評価)
Somewhere over the rainbow
鑑賞してから何日もこの映画のことを考えている。
Starletに引き続きショーン・ベイカー監督作品を観たのだが、本当にひとつひとつのエピソードと構図が、そうでなくてはならないところで収まって、はなはだ映画らしくないのに、しっかりと映画になっている。
3人で回し舐めするソフトクリームの味は、子ども時代の味覚を惹起させるし、ジャンシーの誕生祝いに見物するディズニーランドの花火の場面は、どうしたわけかノスタルジーを伴って心を打つ。
ウィレム・デフォー演じるモーテルの管理人は、堅物で二言目には「出て行ってもらうぞ!」と凄むのに、ヘイリーとのもめ事で数えるスリーカウントは、阿部四郎のそれだった。ドアから出るの待ってるやん!と笑って、それからなんとも言えない温かな安堵感に包まれる。
そして、ムーニーを演じるブルックリン・キンバリー・プリンス!
驚くような悪態をつき、したたかな女の一面を見せたかと思うと、火事場の見物で母のヘイリーから写メを撮ってもらうときの表情は、罪悪感からとてつもなくこわばっている。ベイカー監督は、彼女にどのような演出をしてあの表情を引き出したのだろう。それとも、彼女のもつ女優としての才能なのだろうか。
モーテルの向こうに虹がかかり、ムーニーとジャンシーが交わす他愛もないおしゃべりに、製作者の伝えたいことが透けて見える。
「妖精は虹の袂に金貨を隠してるんだって。でもそれを誰にも分けてくれないんだ。」
いまや富は一部の人間のもので、貧しい人々がその貧しさから抜け出すことはない。社会の構造そのものが、努力でどうにかなるシステムではなくなった。暮らしていけないわけではないけれど、暮らしていくのがやっとの生活から抜け出せないでいる隠れた貧窮者は、いまやアメリカだけの社会問題ではない。
「大人がいつ泣くか、私はわかるんだ」と冷徹な一面すらもち、常に楽天的でタフな女の子として描かれるムーニーの最後の号泣に、観ているこちらまでなすすべなく途方に暮れてしまった。
これは、すっかり機能不全を起こしてしまっている現代社会に、すっかり手をこまねいて立ち尽くす大人への、SOSなのだ。
それなのに、立ち上がって行動を起こしたのが、同じ環境に置かれたジャンシーだったのでは、大人の面目丸つぶれだろう。
一見ハッピーエンドのような幻想的なエンディングに、手放しで幸福感を表明できないのは、そんな理由からだった。
穏やかに、しかし鋭く現代社会を糾弾するショーン・ベイカーの声に、これからも耳を澄ましていこう。