ザ・スクエア 思いやりの聖域のレビュー・感想・評価
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現代社会への痛烈な皮肉
前編にわたって、現代社会に対する痛烈な皮肉に満ちたブラックコメディ。現代アートの美術館を巡る物語だが、そこだけにとどまらず、インターネットの発展によって、社会の全てがメディア化した現代社会の闇を見事に浮かび上がらせている。
本作に登場する広告代理店の炎上商法は、今日では毎日のようにネット上で繰り広げられているものだ。そして主人公のような、高い理想を掲げてことを言う一方で、全く正反対のことを現実では行動している人もたくさんいる。
この映画で描かれていることは、全てムチャクチャだと感じるが、たしかに我々の生きる社会は今、こうなってしまっている。そのことの説得力がものすごい。
もとは監督が手がけたアートプロジェクトが発端だそうだが、小さな街で行ったので、映画のような結果にはならず、とても意義深いものになったそうだ。社会は構成員が増えれば増えるほど、コントロールが難しくなるとのだなということも考えさせられた。
本音と建て前、偽善……思い当たるからこその気まずさ
squareには「正方形」のほかに、「公明正大な、正々堂々の」といった形容詞の意味もある。映画に出てくるインスタレーションは、正しい行い、正しいあり方とは何かを考えさせる装置であり、それがそのまま映画のテーマとも重なる。
主人公クリスティアンは現代美術館のキュレーターで、成功者にして良き父親だ。だが街角で人助けをしようとしたら財布と携帯を摺られ、取り返すためにとった行動から泥沼にはまっていく。また、利他主義を訴えるはずのアートが、PR会社の炎上手法により非難の的になってしまう。
本作は観客が気まずくなるシーンで満ちている。この気まずさは、自分自身にある本音と建て前、偽善的な部分を鋭く突かれるからだ。それは鏡を見て自分の醜さに気づかされるようなもの。実によく“刺さる”社会風刺劇なのだ。
前半はシュールな笑いでそこそこ楽しませてもらえる。 ただ、後半に出...
旬の監督。次作はホラーでも。
さくっと
笑えたりゾッとしたりの”気まずい”瞬間を集めたような作品。
一番大きな気まずさは、目の前の大きな問題から目を背けていること
いつの間にか自分自身にしか目が向かなくなっていることだろうか。
現代アートを題材にしているからこそ内省を促してくるというか、
曖昧な”自分自身”を客観視させられるというか。
ちょっと今は個人的にあまり良い精神状態じゃないせいか、
わりと深刻に受け止めすぎた部分もあるかもしれない。
ストーリーらしいストーリーがない純文学みたいな語り口。
「フレンチアルプスで」もそうだったけど
さらっとした語り口で見る側のナイーブをさっくり刺してくるような
どんな自分でありたいのか、みたいな問いを突き付けられるような作品だったと思う。
今の時代だから…こその
芸術の 社会での有用性
レセプションでの執拗なモンキーマンのシーンには閉口した(苦笑)
でも星を減らしたのは
オストルンド監督、前作で出し尽くしてしまったのかな、悪ガキが 貯めてあったアイデアをちょっと散漫に盛り込んだ感がして。
「フレンチアルプスで起こったこと」(前作)では、僕個人の感想としては不愉快極まりなかったが、非常に出来は良かった。
本作は、各エピソードは実に光ってるのに、総合体としては残念ながらバランスが悪くて、意味が破断し 脈絡がなかったように思う。
二番煎じとしても失敗。爆発シーンは最大の蛇足。
ちょっと「俺ってセンセーショナルじゃね?」臭さが鼻についた。
映画の構造としては
①美術館、わけても現代アート美術館経営と、気取った愛好家=裕福で物知り顔の評議員たちへの辛辣な揶揄・からかい。
(多数の円錐形砂山の展示室をチラッと覗いただけであっちへ行ってしまう客の上半身だけのシーン、あそこ腹を抱えて笑った。あと誰もいない展示室で積み上げられた椅子がガタガタ揺れるオブジェと監視員の老女とか、あるある感でもう抱腹絶倒)。
