ザ・スクエア 思いやりの聖域のレビュー・感想・評価
全101件中、1~20件目を表示
現代社会への痛烈な皮肉
前編にわたって、現代社会に対する痛烈な皮肉に満ちたブラックコメディ。現代アートの美術館を巡る物語だが、そこだけにとどまらず、インターネットの発展によって、社会の全てがメディア化した現代社会の闇を見事に浮かび上がらせている。
本作に登場する広告代理店の炎上商法は、今日では毎日のようにネット上で繰り広げられているものだ。そして主人公のような、高い理想を掲げてことを言う一方で、全く正反対のことを現実では行動している人もたくさんいる。
この映画で描かれていることは、全てムチャクチャだと感じるが、たしかに我々の生きる社会は今、こうなってしまっている。そのことの説得力がものすごい。
もとは監督が手がけたアートプロジェクトが発端だそうだが、小さな街で行ったので、映画のような結果にはならず、とても意義深いものになったそうだ。社会は構成員が増えれば増えるほど、コントロールが難しくなるとのだなということも考えさせられた。
本音と建て前、偽善……思い当たるからこその気まずさ
squareには「正方形」のほかに、「公明正大な、正々堂々の」といった形容詞の意味もある。映画に出てくるインスタレーションは、正しい行い、正しいあり方とは何かを考えさせる装置であり、それがそのまま映画のテーマとも重なる。
主人公クリスティアンは現代美術館のキュレーターで、成功者にして良き父親だ。だが街角で人助けをしようとしたら財布と携帯を摺られ、取り返すためにとった行動から泥沼にはまっていく。また、利他主義を訴えるはずのアートが、PR会社の炎上手法により非難の的になってしまう。
本作は観客が気まずくなるシーンで満ちている。この気まずさは、自分自身にある本音と建て前、偽善的な部分を鋭く突かれるからだ。それは鏡を見て自分の醜さに気づかされるようなもの。実によく“刺さる”社会風刺劇なのだ。
大好き。
最新作の『逆転のトライアングル』から観たが
終わり方が秀逸なのが
この監督の持ち味なのを
二作目にして確信。
最新作もそうだが
貧富の格差により焦点を当てている。
しかし所謂社会的にその問題の
本質や解決策を提示するわけではなく
良くも悪くも貧富どちら側からも
人間味溢るるドラマが進行することで
そのシステムがよろしくないと
分かっていながらそれに流され
生活し続けている私達の胸の
奥深くまで突き刺さる。
階段から突き落とされた
少年はどうなったのか。
あの声は主人公の幻聴だったのか。
それともあの世からの恨み節だったのか。
娘の少年への謝罪の動向への思惑は。
様々なドラマの事実だけを提示し
回収しないことの豊かさ。
前半はシュールな笑いでそこそこ楽しませてもらえる。 ただ、後半に出...
多分、スクウェアとはあの事でしょう。僕のは液晶が壊れてます。
Y◯uT◯beはあんな動画は絶対にアップロードしない。
それを前提にこの話は進んでいる事を先ずは知るべきだ。
従って、あり得ない寓話と言うことになる。
イルージョンとしての映像美術を鑑賞者を巻き込んで展開して行く。
しかも、ブラックなエスプリを含んだシュールなストーリー進行。
カメラだけでは話に流れが出ないが、カットを入れて話をつなき、物語を構成して行く。
小津安二郎監督の哲学が含まれている様に感じた。人物を保々正面から捉えて、台詞を話す人物をカメラの背後に隠す。
常套的な表現で申し訳ないが、小津安二郎監督やモンタージュ理論に則した作品制作をしていると感じた。
そして、大義名分で哲学的に語られるが、要は面白くないコンテンツが多んじゃない?っつう事さ!
これは面白い
とても良かったのですが、一口何がと言われると説明しにくい
例えばアンがチンパンジー?を飼育していることと、パフォーマンスアーティスト?のモンキーマンはどう対比されているのか、とか色んな解釈ができる
アンとクリスティンが美術館で話をするシーンで、背後に積み上げられた椅子のアート作品があり、それが時々ガラガラと(録音された)音を立てて崩れる(かのように演出されている)
そういうイメージの対比を使って、こちらの想像や読みを掻き立てるようなシーンが非常に面白い
映画を見終わったあとにやはり観念と現実との食い違い?というか、観念が現実を言語によって捉えたところで、現実は十歩も二十歩も先に進んでいってしまってるんだなみたいなことを考えました
それにしてもあのゴムはよく伸びた
手を差し伸べるか否か?
