「どこにも愛が見つからない」ラブレス DOGLOVER AKIKOさんの映画レビュー(感想・評価)
どこにも愛が見つからない
ストーリーは
2012年、セントペテルスブルグ。
高層ビルが建ち並ぶ郊外に、12歳の少年アレクセイの住むアパートがある。見渡せば森がどこまでも続いている。その眺めの良いアパートは今、売りに出されている。両親が離婚して、それぞれの愛人と一緒に住むために、処分しようとしているからだ。そしてアレクセイを両親のうちどちらが引き取ってそだてるのか、互いに養育権を放棄していて争いが続いている。しかしアパートが売れるまで、夫婦は今のアパートで顔を合わせなければならない。会えば少年のことで口汚い争いが避けられない。
高層アパートから一歩外に出ると、そこにはまだ美しい森があり、大きな湖がある。アレクセイは、学校の帰り、遠回りして森を通って家に帰る。冬が終わりつつある。森を歩けば雪が溶けた後の落ち葉が、乾いた音を立て、湖は静まり返っている。アレクセイは落ち葉に埋もれていた赤と白の長いテープを拾い、小枝にからませて、エイヤと高い大きな樹に向かって投げる。テープは手の届かないずっと高い枝にひっかかって風になびいている。
母親のゼ―ニャは街の大きな美容院のマネージャーをしている。高給取りや中流階級の妻たちが顧客だ。彼女の愛人、アントンは離婚してテイーンの娘が外国留学をしている。彼がひとりで住むアパートは、近代的で広々としていて居心地が良い。
父親ボリスの愛人マーシャは、母親と一緒に小さなアパートに住んでいて、出産まじかだ。赤ちゃんが正式なボリスの子供として生まれてくることができないので、不安を抱えている。ボリスが泊まりに来るときは、マーシャの母親が、叔母の家に泊まりに行かなければならない。
売りに出ているアパートを見に、若い夫婦が訪ねて来た日、再びボリスとゼ―ニャは大喧嘩をする。アパートが売れたらサッサと息子を連れて出て行ってよ。なんてことを言うのだ。子供には母親が必要だ。うそ、子には父親こそ必要でしょう。何だったら寄宿舎のある学校に転校させて、そのあと軍に入隊させればいいじゃない。もううんざりよ。
ゼ―ニャは席を立ち、ドアをあけたままの洗面所に入り排尿し、乱暴にドアを閉めて、寝室に閉じこもる。その開けたままだった洗面所のドアの陰には、声を出さずに泣きじゃくるアレクセイが隠れていた。大写しのアレクセイの顔。翌朝、アレクセイは朝食を取らずに学校に走っていく。
2日経って母親は家にアレクセイが居ないことに気付く。互いに愛人の家で過ごしていて、相手が家に帰っているとばかり思っていたので、学校から2日間登校していないと連絡があるまでアレクセイが家に帰っていないことに、誰も気がつかなかったのだ。ゼ―ニャは警察に連絡する。事情聴衆の後、郊外に住む、アレクセイの祖母、ゼ―ニャの母親の家に行っているかもしれないので、確かめるように、警察に言われて、夫婦は3時間運転して、祖母の家に向かう。しかしゼ―ニャの母親は、彼女に輪をかけたような自己中心の寡婦で、アレクセイのことを心配するどころか、夫婦の突然の訪問を非難するばかりだ。再び夫婦は家に向かう。醜い口論が果てしなく続く。警察の人手が足りないので、捜索にボランテイアの力を借りることになる。約40人のボランテイアが警察の指導のもとに、森に捜査を広げる。
アレクセイの友達の情報から、森の奥で打ち捨てられた昔の工場跡にボランテイアが向かう。その地下室でアレクセイのジャンパーが見つかった。しかしアレクセイの姿はどこにも見つからない。しばらくして警察では、身元不明の姿かたちを留めないほど傷だらけの遺体が見つかり夫婦が呼ばれる。しかし二人は、それをアレクセイだとは認めない。DNA検査も夫婦は拒否する。
捜査は打ち切られる。時間が経ち3年後。人々はアレクセイのことを忘れてしまったかのようだ。ボリスは、赤ちゃんの父親になり、マーシャが母親と一緒に住む狭いアパートで一緒に暮らしている。ゼ―ニャは、恋人の初老の男と暮らしている。
森の、アレクセイが学校帰りに通った湖畔。大きな樹の枝にアレクセイが放り投げて、枝に引っかかったままの赤白のテープが、風にゆれて空を踊っている。
そこで映画が終わる。
映画の初めの方で、両親の諍いに身の置き場がなく洗面所のドアの陰で泣いていたアレクセイが翌朝駆け足でアパートの階段を下りるシーンを最後に、二度と映画の中で姿を現さない。雪の舞う廃墟になった工場でジャンパーを脱いだアレクセイは、そのまま姿を消してしまった。生きていないことだけは確かだ。彼の傷ついた魂は、大木の枝で風に舞い、空に向かって羽ばたくテープのように自由に飛んで行ったしまった。
現代社会で夫婦が別れ、互いに子供を押し付け合っているというどこにでもある話。とても単純なストーリーなのだが、見ている観客は胸に鋭利な刃物を当てられたようなインパクトを与える映画だ。映画の始まるシーンでは、冬のおわり、寒空の下、乾いた空気と枯れ葉の映像が写される。かすかにピアノの音が聞こえてくる。低い Eの音の連弾。この音が段々大きな音になって響き渡る。呼吸が速くなって、恐怖感が増してくる。音が最大限まで大きくなって緊張感が最大限まで高まる。そうして映画が始まる。映画の最初のシーンで、もう監督は観客の緊張感と集中力をわし掴みにしてしまうのだ。