②そして、そもそも美術というものが人間の実生活に与える力や、その価値の有無についての ひねた問題提起。
「ザ・スクエア」を次なる展示企画としてあげるクリスティアンの”思いつき“の軽薄さ。
貧困や移民問題を絡めてみても すべてが思いつきだという内幕の暴露。
③美と家庭生活の乖離。
・・これらのごった煮で、なかなかでした。
近年のバンクシーのオークションのハプニングやら、
ダ・ヴィンチ「サルバトール・ムンディ」への高額投機やら、
美術界を取り巻く人間模様は、その欺瞞性をあげつらってイジるには題材に事欠かないですね。
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先月、
ある美大の「卒業作品展」に行ってきた。
上野にある2つの美術館を借りきっての、学部生と院生の 卒業制作の発表の場だ。
油彩、彫刻、工芸、建築、そして映像の作品まで・・、若いアーティストたちの渾身の集大成が胸を揺さぶる。
美を探求して4年、あるいは6年。
卒業し、学校を離れて世に埋もれて行っても、彼らは以降も美を創造していく心とか、
善を愛し、世の中にもまれながらもそれを発露させていきたいうずきを持ち続けて、当初の熱い思いを持続し続けることは出来るのだろうかと。
・・それは煤汚れた世の中でどれだけ難しいことかと。
展示室をまわり、自作の前に立つ美しい顔立ちの作者たちとぽつりぽつりと言葉を交わしていて、彼らの前途の困難さが可哀想で、胸が一杯になってしまった。
コンテンポラリー・アートは、劇中でキュレーターのクリスティアンが言っているように《美術館の場を超えてその作品に触れた者への日常生活への干渉を生み出す》ものだ。
「卒展」で作品と作者を見比べながら、たくさんの生きた”種“が世界に播種されていく瞬間を見させてもらえて、感動の体験だった。
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美術館の中と外、
理想と現実、
日常とパニック。
監督の見つめる「額縁」=スクエア=は人間社会の見えない監獄の内外(うちと)を示すものかもしれない。
心のスクエアをせばめるごとに、自分が見たくないものに目を瞑って楽な生き方を謳歌出来るのか、あるいは(思いもよらず)スクエアの内側にいた自分の首を自分で絞めることになってしまうのか ―
「答え」はよくわからない。
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今年も3月11日がやってきた。
あの時、被災者はお金や家屋や食料が必要なのに
東北の避難所ではお絵かき教室や
アンパンマンの合唱や
俳句教室や
漫談・音楽コンサートをするために駆けつけたタレントが一杯いたことを思い出す。
そんなことでは被災者の胃袋はふくらまないのに。
でも小さな種が芽吹いた。
「助けて下さい」
「応援お願いしまーす」
車椅子ボランティアをやっていた僕自身が、新宿駅の雑踏での経験を思い出す、
「お前はこのラインで終わりだ」
「その先に行く資格なしだ」、と言わんばかりの車椅子の前に突き付けられた絶望的な駅の長い下り階段。
Uターンしてエレベーターを探すのは面倒くさいし
大声で言ってみたんだよ
「助けて下さい」
「応援お願いしまーす」。
あっという間に 魔法のように人の波の中から生まれ出て、サラリーマンたちが駆け寄ってくれるじゃん(笑)
世の中捨てたもんじゃない。
美と善。埋もれていても”種“は確かに存在する。
人の心のスクエアのラインは、
案外簡単に越えられると信じる。
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まるで寓話の様な、また風刺画の様な。さらに哀愁まで漂う。
秩序とカオス、そこに人間がいる。
パルムドール、常に追っかけてるわけではないので、賞だけ知って見た。
結論は、これぞカンヌ。納得です。
北欧って一括りにはできないんだろうけど、物乞いが普通にいるのは、先入観の虚無への供物ですね。日本だったら、まず店や道端からとにかく排除するから、また違うんだなぁと。