スウェーデン映画って、珍しいと思いながら鑑賞。冒頭、現代美術が、ある意味高尚すぎて、大衆受けしないからどうやって注目を集めるかをチームで協議。小難しい抽象的な専門用語ではね。そのために動画を撮影ということになるけれど、美術が、商業主義、分かり易さとのジレンマを抱えていることを理解。確かに。
クリスティアンが、財布とスマホとカフスボタンを金切り声を上げていた若い女性にすられる。取り戻そうと脅迫的な手紙をGPSが指し示すアパートに投げ込むのが全ての発端。下手に手を差し伸べれば、騙されてしまうのが、まず最初の皮肉。アパートのある地域が、下層の人々が住んでいるため、あまり直接的に関わりたくなかったのだろう。本人と部下が、お互いに責任を取りたがらないのが延々と続く。どういう経緯で盗難した物が少年に渡ったかはわからないが、盗みを疑われて酷い目にあったと少年が謝罪を求める。がしかし、部下もクリスティアンも謝罪しようとしない。我々の姿だ。それは、クリスティアンとインタビュアーの若い女性との性的な関係の後でも同様だった。深く関わると言質が取られたり、責任を取らされるのも現代社会だ。
美術についてのトーク会場で、障がいをもっている人が酷い言葉を投げつけるのも、美や思いやりと現実社会との乖離を痛烈に批判。実際にこのような美術を愛でている人たちへの生の感情なのではないか。
ディナーパーティでの、類人猿らしきパフォーマンスは、ちょっとやり過ぎ。実際は、類人猿のような欲望を衣服の中で隠し持っていながら、すましている上流階級の奴らが、他の人がどこまで困っていたら手を差し伸べるのかを映像化しようとしていた。意図がわからないこともあり、皆、浮くのを恐れて辞めさせようとしなかったが、女性が襲われて初めて、複数の男性が反応。でも、移民やら最下層の物乞いが捨てておかれるのは、
権力を持っている人たちが、困っている人たちを何とかしようと真剣に考えていないからというメッセージか。
最後、自分が役職を辞任して痛い目にあって、クリスティアンは少年に謝罪をしようと行動するが、もう既に引っ越しをしていて、後の祭り。
「ザ・スクエア」は、そこにいれば明らかに助けを呼んでいるという領域にしようという設定。しかし、実際には、明らかに助けを呼んでいる物乞いのような人たちでさえ、手を差し伸べられていない現実との対比。
スクエアの中は、中空のようにも見え、そこにどんな思いを詰め込んで行動するかは、一人一人に任されてているのかもしれない。
美術、福祉、広告、貧富の格差、社会の分断等、多くの要素が盛り込まれているように思えたが、ショッキングなシークエンスが目立って、あまり深く考えさせるような映画ではなかったように感じた。
旬の監督。次作はホラーでも。
モンキーマン、やり過ぎ!
スマホと財布とカフスボタンを盗まれたクリスティアン。その序盤のシーンからして、「助けて」と叫ぶ声が聞こえ、一人の女が近寄ってくるというシークエンス。現金を持たない主義のクリスティアンだから、カードは即無効にするとか、普通の対策を練ればよかったのに、GPSで特定できたアパートの全ての部屋に脅迫状を送るという手段を取った。
「スクエアの中では皆平等に権利と義務を持つ」などというテーマを前面に押し出してるにも関わらず、不条理な出来事と権力を持ったことによる矛盾が表面化している。各エピソードの合間には必ずと言っていいくらいに物乞いの姿が登場するが、慈善の心を持っているのにキャッシュレス時代を象徴するかのように小銭がない。通行人の誰もが恵もうとしないのだ。
偽善者と呼ばれてもおかしくない窮地に追い込まれたのは、部下の二人がYouTubeに動画を投稿したことがきっかけだった。美術館を宣伝するためにスクエアの中に物乞いの金髪少女を立たせるまでは良かったが、最後に爆発させるという酷いシロモノ。弱者をいたわるつもりが、弱者を排除するかのような動画はあっという間に30万回再生を超えてしまう。
財布とスマホはコンビニに届けられ、無事に戻ってきたはいいけど、親に泥棒扱いされて怒ってる少年が登場。その対処法にも思いやりが感じられず、精神的にも追いつめられるクリスティアン。
