ザ・スクエア 思いやりの聖域のレビュー・感想・評価
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感想
正直人には勧められない。
広告がどちらかというとドタバタコメディ路線ぽかったけど、結局は差別問題。あとは表現の自由?
意味の分からない女のシーンの猿は子供の暗示かなー。
オランウータンマンは広告への反動なんだろうけど、長い割には特に。
全体的にとっ散らかってるのに、時間は長いのでもっと何を書きたいのか考えて90minにおさめたらええんちゃいまっか。
本当の人間を見たような。
スクエアな社会をあぶり出す
タイトルがサークルでなくてスクエアなのは、何か意味があるのかもしれない。英語のスクエアには四角四面で融通が利かない人というイメージがある。四角形には円にはない角があり、場合によってはボクシングよろしく、コーナーに追い詰められる。
非常識なアイデアを実行した主人公が逃げ道を失って四方八方から叩かれる様子は愚かであり間抜けであるが、決して他人事とは思えない。あれはまさに、かつての自分ではないか。いや、もしかしたら現在の自分、或いは未来の自分かもしれない。
主人公は自律の能力に欠けていて、小さな欲望が抑えられなかったり、くだらないプライドが傷ついただけでつい怒鳴ってしまったり、他人に責任を転嫁したりする。典型的な俗物そのものである。
そんな俗物が社会の格差についてモノローグのように語り、富の再配分を解説する。苦しい言い訳にも聞こえるが、さすがにインテリゲンチャだけあって、言っていることは実に当を得ている。社会保障が充実しているイメージのスウェーデンで街の至るところにホームレスがいるのは、彼の言う通り、セーフティネットが機能していない可能性がある。
主人公は救いようのない人物かもしれないが、映画は必ずしも彼を見捨てない。むしろ全力で彼を肯定しているようにさえ感じられる。
スクエアという思考実験は炎上マーケティングによってよくも悪くも注目を浴びる。その結果、異端を排除しようとする精神構造が世論の中心になっていることが明らかになる。それはまさに、社会全体がスクエアな人々で満ち満ちていることの証左ではないか。
身に詰まされた
不条理
「フレンチアルプスで起きたこと」のリューベン・オストルンド監督が、2017年第70回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した作品。151分と比較的長い作品でもある。
こう来ましたか。タイトルと、宣伝内容から、“スクエア”が物事の焦点になるかと思いきや、必ずしもそうでも無かった気が?騒動のきっかけでもなく、結末でもなく。
リューベン・オストルンド監督の他の作品で「フレンチアルプスで起きたこと」がありますが、そちらが不条理劇であったのと同様、こちらも不条理劇ですね。時々映画館の中では笑いが出ていましたが、それは素直な笑いと言うよりは、皮肉な笑いという感じでした。
良く分からなかったのが、物語終盤の晩餐会の場面。この場面は、何を描きたかったんですかね??猿に扮した人物が、乱暴狼藉を働いただけですよね?“オチ”がわかりませんでした。展覧会の炎上PR動画で、“表現の自由”の問題について焦点が当てられようとしていましたが、これも、“表現の自由”なのですかね?
うーん、これがパルムドールか。カンヌの観客、目が肥えてるな。
現代美術ディスってんのかと思った
主人公が現代美術館の館長だからね。現代美術の胡散臭さをおちょくってんのかなと最初思ったの。まあ、おちょくってるところもあると思うんだけど。「『タブーを壊せ!』みたいなこと言うけど、そこまでの覚悟ねーだろ!」みたいなのもあるしね。
言いたいことは何かあるのか解らないな?と思いながら観てくとね、少年に向けた動画撮影するところで、テーマが出てくんのね。そういうことだったんだあっていう。
スクエアの中では「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」ってことになってるんだけど、ここは地球全体がスクエアに入ってると考えるんだろうね。その中に爆弾もあるんだね。
美術館に展示されてる現代美術作品のパロディもうまいね。実際のいくつかの作品を組みあわせてる。掃除係が砂利を壊しちゃったときに「適当に直しておけ」と館長が指示するんだけど、これは、本当にそうなんだと思うよ。コンセプトが合ってれば、細かなところはどうでもいいから。
その展示で好きだったのは入口で「あなたは他人を信じますか?」で「信じる」を選ばせといて、入ってすぐのところで「ここに財布とスマホを置いてください」ってやるところ。「信じたなら置けよ!」ってことだけど、置けないよね。
猿人間のところも面白かった。みんな、自分達の領域に入ってこない間は友好的だよね。そこをはみ出してきてさ「これは、もう犯罪だ!」ってなると「殺せ!」ってなっちゃう。
作り込み過ぎ?
