「“レディ・バード”が“クリスティン”になるまで。」レディ・バード すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
“レディ・バード”が“クリスティン”になるまで。
○作品全体
“レディ・バード”ことクリスティンとそれを取り巻く環境の設定が秀逸だ。生活が成り立っていないわけではないが決して裕福とは言えず、家族関係は崩壊してないものの脆い箇所が多い。友達もいるがイケてる子ではない。身の回りにあるべきものは存在するが、どれも物足りなさがあって、それがクリスティンを苦しめる。
そこでクリスティンによって生み出された、今の自分より満ち足りた世界へ羽ばたく予定である“レディ・バード”という別名。“レディ・バード”は田舎町で青春を終えるつもりはないし、ダサい世界から巣立っていく予定なわけだ。作品序盤はそんな“レディ・バード”の…いや、“レディ・バード”であるための自由奔放さが描かれる。クリスチャンが後で自省するところからクリスティン自身の自由奔放さとも言えるが、その「女子高生の無敵感」が面白くもあり、一歩間違えば大事になってしまいそうな危うさが表裏一体になっていた。
物語中盤では今の世界から脱却するために、話が噛み合わないイケメンに近づこうとし、そのために交友関係が広い女友達も作ろうとする。ここからはクリスティンが築き上げてきた自分の世界とは遠ざかって、“レディ・バード”が生きる世界に近づいたように感じた。だからこそクリスティンが、クリスティンの取り巻く環境を少し離れて見つめることができたのではないかと思う。それによって今までクリスティンが過ごしてきた環境が、どれだけ好きなものだったかを確認することができた、というような。
そしてその「好き」を明確に言語化したのは学校のシスターだろう。逃げ出したいからこそ「注意して見る」をしていた世界。目線を変えるとそれは「好き」になる。「好きの反対は無関心」なんてよく言うけど、必ずしもそうではないと思う。でもクリスティンが親友とプロムを楽しんでいる姿を見ると、クリスティンはこの街と人が「好き」だったんだろうと確信できた。
終盤、ニューヨークで自己紹介をする時に「クリスティン」と名乗るクリスティンは等身大の自分を認めたシーンとして、ベタかもしれないけどすごく良かった。
そして初めて車に乗ってサクラメントの景色を見たクリスティンの話も凄くいい。その景色は別の人からすれば凡庸な景色なのかもしれないけれど、クリスティンにとってはいつもとは違う別の視点で見せてくれる景色として、なにものにも変えられないものに触れた、というのが伝わってくる。
成績がBマイナーの人を「ごくありふれた」と言う言葉で片付けるにはあまりにももったいない。その人の見ている景色には成績には表せない経験や体験というグラデーションがあるのだから。
映画はそのグラデーションを教えてくれる。改めてそれに気付かされる作品だった。
○カメラワークとか
・横位置カットが良かった。登下校のシーン、ラストのニューヨークの街を走るシーン。最初は背景(街)と並行で居続ける、街と交わりたがらないクリスティンという構図だと思ったけど、むしろ街の中で生きるクリスティンっていう構図だったのかな。ニューヨークのシーンでは今までとは逆で、画面上手側に走っていく。ポジティブ・ネガティブとかそういうのでなくて、心境の変化を画面の印象で与える、と言った感じだろうか。
○その他
・クリスティンの母のシーンは特に絶妙だったなと思う。単純にクリスティンと対立している人間としては描かず、選んだ服で盛り上がったり、泣いてるクリスティンを優しく慰めたりもする。
シスターが「好きと注意して見る」の話をするシーンの次のカット始めで母を映すのが一番よかった。クリスティンと同じで、母もクリスティンを「注意して見る」をしてるんだよ、とカット割で語る感じがいい。
クリスティンの性格もそうだし、車からの景色を眺めるという経験も母譲り。クリスティンを形作るものとして母親というものが大きくて、だからこそ感謝の意を伝えるラストにグッとくる。