スウェーデンを中心に北欧の国々は社会保障や福祉は充実しているものの、その財源のための税金が高い。老人になれば平等といったイメージがあるけれど、それまでの現役世代にはやっぱり恐ろしいほどの貧富の格差があるのだろう。金だけじゃ解決できない思いやりも、目に見えない力によって均等化に向かわない。結局は権力者の傲慢さが生み出した社会矛盾なのだろうと感じた。
さくっと
笑えたりゾッとしたりの”気まずい”瞬間を集めたような作品。
一番大きな気まずさは、目の前の大きな問題から目を背けていること
いつの間にか自分自身にしか目が向かなくなっていることだろうか。
現代アートを題材にしているからこそ内省を促してくるというか、
曖昧な”自分自身”を客観視させられるというか。
ちょっと今は個人的にあまり良い精神状態じゃないせいか、
わりと深刻に受け止めすぎた部分もあるかもしれない。
ストーリーらしいストーリーがない純文学みたいな語り口。
「フレンチアルプスで」もそうだったけど
さらっとした語り口で見る側のナイーブをさっくり刺してくるような
どんな自分でありたいのか、みたいな問いを突き付けられるような作品だったと思う。
今の時代だから…こその
芸術の 社会での有用性
レセプションでの執拗なモンキーマンのシーンには閉口した(苦笑)
でも星を減らしたのは
オストルンド監督、前作で出し尽くしてしまったのかな、悪ガキが 貯めてあったアイデアをちょっと散漫に盛り込んだ感がして。
「フレンチアルプスで起こったこと」(前作)では、僕個人の感想としては不愉快極まりなかったが、非常に出来は良かった。
本作は、各エピソードは実に光ってるのに、総合体としては残念ながらバランスが悪くて、意味が破断し 脈絡がなかったように思う。
二番煎じとしても失敗。爆発シーンは最大の蛇足。
ちょっと「俺ってセンセーショナルじゃね?」臭さが鼻についた。
映画の構造としては
①美術館、わけても現代アート美術館経営と、気取った愛好家=裕福で物知り顔の評議員たちへの辛辣な揶揄・からかい。
(多数の円錐形砂山の展示室をチラッと覗いただけであっちへ行ってしまう客の上半身だけのシーン、あそこ腹を抱えて笑った。あと誰もいない展示室で積み上げられた椅子がガタガタ揺れるオブジェと監視員の老女とか、あるある感でもう抱腹絶倒)。
②そして、そもそも美術というものが人間の実生活に与える力や、その価値の有無についての ひねた問題提起。
「ザ・スクエア」を次なる展示企画としてあげるクリスティアンの”思いつき“の軽薄さ。
貧困や移民問題を絡めてみても すべてが思いつきだという内幕の暴露。
③美と家庭生活の乖離。
・・これらのごった煮で、なかなかでした。
近年のバンクシーのオークションのハプニングやら、
ダ・ヴィンチ「サルバトール・ムンディ」への高額投機やら、
美術界を取り巻く人間模様は、その欺瞞性をあげつらってイジるには題材に事欠かないですね。
・・・・・・・・・・・・
先月、
ある美大の「卒業作品展」に行ってきた。
上野にある2つの美術館を借りきっての、学部生と院生の 卒業制作の発表の場だ。
油彩、彫刻、工芸、建築、そして映像の作品まで・・、若いアーティストたちの渾身の集大成が胸を揺さぶる。
美を探求して4年、あるいは6年。
卒業し、学校を離れて世に埋もれて行っても、彼らは以降も美を創造していく心とか、
善を愛し、世の中にもまれながらもそれを発露させていきたいうずきを持ち続けて、当初の熱い思いを持続し続けることは出来るのだろうかと。
・・それは煤汚れた世の中でどれだけ難しいことかと。
展示室をまわり、自作の前に立つ美しい顔立ちの作者たちとぽつりぽつりと言葉を交わしていて、彼らの前途の困難さが可哀想で、胸が一杯になってしまった。
コンテンポラリー・アートは、劇中でキュレーターのクリスティアンが言っているように《美術館の場を超えてその作品に触れた者への日常生活への干渉を生み出す》ものだ。
「卒展」で作品と作者を見比べながら、たくさんの生きた”種“が世界に播種されていく瞬間を見させてもらえて、感動の体験だった。
・・・・・・・・・・・・
美術館の中と外、
理想と現実、
日常とパニック。
監督の見つめる「額縁」=スクエア=は人間社会の見えない監獄の内外(うちと)を示すものかもしれない。
心のスクエアをせばめるごとに、自分が見たくないものに目を瞑って楽な生き方を謳歌出来るのか、あるいは(思いもよらず)スクエアの内側にいた自分の首を自分で絞めることになってしまうのか ―