スクエアが公平と平等の象徴であるがゆえ、この映画のストーリーは、スクエアから逸脱する、様々なノイズで覆い尽くされている。ノイズをノイズとしてしか聞くことができない時、私たちはスクエアの意味などわからないのだ。
まぁ、それは、わかる。
でも作り込み過ぎている分だけその分気分が悪い。自分を投影しても気分が悪い。そうじゃなくとも気分がわるい。で、だからこそ、この映画は「成功している」と考えると、もっと気分がわるい。
情欲に身をまかせることも、フォーマルな場での獣的な狂気も、今ここしか見られない幼児的な偏執さも、全てはスクエアからの逸脱したノイズでしかない。
そもそも、スクエアの意味を問うことが、高尚な偏見の極みそのものだ。
と読み解いたところで・・眠い映画はやはり眠い。
なんて言えばよいのだろ
アートそのもののような映画
自滅
注目を集める現代アート美術館長とその周辺の騒動と災難。
アートについても判ったつもり、持ち上げられて出来る人間と勘違いしていて、自分を持たずハッキリしない主人公が巻き込まれる自業自得な面倒臭い話の数多をシュールにみせて行くストーリー。
面白気な空気感だけど唸る程のものは無いし、笑ってしまうところは一つもない。
劇場で声を出して笑っていた人がいたけれど、そういう場面の殆どは比較的ベタなところであって、この映画の本当にみせたいところではないという、そこを面白いと言ったらこの美術館や館長を持て囃し斬られる残念な側の立場っていうね。
大した黒さも深さもないし振り切ったところもなくて、描写は違えど同じ様なことの繰り返しだし、何より長過ぎる。
肉薄する作品
社会における責任のありかたを、アート作品で風刺
昨年の第70回カンヌ国際映画祭(2017)・最高賞のパルムドール受賞作である。プレミア上映に合わせて監督のリューベン・オストルンドがスウェーデンがら来日していた。
ブラックコメディ「フレンチアルプスで起きたこと」(2015)で、笑えない"家族の崩壊"を描いた、オストルンド監督が、またしてもシュールな問題提起をする。
今回は、"モダンアート(現代美術)"を茶化してしまう。彫刻やオブジェなど、社会との共生を主題にした作品が多いモダンアートの世界は、一見、ワケのわからない作品が多いというのが、一般的だろう。
タイトルの"ザ・スクエア"は、劇中に登場するアート作品の名前である。それは広場に引かれた白線で囲まれた正方形のインスタレーション芸術である。横断歩道で自動車と人が譲り合うように、"ザ・スクエア"を通りかかる人々は、その中では、"思いやりの心"を持たなければならない、利他主義の象徴みたいなアートだ。
主人公のクリスティアンは、現代アート美術館の主幹キュレーター。社会的地位と経済的優位を持ったセレブ階級であるが、そのクリスティアンがとんでもない災難に巻き込まれる話である。
日本人のイメージする北欧は、"先進的な福祉国家"という印象が強いかもしれないが、監督が描くリアルなスウェーデンは、駅前や店先で物乞いや小銭を無心する人々が見かけられる格差社会。東京のホームレスと大差ない。
人混みの中では、困った人がいたとしても、互いに第三者を装う、"傍観者効果"が起きる。たとえ暴力事件や犯罪が行われたとしても、大衆は通りがかりの人になりきる。
モダンアート"ザ・スクエア"は、そこに困窮している人がいれば、なにをおいても助けなければならない。まさに"思いやりの聖域"である。クリスティアンは、その"ザ・スクエア"を展示会の目玉にしようとするが、皮肉にも良心とは反対の状況に追い込まれていく。
昨年のカンヌでは本作以外にも、"他者への無関心"をテーマにした作品が複数出品されている。監督たちは、スマホやPCによるSNS文化がもたらしたディスコミュニケーションを取り上げ、それにアプローチした作品が多く作られた。
「ザ・スクエア」は、最高賞パルム・ドール受賞という形で、それら作品トレンドの代表となったともいえる。
SNSは、それ自体がコミュニケーションツールなのに、不特定多数の相手とつながり、膨大な情報に浸りながら、社会とアダプトしているようでいて、実は誰ともコミュニケーションしていない。
例えば、"家族団らんの場で、各々がスマホ画面を見つめながら、家族はつながっていない"という風景である。
本作劇中で登場する、"モンキーマン"(チンパンジーを演じるパフォーマンス)のくだりでは、正装する参列者は、パーティー会場で大暴れするモンキーマンを無視し続けなければならないというルールを課し、大勢を傍観者状態に置く。
また逆に、作品終盤で出てくるチアリーディングの試合会場は、実はスクエア(正方形)である。ここで行われるダンス演技は、相手とシンクロしたり、リフティングするために互いを助け合い、より高度なパフォーマンスを成功させている。人と人のつながりや信頼を象徴している。
本作で、オストルンド監督は、"個人レベルや社会のレベルで、責任を取るとは?それらを集めてみた"と語った。お互いに信頼しながら共生することに、社会の希望があることを、観客に示したドラマでもある。
(2018/4/11 /ヒューマントラストシネマ渋谷/ビスタ/字幕:石田泰子)
「差別してません」という差別
面白かったなぁ
アートというのは、作品を創作した者も、その作品を展示する者も、それをしたり顔で理解した風な観客も、所詮、自己満足であり、そうやって人は他人を見下し、差別化しているのだと訴えかけくる作品だった
スウェーデンのコペンハーゲンにあるX-ロイヤル美術館では「ザ・スクエア」という作品を展示する
それは、ただ、床に描かれた正方形であり「この四角の中では、人はみな平等。ここは思いやりの領域です」という
そこで、私は思わずツッコミを入れてしまう
「人々が平等なのは、その小さな四角の中だけなのか!」と
もしも、社会が本当に平等ならば、そんな「領域」は必要ないのに
なぜ、その「領域」か必要なのか
それを「アートだ」と言って展示している人たちこそが、貧乏人を見下していて、そのアートの存在こそが、傲慢なのに、誰もその異常さに気付かない
この映画では、主人公で、美術館のキュレーターであるクリスチャンが、そんな「平等な社会」の理想と現実に気付くまでの物語である
そして彼が世に送り出した芸術は爆発する
現代においては
アート作品を発表し、それが反感を買い、ネットで炎上し、名前が売れるまでの全てを含めて、その全てがアーティストによるパフォーマンスなのである
これは、批判されればされるほど、作者の名前が売れ、知名度が上がるという現代を見事に描いた作品だった
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