そして、それもスクエアの一辺。公平も信頼も思いやりも、秩序の一辺に過ぎないと提示されて、我々がほしいのは、秩序という囲いなんだと改めて。
逆に最も恐れているのは、カオス。不快、不愉快なのは理解不能だから。
少年は最高だったけど、手紙には、お前にカオスを与えてやると。殺してやる、とか、痛い目に合わせるとかがフツーだけど、カオスを与えてやるってさ。
もう手紙自体がカオスなんだけど、なぜあそこまで執拗に怒ってるのか、理解不能でいるうちは、カオスが続くだけ。
きちんと考えれば、そういう反応が起こりうる(あの執拗さも含めて)事は、理解できるはずなのに。
だから、登場人物を(自分とは違って?)欠落した人間に置いてしまうのは、理解不能とレッテルを貼る嘘だと思う。
少なくとも本編で起こってる事は、それ自体理解できない事は何一つないし、アンが言うように、「またまたー、分かってるんでしょ?分かってるわよ。」と執拗に要求する。理由が分からなくても、言ってる事自体は、理解できるはずだからね。
見るものほぼ全員が固まった猿人では、逃げたら襲われるのアナウンス通り。最初の女性だけでしたね。逃げなかったの。むしろ、女性の方が見つめていたくらい。
終わって見て、こんなに長かったの?疲れた状態だったけど、面白かった。
動画では、むしろスクエアの中にこそ、無責任な偽善的地雷が埋まってて、そこでは誰もが平等。という皮肉というよりかは現実。聖域だから、入らない前提なんだよね。思いやり地帯だから、誰かが助けるんだろうと。でも、誰も行かないから、結果助からない、という。
だから、提示としては、この映画は、少年よろしく、理解を執拗に要求してるんですよ。この映画自体が。勿論、逃げる人は逃げるし、嫌がる人は嫌がる。怒鳴る人は怒鳴るけど、理解が深まれば、いつまでもそうとは限らないと感じた。
ただ、理解をしつこく要求されているうちが花でもあるので、成熟・成長するチャンスは限られてるとのラスト。
しかし、主人公には娘がまだいますから、これから頑張って欲しいし、まだ何も終わってない感じに具体的な提示が最後あって良かった。知らない誰かではなく、知ってる誰かを理解できるはず人間は。まず。という。
万引き、パラサイトも良かったけど、より執拗に「展示」してくれてw見応えありの納得の作品。次回作が楽しみだね。
リバタリアニズムの限界
映画タイトルの“スクエア”には劇中登場する正方形の白線で囲まれたアートを指し示しているが、もう一つ別の意味が隠されている気がする。この“スクエア”にはスラングで“五分五分”とか“チャラにする”とかいう意味合いがあるらしく、前作『フレンチアルプスで起きたこと』(未観賞)同様のおそらく“二律背反”をテーマにした作品だ。
映画冒頭、赤の他人のために正義を行使したつもりが逆にスマホと財布を協力した相手に盗まれてしまう主人公クリスチャンは、移民の物乞にチキンサンドを恵んでやったら玉ねぎ抜きって言ったろと逆ギレされる。4文字言葉を連発し会見を邪魔する精神障害者に寛容たれと呼びかける紳士がいたかと思えば、その紳士淑女が集まったパーティ会場で行き過ぎたパフォーマンスを見せる“モンキーマン”を集団リンチ。YOUTUBEを使った斬新な展覧会告知が、貧困層蔑視にあたるとマスコミの袋だたきに合い、結局クリスチャンは美術館キュレーターの職を辞するはめに。
思いやりや寛容を示せば示すほど、プラス効果どころか収拾がつかないほどのカオスをその場に生み出してしまうのである。ザ・スクエアの白線がメタファーとなったその二律背反の境界線に踏み込んだとたん人々は一瞬うつむき沈黙するのだが、相手が自分の領域にずうずしく踏み込んでくると怒り心頭に達し暴力へと及ぶ。つまり、人間が他人に優しさと寛容性を示すことができるのはそのスクエアの“内面”ではなく、それを四角く囲んでいる白線=境界線上のごくごく狭い範囲、その部分だけなのである。