「答え」はよくわからない。
・・・・・・・・・・・・
今年も3月11日がやってきた。
あの時、被災者はお金や家屋や食料が必要なのに
東北の避難所ではお絵かき教室や
アンパンマンの合唱や
俳句教室や
漫談・音楽コンサートをするために駆けつけたタレントが一杯いたことを思い出す。
そんなことでは被災者の胃袋はふくらまないのに。
でも小さな種が芽吹いた。
「助けて下さい」
「応援お願いしまーす」
車椅子ボランティアをやっていた僕自身が、新宿駅の雑踏での経験を思い出す、
「お前はこのラインで終わりだ」
「その先に行く資格なしだ」、と言わんばかりの車椅子の前に突き付けられた絶望的な駅の長い下り階段。
Uターンしてエレベーターを探すのは面倒くさいし
大声で言ってみたんだよ
「助けて下さい」
「応援お願いしまーす」。
あっという間に 魔法のように人の波の中から生まれ出て、サラリーマンたちが駆け寄ってくれるじゃん(笑)
世の中捨てたもんじゃない。
美と善。埋もれていても”種“は確かに存在する。
人の心のスクエアのラインは、
案外簡単に越えられると信じる。
·
まるで寓話の様な、また風刺画の様な。さらに哀愁まで漂う。
思いやりの不在で、思いやりの形を描く技法
ドーナッツの空洞を追求することで、ドーナッツの形を浮かび上がらせる、そういう技法のように思った。
なぜなら、この映画では、思いやりは、ほんの数回しか出て来ないのだ。
むしろ、無視、無責任、言い逃れ、他人のせいのオンパレードである。
ザ・スクエアは現代アートの美術品。
「ザ・スクエアは、信頼と思いやりの聖域です。そこには、平等の権利と義務があります。」
主人公は、権威ある美術館の有名キュレーター。
美術品「ザ・スクエア」を展示して、その現代的意義と重要さを語るものの、主人公自身は、無責任で、自己中心的。
高度な知識人として福祉や平等の重要さを熟知しているという体裁を保ちつつ、
物乞いや仕事仲間や娘や一夜の相手に、人間的な共感は示さない。
成熟した知性や品性のある大人の振りをした大人である。
映画は、無責任と、無視と、不愉快が延々と、淡々と繰り返される。
緩急やドラマ性やショウ要素は乏しく、ドキュメンタリー調で続いていく。
決して好ましくも楽しくもないのだが、
見事だと思ったのは、不愉快な場面への引き摺り込まれ度合だ。
ドレスアップした華やかな晩餐会で、猿人が女性を襲うシーン。
余興なのか、本物なのか、余興なのか、本物なのか、本物の暴行なのか、巻き込まれたくない、助けるのは私の仕事だろうか、私は関係ない、誰かやるだろうという緊張の波が伝わってくる。
最初に動いた老紳士、ブラボー。
映画や舞台であっても、このように不愉快な態度や空気が悪いシーンがあると、
その空気に同調して、見ている観客も気まずい思いをすることがある。
観客をその仕掛けの中に引き摺り込むこと。
その果てに、日常生活では気づかない、何かを垣間見せること。
そういう仕掛けが、映像作品の醍醐味の一つだと思っている。
本作は特に、観客の負の感情を波立たせ、引き摺り込む仕掛けが多いと感じた。
だから、決してハッピーに見られる映画ではない。
ともかく、気まずい。
早く終わって欲しい、という不協和音のシーンが続く。
しかし、それこそが、思いやりの不在、ドーナツの空洞の中なのだと気づかされる。
そして、ドーナツを自分が必死に探さなくて済むように、
さっさと、いつも通りの、想定内の、予定調和で、事件が終わって欲しい、と強く願う自分に気づく。
場違いなものは、無視したい、過ぎ去って欲しい、責任は負いたくない。
見ている自分自身の心理的振る舞いを問いただされる仕掛けが凄い映画だった。
ーーー
最後に、好きだったエピソード。
少年との対決について。
庶民の少年は、富裕層の主人公に、怒り狂っている。
少年は、服や車や家や手取りや預金残高なんぞの違いで、卑屈にならない。
正々堂々、人間対人間として、怒っている。
お前が僕を侮辱したことで、僕は実害を被ったのだ、謝れ!と。
至極もっともな論理で自ら交渉に来る、賢く勇気ある少年である。
なお、ここで、私は、またしても、この映画に、自分自身の心理的振る舞いが、暴かれた。
何でこの子供、子供の癖に偉そうなの?
