「レディ・バードが飛び立つまで」レディ・バード ヴィアゼムスキーさんの映画レビュー(感想・評価)
レディ・バードが飛び立つまで
青春映画と呼ばれる作品は往々にして甘酸っぱく、ほろ苦く、とても優しい。それは作り手がかつて同じように(あるいは違うとしても)経験した「青春」としか呼びようのない過ぎ去った時間を慈しみ、愛おしみ、そういった過去を振り返るような視点が不可避的に介在するからだろう。
自らレディ・バードと呼ばせる"痛さ"には身に覚えがある人もいるのではないだろうか。
グレタ・ガーウィグが演じた『フランシス・ハ』のイタい女性の青春時代版とでも言おうか。今作のシアーシャ・ローナンはわざと肌荒れをさせたニキビ面で、青春時代特有の揺れ動く繊細な心情を表現している。
脇を固める俳優陣もみんないい。ティモシー・シャラメくんはいま脂が乗っているこその存在感。そこにいるだけで艶があり、だからこそ逆にクソ野郎感が際立つ。ルーカス・ヘッジズくんもあのちょっと見た目サイコな感じだけど純真!って感じで最高だ。親友のビーニー・フェルドスタインは全部最高。
友情、恋愛、挫折、喪失、達成、旅立ちとか青春要素は数あれど、『レディ・バード』は家族、とりわけ母親との関係性が特権的に描かれている(グレタ・ガーウィグの半自伝的作品?)。
大学に受かるの受からないの?助成金出るの出ないの?などなどドタバタするが、サクラメントからニューヨークの大学へと進学する、つまり故郷を出るという「タイムリミット」が設定としてある特別な期間が舞台であり、そのリミットは映画の終わり(物語は必ず終わりを迎える)の予感と重なり我々の胸を打つ。
ニューヨークの大学への進学を母親だけに秘匿していたことから、母と娘に再び不和と葛藤のドラマが生起するが、それは旅立ち当日の慎ましやかで感動的な母親の行動を準備する。母親が紙に何か書き付けては丸めていたカットもその後きちんと判明に至る。このあたりは演出は周到であり、たとえ事実だとしても少し鼻白むが涙腺を刺激されてしまう。
こういう物語が高い評価を得るというのは嬉しい。02年頃を舞台にしているので9.11とリーマンショックの間。本格的な不況前だが、それでも景気が決して良くない状況下なのだろう。トランプ政権誕生に一役買ったといわれるホワイトトラッシュ(白人貧困層)を想起させ、共感を呼ぶ社会的文脈もある。
あれだけ自分のことを「レディバードと呼んで!」と周囲に促していた彼女(クリスティン・“レディ・バード”・マクファーソン)が、ニューヨークへ渡った後に自己紹介する。「私はクリスティン・マクファーソン」。そこではもう"レディ・バード"という名はどこかに飛び立っている。この物語は、彼女が故郷サクラメントから旅立ち、名前から"レディバード"が飛び立つまでを描く。それはまさしく青春時代から大人へのテイクオフでもあるのだ。