しかしこの映画、一般的には欠かせないプロットと呼べるものがなぜか存在しない。富と貧困、表現の自由と道徳、プライドと偏見、寛容と秩序などなどリバタリアニズムの限界にまつわる各種事例をならべただけで、見終わった後「So what?」と監督に思わず結論を尋ねたくなる構成なのである。パルムドール受賞作というふれこみだけで観賞したものの、巷の評価が真二つに割れた理由はおそらくそのストーリーテリング欠如に由来しているのだろう。もっと寛容に?表現の自由だ?っていわれてもねぇ、チャラにするってわけにはなかなかいかないのよ、これが。
スウェーデンもそうなのか
スウェーデンは福祉国家で、日本よりも社会と人間に対する考えが進んでいる国、税金高いけどいいなぁと勝手にイメージを持っていました。が、幻想だったか。やはり人間はどこへ行っても同じなのかなあ。民度高めなところもあるのでしょうが、アカデミーの方々の選民的な感じ、モンキーマンの野生を前にしたら、こっぱみじん。人間も動物ですが、人間はよくそれを忘れる。「人間と動物の違いは〜」とか言う。
主人公もいくら澄ました顔で現代アートを語っても、やっぱりお金の大変さはある。お金持ちから寄付集めや炎上商法使ってでも一般の集客しないといけない。
生きるって大変。
選ばれし者側として生きる主人公、でもかたやスクエアという四角の中ではみんな平等という、コンセプトアートを進めている皮肉。収入や社会的地位の格差、階級の溝、人種間の不信、など妬みや蔑みが描かれて行きます。
主人公も心は平静じゃない、あたふたしてます。
偏見は知らぬ間に育ち、当たり前になっていく。
平等とは所詮たわごと、なのかなぁ。
全然ハッピーエンドの道筋は見えません。そんな予定調和じゃない。
私もアートは大好きですが、それは単純に、自分に元気をくれるから。映画も音楽も同じ。心の食餌。だから自分にとっては食えない作品もある。毒になるものも。でも他の人には良い栄養になる。
ここ15年くらい展覧会でもコンセプトやらキュレーターの解説が多過ぎ、味付けし過ぎ、と感じることが増えました。申し訳ないけれど作家のプロフィールくらいしか読まなくなりました。作品=素材だけでいいのに。いい意味で放っておいて欲しい。自分なりの味付けができる余地が必要です。説明とか要るくらいなら、別にアートじゃなくていいですもんね。
そういう意味で観客に自由に感じさせてくれる映画です。
レビュー
耳が痛い話を耳元で大声でされた感じ
【表層的な人間性の優しさを剥ぎ取ったリューベン・オストレンド監督の強烈なインパクト溢れるメッセージ映画】
第70回カンヌ国際映画祭最高賞パルムドール受賞作。
であれば、何らかの感動を得られる作品なのかと思って観れば、冒頭から不穏な雰囲気が満載である。
『”ザ・スクエア”は<信頼と思いやりの聖域です>』と謳われた作品を展示する事にした現代美術館のキュレーター、クリスティアン(クレス・バング)。
バツイチだが、二人の娘を愛する洗練されたファッションに身を包む”世間的には”キャリアは順調に見える男が主人公。
彼のねらいは「全ての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」という高邁なテーマを世に問う事であった。
だが、彼はある日、自らの携帯電話と財布を盗まれてしまい、それを取り戻すためにある行動に出る・・・。
高邁な理想を掲げた男の浅はかな実態をシニカルな視点で描き出すリューベン・オストレンド監督。
とりわけ、強烈な場面として描かれる富裕層が招かれたディナーが開催されている美術館の前に座り込むホームレス達の姿と、そのディナーに余興として呼ばれたテリー・ノタリー演じる強烈極まりない猿人類を演じるオレグの狂態に最初はひたすら耐える富裕層のパトロン達の姿。
ブラック&シニカルユーモアのシーンの数々を151分見せられた後、この作品をどう捉えるかは、観客自身に委ねられる。
<それにしても、未だ40代のリューベン・オストレンド監督って、どれだけヒネクレモノなのだ。「フレンチ・アルプスで起きたこと」も相当ブラックな作品であったが、今作のブラックさはあの作品を遥かに凌駕している>
<2018年4月28日 劇場にて鑑賞>
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