そう思っている自分が居たのだ。
怒鳴り続ける声を聴きたくない、怒鳴る子供が憎たらしい。
どこまでも少年は正当で、被害者で、困り果てている、子供だというのに…。
スクエアの外から、中の子供を見ている自分に気づいて、冷やりとした。
そして、無責任が身上の主人公はどうしたか。
逆ギレをして偉い大人の声音で説教をして、少年を突き飛ばして追い返した。
自分が完全に悪い癖に。
しかし、さすがに、主人公もばつが悪くなってきて、今までの主人公とは思えない行動を取る。
そして、数時間後、少年に謝罪を試みる。
だが、その謝罪声明でも、まだまだ、主人公は変われない。
理想を言えば、主人公は、ザ・スクエアの中に入って、素直に謝って欲しかった。
「個人の尊厳と権利と自由。信頼と思いやり。平等な権利と義務。
この世で一番大切なものなのに、君のそれを踏みにじった、私は、本当に悪うございました。
申し訳ありませんでした。君にも、君のご両親にも、直接謝罪させてください。
本当にごめんなさい。」
だが、主人公は、少年がその真ん中で彼を睨みつけている、ザ・スクエアの周りを相変わらず、うろうろしている。その声明を意訳すると、こうなる。
「僕も確かに悪かったんだけど、それは認めるんだけど、
でも僕が何でそんなことをしちゃったかって言うと、
君のお家のあるエリアって、ちょっと怖いからなんだよね。
ほら、お互い、偏見があるじゃない。お互いにね、君にも、僕にも。
この手の問題って、社会全体のもんだいだから、そうそう解決は出来ないよ。
僕が謝るだけでどうにかなる問題ではないもの。
大きくて構造的な問題なんだ。
世界の富の半分は291人が所有しているが、なんと、その一人と僕は知り合いなんだ。
彼に言えば、もしかしたら、あっという間に解決しちゃうかもしれないんだけどさ…。」
いや、大きくて構造的な問題の前に、君と僕との個人的な問題だろ。
さりげなく有名人と知り合いアピールまで入れて、何だお前。と、ツッコまずには居られない。
なお、末筆ながら、主人公のために言うと、
最後の最後には、主人公も、スクエアの線の上に足を置いたのだと、私は受け止めた。
人間は幾つになっても変われるもの。
スクエアやドーナツを探す眼を、忘れないようにしたい。
アートとは誰のもの?
パルムドール受賞作らしい映画だったけど、ずっと内容・雰囲気ともにイライラさせる。脳のむかつきを抑えながら観た。でも、これだけ全編を通してずっとむかつかせることができるのもある意味すごい。
Youtube動画の件とかは、さすがにやりすぎと思ったけど、表現の自由とはなんだろうね。難しい。アートだと言い張ればなんでも許されるのか。そういったことも問題提起していると思った。
また、アートをどう扱うかは、富裕層が決めてきた。昔はお金持ちのパトロンがいて生活してたり。でも、もう今はいろんな人がアートを生み出す時代なのかも。アートが大好きな私も少し考えるべきだと思った。
点数は低くつけたけど、考えるきっかけをつくってくれた作品だ。
秩序とカオス、そこに人間がいる。
パルムドール、常に追っかけてるわけではないので、賞だけ知って見た。
結論は、これぞカンヌ。納得です。
北欧って一括りにはできないんだろうけど、物乞いが普通にいるのは、先入観の虚無への供物ですね。日本だったら、まず店や道端からとにかく排除するから、また違うんだなぁと。
そして、それもスクエアの一辺。公平も信頼も思いやりも、秩序の一辺に過ぎないと提示されて、我々がほしいのは、秩序という囲いなんだと改めて。
逆に最も恐れているのは、カオス。不快、不愉快なのは理解不能だから。
少年は最高だったけど、手紙には、お前にカオスを与えてやると。殺してやる、とか、痛い目に合わせるとかがフツーだけど、カオスを与えてやるってさ。
もう手紙自体がカオスなんだけど、なぜあそこまで執拗に怒ってるのか、理解不能でいるうちは、カオスが続くだけ。
