「これは月面着陸の映画ではない」ファースト・マン しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
これは月面着陸の映画ではない
観る前から、どういう映画か、何となく予想は付いていた。
まずデイミアン・チャゼル監督の過去の作品を思い出してみよう。
若きミュージシャンを死ぬほどシゴいた「セッション」、夢の実現のために愛を喪わせた「ラ・ラ・ランド」。そう、本作はこれらの作品と同一線上に置くことが出来る。
つまり、徹底して主人公たちにハードワークさせる、ということだ。もう、それは容赦なく。観ているこちらが「もう、やめて」と思うほどに。
ハードワークの末、どの作品でも主人公たちは「何事かを成す」。
本作では、人類初の月面着陸という偉業。
だが。
「ここ」で予想を裏切られる。
「そこ」ではないのだ。
そう、主人公ニールの成した事は「月面着陸」ではない。
幼くして死んだ娘を弔うことなのである。
本作では、画面の情報量は少ない。
登場人物たちの感情表現は最小限に絞られていて、なぜニールが娘の形見を月に持っていったのか、その経緯も理由もわからない。
だから、ラストシーンに驚く。
本作は140分超と長い。この尺で語ってきたのは、月面着陸のサクセスストーリーと見せかけて、実は愛する娘の追悼の旅だったのである。
だから本作には、全編を死の気配が覆っているのだ。
この娘にまつわるエピソードが本当かどうか、僕は知らない。
しかし、偉業とは、こういうものなのだろう。
国の威信を賭けたソ連との宇宙開発レース、注ぎ込まれる巨額の税金に対する批判。
こうした「大きな物語」は、現実には個人の人生とは関係ないのだ、ほとんど。
お国のためになんか、こんな死と隣り合わせの挑戦なんて出来るわけがない。
もちろん、必ずしもニールは、月面着陸をするということを初めから約束されていたわけではない。
そこには偶然や運もあった。
しかし、映画が始まって早々に、彼が宇宙飛行士に応募して面接を受ける場面ではっきりとこう語っている。
「宇宙飛行士になることは、娘の死と関係がある」と。
そう、映画が始まってすぐに、彼は娘を弔う旅を始めていたのである。
彼はずっと、娘の死をどう受け入れていいか分からなかった。だから言語化できないし、ゆえに娘の話はしなかった(できなかった)。
アポロ11号に乗るためには厳しい訓練も多くあったはずだが、そのシーンは描かれない。なぜなら、これは宇宙飛行士としての挑戦ではなく、娘の死を受け入れていく旅だからだ。
そして最後に彼は月に行き着き、そこで娘のために涙を流す。そう、わざわざ月面で、である。
本作で彼が続けてきた旅は、月への旅ではない。娘を弔う旅だったのだ。
地球に戻ったニールはガラス越しに妻と向き合い、そこで映画は終わる。
しかし、僕たちは想像できる。
娘の死を乗り越えて、ここからが彼の人生だろう、と。
これは死と再生の物語なのである。