少年が誘拐されて血に染まったり殺人犯に切り刻まれる訳でもなく、どこの目鼻があるのかわからないほど殴られ虐待されるわけでもない。映画の中で、血が一滴として流れるわけでもないのに、これほど恐怖心が湧き、心が痛む映画も珍しい。ひとえに監督の作り出す映像の手法の巧みさにある。
監督は「現代には濃いかたちで存在する愛がない。そのラブレスな状態を見せたかった。」「AIに職業が奪われていくような時代です。我々は他人を犠牲にしなければ生き抜けない。狂気じみた生存競争のなかにいる。芸術家は時代を切り取る者。今の状況を映す映画や文学が多く生まれるのは当然のことです。」と言っている。この監督は2014年にロシアで、国内の官僚による腐敗を告発するフイルムを作って、その発表を政府に止められた経緯がある。それを同情する映画界の国際的な支持があって、この映画がカンヌ映画祭で審査員賞を与えられた、といわれている。政府の内部告発が、現代社会への告発にぼやけさせられた、そんな形でしか映画が作れなかった、ということかもしれない。
ゼ―ニャはいつも携帯電話を見てばかりいる。恋人とデイナーテーブルに付いているときでさえこれを離さないで、グにもならない写真を撮っては自己陶酔している。アレクセイが居なくなって3年経って恋人と一緒に暮らすようになっても、二人の間に会話はなく、彼女が幸せそうには見えない。
夫のボリスもゼ―ニャが妊娠して結婚せざるを得なかったように、新しい恋人マーシャが妊娠して再婚したが、そのことによって彼の人生が変わったわけでも、新しい結婚生活に愛が溢れているわけでもない。赤ちゃんが泣くわめくと、ベビーコットの中に無理やり押し込んで、赤ちゃんが泣くわめこうが抵抗しようがお構いなしだ。
ゼ―ニャと母親とのやり取りも見れば、ゼ―ニャが母親から充分に愛されることなく孤独な子供時代を送ったことは容易に想像できる。おそらく夫のボリスも同じだろう。どこにも愛がない。愛など見つかる筈がない。
愛情をもって育てられなかったアレクセイがどれほど心に深い傷を負っていたか。映画の初めで彼が夫婦喧嘩を聞かされた翌日に姿を消し、2度と姿を現さなかったことで彼の心の傷の深さを思い知らされる。
自分以外の人を愛せない人は、結婚相手を変えてみても、子供を変えてみても,愛は見つからない。なぜなら、愛はどこかに落ちているものではなく、それを持っている人と一緒になれば得られるものでもなく、自分で見つけて、育てるものだからだ。相手の生き方の中に入って行き、自分と違う相手を発見して、そのことに喜びを見出すことだ。自分と違う相手の存在を喜び、共有できるものを相手と一緒に探すこと、そういった努力を伴う行為が愛であり、人も自分も幸せにすることができる。
ラブレスという親から子への虐待を止めるには、愛が欲しいと相手を変えて見たり、別の土地に移って見たり、愛が欲しいと叫んでみても、かなえられない。ラブレスは親から子へ虐待という形でおこり、その子供が再び同じように、次の子供に虐待を繰り返す社会的な不幸の連鎖を招く。愛を見つけるには、自分を見つめることだ。自分でなく相手との違いを喜び、共感することを喜ぶことだ。愛する人が居るということが、どんなに大きな生きる支えになるか、喜びも悲しみも、怒りや驚きや笑いや、憎しみさえも愛に値する人がいるから起きてくる感情だ。愛するもののためにどんなことでもしたいと思うとき、生きる価値も出てくる。
映画ではアレクセイを探し出すためにたくさんのボランテイアが出てくる。実際にロシアで活躍するリーザ アラートという組織だ。頼まれてやるわけではない。自分の子供が突然居なくなったらどう感じるか、よその親の心配を自分の子供を心配するように思って、警察の捜査に協力する。集まって来るのは普通のおじさん、おばさんたちだ。素晴らしい人々。オーストラリアでも山火事の消防隊、ビーチでのレスキュー、山で行方不明になったひとの捜査隊、みなボランテイアで、彼らは人々の英雄だ。こうしたボランテイアの経験者は誰からも尊敬されている。人の為に生きること、それが自分のために生きることだ。このトルストイの言葉はいつも私を勇気付ける。
音楽がとても良い。ユージン ガルペリンと、サッシャ ガルぺリン兄妹の作曲だという。映画の初めのE音の連弾は、映画の最後でもこの激しい連弾で終わる。この迫力が素晴らしい。
どのシーンで使っていたのかとうとうわからなかったが、アルヴォ ペルトの曲も使われているらしい。エストニア生まれの宗教音楽、古楽、三和音などを得意とする作曲家だ。彼の音楽は鎮魂の音楽と言える。この人の世界が、この映画の湖や森の映像にそっくり重なって来る。
関係ないけど、一流企業に勤めるボリスの会社のランチシーンが面白かった。アメリカ映画だったら、女子はバナナ、リンゴとヨーグルトとかでゴリラのランチと同じような内容だし、ごっつい男なら野菜なしの骨付きステーキが普通みたいで、もう見飽きたけど、ここではさすがロシア。ボリスはでかいポテトがいっぱいと肉団子。彼と「離婚したら出世に響くかなあ。」などとしゃべっている同僚は、ブロッコリー山盛りと魚のシチューみたい。それにデザートらしき小皿がついていて、ふたりとも別の小皿に入った生野菜から食べ始めていたのには、感心感心。健康ですね。愛がないけど。