きちんと考えれば、そういう反応が起こりうる(あの執拗さも含めて)事は、理解できるはずなのに。
だから、登場人物を(自分とは違って?)欠落した人間に置いてしまうのは、理解不能とレッテルを貼る嘘だと思う。
少なくとも本編で起こってる事は、それ自体理解できない事は何一つないし、アンが言うように、「またまたー、分かってるんでしょ?分かってるわよ。」と執拗に要求する。理由が分からなくても、言ってる事自体は、理解できるはずだからね。
見るものほぼ全員が固まった猿人では、逃げたら襲われるのアナウンス通り。最初の女性だけでしたね。逃げなかったの。むしろ、女性の方が見つめていたくらい。
終わって見て、こんなに長かったの?疲れた状態だったけど、面白かった。
動画では、むしろスクエアの中にこそ、無責任な偽善的地雷が埋まってて、そこでは誰もが平等。という皮肉というよりかは現実。聖域だから、入らない前提なんだよね。思いやり地帯だから、誰かが助けるんだろうと。でも、誰も行かないから、結果助からない、という。
だから、提示としては、この映画は、少年よろしく、理解を執拗に要求してるんですよ。この映画自体が。勿論、逃げる人は逃げるし、嫌がる人は嫌がる。怒鳴る人は怒鳴るけど、理解が深まれば、いつまでもそうとは限らないと感じた。
ただ、理解をしつこく要求されているうちが花でもあるので、成熟・成長するチャンスは限られてるとのラスト。
しかし、主人公には娘がまだいますから、これから頑張って欲しいし、まだ何も終わってない感じに具体的な提示が最後あって良かった。知らない誰かではなく、知ってる誰かを理解できるはず人間は。まず。という。
万引き、パラサイトも良かったけど、より執拗に「展示」してくれてw見応えありの納得の作品。次回作が楽しみだね。
リバタリアニズムの限界
映画タイトルの“スクエア”には劇中登場する正方形の白線で囲まれたアートを指し示しているが、もう一つ別の意味が隠されている気がする。この“スクエア”にはスラングで“五分五分”とか“チャラにする”とかいう意味合いがあるらしく、前作『フレンチアルプスで起きたこと』(未観賞)同様のおそらく“二律背反”をテーマにした作品だ。
映画冒頭、赤の他人のために正義を行使したつもりが逆にスマホと財布を協力した相手に盗まれてしまう主人公クリスチャンは、移民の物乞にチキンサンドを恵んでやったら玉ねぎ抜きって言ったろと逆ギレされる。4文字言葉を連発し会見を邪魔する精神障害者に寛容たれと呼びかける紳士がいたかと思えば、その紳士淑女が集まったパーティ会場で行き過ぎたパフォーマンスを見せる“モンキーマン”を集団リンチ。YOUTUBEを使った斬新な展覧会告知が、貧困層蔑視にあたるとマスコミの袋だたきに合い、結局クリスチャンは美術館キュレーターの職を辞するはめに。
思いやりや寛容を示せば示すほど、プラス効果どころか収拾がつかないほどのカオスをその場に生み出してしまうのである。ザ・スクエアの白線がメタファーとなったその二律背反の境界線に踏み込んだとたん人々は一瞬うつむき沈黙するのだが、相手が自分の領域にずうずしく踏み込んでくると怒り心頭に達し暴力へと及ぶ。つまり、人間が他人に優しさと寛容性を示すことができるのはそのスクエアの“内面”ではなく、それを四角く囲んでいる白線=境界線上のごくごく狭い範囲、その部分だけなのである。
しかしこの映画、一般的には欠かせないプロットと呼べるものがなぜか存在しない。富と貧困、表現の自由と道徳、プライドと偏見、寛容と秩序などなどリバタリアニズムの限界にまつわる各種事例をならべただけで、見終わった後「So what?」と監督に思わず結論を尋ねたくなる構成なのである。パルムドール受賞作というふれこみだけで観賞したものの、巷の評価が真二つに割れた理由はおそらくそのストーリーテリング欠如に由来しているのだろう。もっと寛容に?表現の自由だ?っていわれてもねぇ、チャラにするってわけにはなかなかいかないのよ、これが。
全101件中、1~20件目を表示