「どうして私ばかり、」モリーズ・ゲーム ipxqiさんの映画レビュー(感想・評価)
どうして私ばかり、
こんな目に遭うの…?
と、言いたくなるような出来事が続いても、主人公は決してそれを口にはしない。
ただ歯を食いしばって、自分が奪われたものを取り返そうと足掻くのみ。
まるで運命とか天とか父なる神とか、そういう大きなものに挑戦して、復讐を企てているかのよう。
才覚も知性もあり、それなりの成果も得られるものの、彼女の心の空隙を埋めることは叶わず、どんどん危険な領域へと足を踏み入れていく。
舞台も主人公もまったく違うけど、ハートロッカー(苦痛の箱)という言葉が思い浮かぶ。
彼女は観客(の代理である弁護人)に動機については黙して語らず、ひたすら拷問具のような過酷な状況に進んで立ち向かっていく。
なぜそこまでするのか、なにがそうさせるのか…? それが作品を通じて最大のフックとなる。
オールドスクールなキャスリン・ビグローも含め、過去のハリウッドならば寡黙な男性主人公として描いていたようなパーソナリティを、この作品では華奢な女性が演じている。
つまりこの主人公はある意味ダンディなんだと思う。
※以下、「市民ケーン」「ソーシャルネットワーク」「スティーブ・ジョブズ(マイケル・ファスベンダー版)」のほんのりとしたネタバレあり
脚本家アーロン・ソーキンはこれまで、ザッカーバーグやジョブズといった現代の市民ケーンたちを主人公に、彼らの求めても得られないものについて語る時に語ること、つまり「バラの蕾」を描いて成功を収めてきた。
彼が初めて監督を務めた今作では、同様のストーリーでありながら、主人公をそれほど名の知られていない元アスリートの女性にしたことが、地味ながら大きな違いを生んでいる。
そのことが終盤、既存の主人公との差異としてはっきりと現れる。
ある人物との一見静かな対話シーンに、彼女の抱える謎の正体と、彼女だからこそ得られた成果とが同時に現出し、じわじわと救済とカタルシスが押し寄せる。
(まあジョブズも「かっこいい製品を作ってやる!」とは叫ぶわけだけど…)
そこで初めて、なぜ導入がああいう方法だったのか、脚本の仕掛けにも気がつく。
目につくようなどんでん返しではないけど、寄り道なしで結末に向けて一直線に集約していく全体像がはっきり見えてくる。
地味でパーソナルなドラマを力技で押すのではなく、あくまでしっかりとした構成の力で観客を導いていく。こういう脚本に私は本当に弱い。
この新しくて強いヒロインの苦闘は、あくまでマイナー志向ではあるが、そのぶん刺さる人には深く突き刺さるドラマだと思う。
正直、同時期に公開された「アイ、トーニャ」ほど注目を集めはしなかったが、実際のところあの作品が元気がよくて愛嬌のある妹とすれば、今作は静かだが端整な姉みたいな作品だと思う(妹の方が持て囃される理由もわかりますが…)。
こと家族の中で「期待の息子」ポジションを内面化し、華やかな毒親界隈の末席でひっそりと自分を持て余す人たちにとっては、きっと大切な一作になると思う。